日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成15年7月号 第184号 改訂 第16号

このごろの日蓮宗
日蓮宗現代宗教研究所長 久住謙是 

 このごろの日蓮宗は、なんでもあり、の様相である。
 日蓮宗について、自明の理、当たり前のことを言わせていただきたい。

<立正安国の精神で実践しよう>
 権力者によって法華経への帰依を強要し他の教えを禁ずるのは、日蓮宗のとるところではない。それは、かつて王仏冥合を唱えた某巨大新興教団の主張である。天変地夭を教義にストレートに結びつけるのも、日蓮宗のとるところではない。これもまた、王仏冥合を現在主張する某法華系新興教団の言うところである。
 日蓮聖人は立正安国論で、浄仏国土という菩薩行がない個人成仏を願う念仏の生き方を批判したのである。
 私達に自身の安心立命のみを願う心があるならば、自らを折伏しなければならない。そして、仏国土顕現に尽力しなければならない。
 日蓮聖人は、天変地夭に苦しみ、他を思いやらない念仏の生き方に苦しめられる人々を見て、具体的に救いの道を示されたのである。
 七百五十年後の私達が、この日蓮聖人の誓い願いを共有できないとしたら、日蓮宗は成り立たない。
 岩間湛正宗務総長は、今年三月の定期宗会施政方針挨拶で立正安国論の冒頭を引用し、「日蓮聖人の行動の原点は、当時の人々の悲惨な状態への憂いとその救済にあった」と明言し、現代社会に私達の目線を合わせて行動すべし、と言われている。

<お題目を唱えて妙法を弘めよう>
 いろいろな生き方があり、信仰がある。それが個々の人の心の中にあるうちは、何でもいいかもしれない。しかし、口に出し、身体を動かしてその教えを実行するとき、その中身が問題となる。いわゆる、オウム真理教、「明覚寺」問題である。
 信仰するほど円満な人格となり、自他ともに「仏様のような」言動になるはずである。
 が、似て非なる宗教にかかるとその逆で、人格は崩壊し社会性もなくなってしまう。
 私達が求めるのは、もちろん前者である。
 日蓮聖人以来、先師先輩は永々として妙法の流布に尽力され、今日の日蓮宗を築かれた。その成果が、五千二百ヶ寺、八千二百教師、四百万信徒である。
 今これに安住し、妙法の流布を忘れ、日蓮宗だか何宗何派だかわからぬ通佛教になってしまっている感がある。葬儀と法事に追われ、法を説かず、弟子を育てずにいる(と見えて仕方がない)。
 妙法の流布に「狂奔」するお坊さんなど、まず見当たらない。適当に、現状のままでいければいいのさ、別に、という声が聞こえてくる。
 求道にとどまるな。布教せよ。私達は、お題目を下種結縁する使命がある日蓮宗である。
 法城は外からは破られないが、内にいる僧侶寺族の無自覚無配慮から破られてしまう。
 社会教化活動も、そう。心にお題目を据え、日蓮聖人の教える同苦の思いから人助けをするのが、法華経の信者・行者の姿勢であろう。偽善は許されない。

<折伏で助け摂受で救おう>
 信仰に迷い苦しむ人をどうしても助けてあげたいと思って厳しい言葉も出てしまう折伏、相手の心ををゆっくりと解しながら導く摂受、どちらも慈悲の心に基づくもので、腹をくくった決定心がなければできない布教方法である。
 しかして現状は、折伏・摂受を論ずる以前の通佛教状態ではないか。
 自らの思いと行いを問うことなく布教するのは、間違いである。まず自らを問え、そして人に語れ、行え。生半可では、折伏・摂受はできない。
 故石川教張師は、「日蓮なき日蓮宗」と厳しく指摘しておられたではないか。
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