日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成14年5月号 第170号 改訂 第2号

「お題目総弘通運動の総括に関する中間調査アンケート」速報(2)
日蓮宗現代宗教研究所 

 「お題目総弘通運動の総括に関する中間調査アンケート」の設問の(25)と(26)は、文章による回答である。設問(25)は「お題目総弘通運動への取り組みについての自己評価」であり、(26)は「戦後の宗門運動への意見」である。文章で回答できるよう空欄を設けておいたので、アンケート調査に回答を寄せてくれたほとんどの人が、大なり小なりそれぞれ感想を含めた意見を述べてくれた。
 お題目総弘通運動を通しての「宗門運動」についての多くの教師の率直な意見だけに、今後のためにも重要なものである。回答内容は相当な文章量になり、そのままでは全部は載せきれないが、趣旨を踏まえて集約し言わんとする真意を損なわないようにしてまとめた。同意見のものでも、なるべく多くを載せた。
 今日まで取り組み続けてきた運動への評価と、今後宗門運動の取り組みへの提言、更には宗門はいかにあるべきかという幅広い意見まであった。そこで、次の四項目に分けて集約した。
1、お題目総弘通運動への個々における取り組みの自己評価
2、お題目総弘通運動全体の評価と問題点
3、今後の宗門運動への提言
4、その他関連する意見


1、お題目総弘通運動への個々における取り組みの自己評価
効果が上がるように頑張ったが、成果は計れない。信仰運動としては期間が長すぎたようにも思う。建物など記念事業と称してできたのはいいが、肝心な信仰面の育成が遅れてしまった。
旧態依然とした寺院の経営の在り方に振り回されて、運動といっても特別に新しい教化法があるわけではなく、月回向の毎日に明け暮れているうちに期問が過ぎた感じだ。体カも隈界だし、結局は地道な檀信徒教化こそお題目総弘通運動との認識である。
お題目総弘通運動を機会に写経をするようになって多くを学び教化上大いにプラスになった。子供たちにも積極的にお題目を唱えさせ、子供たちが寺院行事に参加するようになった。
身延山、清澄寺に登詣するようになり、報恩参拝を通して寺檀が和合し、廃寺寸前の寺の復興整備もでき、檀信徒も寺院護持態勢の中から信仰心が芽生え深まったし、一定の成果は上がったと思う。教化のための発行物はありがたかった。
日蓮宗以外の人達にお題目や法華経を知ってもらうのに格好の機会と思い、努力した。お題目を唱え書写し本仏を拝する人を一人でも多く作ることができた。
お題目総弘通運動といってもお祭り的要素が多分にあり、それ自体が宗勢の伸長に効果をもたらすとは思わないが、わが寺ではこれを機に檀信徒を増やすチャンスとして生かそうと頑張った結果、檀信徒の大幅な増加を見ることができた。
18年計画は長すぎた。この第3期に入ってやる気が起きて、精力的に教化活動をした。その成果は信徒数と寺院の整備に現れ、それなりに成果があった。総弘通運動は永遠の課題として取り組んで行きたいと思う。
自坊だけのことを考えると運動は効果があったと言えよう。信仰相談を通じて法華経の信徒が増えた。いいか悪いかは別として、寺院の慶讃事業を進めるうえでお題目総弘通運動という好機を活用し、祖師への報恩に謝する事ができたと思う。ただ大聖人の目からご覧いただくとお心にかなうほどのことが出来たとは思えない。今後も更にお題目総弘通に邁進したい。
改めて信仰運動を掲げなくとも、地域に即した布教活動をしている。唱題行をしっかり行っていくことが大事だと思う。自坊では杜員研修を依頼されたり、少年少女の修養道場を行ったり、唱題行を中心に実施している。これが総弘通につながっていると確信している。宗務院が提唱して全国に号令をかけるのはいいが、実状に即していないので困ることもあった。
宗門全体としてはあれもしたこれもしたというイベント屋になって、自己満足的な運動となってしまってはいなかったか。自坊では自分なりの運動は継続している。地道ではあるが、信行会、ボランティア活動と以前からの教化活動は継続している。
3期の実行項目をそれぞれ各期の方針に従って努力した。その結果、寺院は整備され一新できた。檀信徒はかなり増加した。日常の布教活動が総弘通だと心得て頑張った結果、寺門が発展し檀信徒を増やすことにつながった。自己研鑽にもなった。
信行会を行っても、年寄りが死に、若者は都会に出て、残っている働き盛りは時間的に無理、という状態であるが、少ない人数で継続している。管区の大会にも参加者を集めるのに苦労する。檀信徒は生活に追われお寺どころではないし、特別賦課金も頭が痛く、運動の効果はあまりなかった。
教職を退職してから教化活動をするようになったが、総弘通運動そのものにはあまり関係できなかった。与えられた日程や宗門行事は、責務と思ってこなしているのみ。これではいけないと反省している。
お題目を唱えて杜会浄化に務め、檀信徒の教化に精進するのが僧侶の役割と思っている。自己評価すれば自分なりに微力を尽くしたという満足感はある。
振り返ってみると、たいしたこともできず慚愧に堪えない。寺院を立て替えて立派にするような慶讃事業もしなかった。お題目を写経させてお金をもらうようなこともできなかった。新新宗教にももとるような総弘通運動は、わたしにはできない。

2、お題目総弘通運動全体の評価と間題点
全体的に盛り上がりがなかった。お題目信仰と宗徒意識とに相当ずれがあったのではないか。中央は立派なことを打ち出されるが、宗徒は根無し草のごとくで、宗門が本当に異体同心となっているか。
お題目総弘通運動は、本宗の宗徒一人一人がお題目を一人でも多くの人に勧めようという運動であるから、いたって分かりやすいように思うが、運動項目が繁雑でポイントがはっきりしなかったのではないか。もっと平易に単刀直入にこれをこうする、みんなついてこい、みたいな強い指導力と分かりやすい目標があってほしかった。
信徒が増えたとか減ったとか、一喜一憂すべきではない。たとえ一人でも大盤石の信徒をつくることこそ先決である。その根本は教学である。本尊の勧請形式が四つも五つもあるようでは祖意に叶わない。総弘通の前に内を見つめ直す必要があろう。
運動はすべて失敗に終わったと見ている。総弘通といっても檀信徒がとりわけ増えたとは思えない。一般大衆の共感を得るようなものは何もなかった。
お題目総弘通運動は一生の命題、期間など設ける必要なし。お題目総弘通運動というような期間を作り仰々しいテーマをきめて行うより、継続的かつ地道な不断の実践こそ大事であろう。この方が本当の弘通になるのではないか。
すべての人にお題目を唱えてもらうことを究極の目的としているなら、総弘通運動を持続させていくことが妥当だろう。戦後の世相と相対してみると、お題目総弘通運動の名は実に良い。
寺院を布教の拠点とするならば、そこにいる教師は「お題目総弘通運動」などと名前をつけようが付けまいが、積極的に布教するのが当然である。名称はいらない。
羅列された運動項目は素晴らしいが、実際は金ばかり集めて、線香花火的大会が先行するという、末端寺院を軽視した運動内容であったと思う。本当のお題目総弘通運動とは何か。外に向かって布教を行い、実行することである。お座なりな記念大会や記念事業で内を飾ることに一生懸命になってはいなかったか。イベント、土建工事、何でもいいから檀信徒を動員し増やせばよいというような運動に堕してしまったように思えてならない。
お題目写経がよい結果をもたらしている反面、納経料の不徹底(五百円、五十円、その他いろいろ)、目標数のいいかげんさ。納経時期のあいまいさ、納経用紙の配布と集まった実数の差。各寺院に眠ったままになった用紙が哀れである。
宗門運動では内には檀信徒を教化することが大切であるが、お題目総弘通運動というからには、未信徒を教化してこそ、その意味を成すのである。そうした基本的認識をしっかりもって、行って行くべきである。お題目総弘通運動自体は素晴らしいものであり、これからも運動としての基幹であるといえる。ただ、宗門として全体で行うものと個人で頑張るものとが一緒になってしまってはいなかったか。運動としての一貫性にも欠ける。教師にとっては毎日が総弘通であるはずだ。
18年計画は長いように思われるが、その成果からみれば十分でなかった。今後もお題目総弘通運動を継続し、お題目をしっかり唱えさせ、喜びを感じてもらえるまで徹底すべきだ。大会も、信行が主なのか余興が主なのか分からないような、趣旨にも合わない内容のものが多く、参加する意味がなかった。
お題目総弘通運動は未信徒を教化して信徒を増やそうとすることにその目的があったはずだが、実情は宗内への布教に終わった感がぬぐえない。運動期間の長さより、内局が変わると運動の方向性も変わったりして一貫性に欠けたように思う。運動本部が独走し、実際に動く教師との溝が大きく、ピントのずれた運動となってしまったのではないか。目立ったのは箱物だけだった印象が強い。
信仰運動は短期がよい。具体的な目標に絞って、宗門全体が一つの方向を目指せるものがよい。お題目写経は分かりやすく、檀信徒にとっては個々に参加意識も芽生えてよかったと思う。
お題目総弘通運動は永遠のテーマであるとするなら、総弘通が実現するまでそのまま継続したらいいと思う。信仰運動は一定の期間を設けて計画性をもって行うものである。だが満期になってもそれで終わりにせず、実現できなかった事項は継続すべきである。計画しても実行出来なかったら、絵にかいた餅に等しい。それでは意味がないと思う。
運動が宗門の教勢拡大を狙っていたとしたら、お題目総弘通運動の効果はあがっていないのではないか。それはただ、目先をかえて名ばかりの運動だから教師も地に足がついていない感じであった。宗門のマスターべーション的なものに終わっている。いずれ、救いようのない時代が到来しよう。格好だけでなく中身をもっと実状に合わせて取り組むべきだ。
指導要綱に示された運動趣旨と盛りだくさんな項目を百%実践すれば、運動は成功である。焦点をどこに置けばいいのか分からず、時折空しく思う事もあった。
お題目総弘通運動では、信仰相続がうまく行かなかった点がある。若者は都会で就職し、都会で家庭をもって地方へ帰ってこない。
支部の創設があっても、名ばかりで旧態依然とした感じがぬぐえなかった。総合的道場を各県に建設するぐらいでなければ、伝道宗門へ脱皮はできまい。寺院の統廃合とか、檀信協を布教に活かす方向にもっていく変革が必要。お題目総弘通運動は名ばかりのものになってしまうと思ったら、その通りである。

3、今後の宗門運動への提言
戦後の宗門運動は、それぞれ意味を成して取り組まれたことは確かだ。立正平和運動しかり、護法運動しかり、お題目総弘通運動も細かい計画を立てて実行できるように仕向けられていた。だが問題は、全国的な組織活動としての展開が本当に出来たかどうかだ。それぞれその運動の趣旨を十分理解し実行出来たか否かは、それを担う教師自身のやる気の有無による。教師にその自覚と熱意があったかを考えると、否と答えざるを得ない。組織を動かしている者たちにも責任があるとも言えよう。
今後運動の名称は変わっても趣旨は変わる事なく、本宗の特色を生かして対杜会的運動を行うべきだ。本宗の存在価値は、お題目で人心の浄化をするにあり。思想信条をこえて社会運動に邁進せよ。
宗門運動は何か打ち出さねばならないからという運動になりがちだ。また、このときとばかりに記念事業をというのが目的のごとくになってしまいがちである。信仰を主体とした運動なら今後も行っていく意味があり、賛成だ。
運動を継続するには、事業事務局を作るより信仰を前面に出した部署を設けることが大切。金集めと箱物が優先するようでは、同じ繰り返しになるだろう。現在の宗門機構において信仰運動は継続する必要がある。教師の中から運動を起こそうとする気概がのぞまれる。その気概が乏しいところに問題がある。
運動の可否は、当局の指導性による。強い指導性を発揮するには、口先で言うのではだめ。自ら積極的に行動すること。地方寺院は閉鎖的な面があるから、必要性は自覚しても持続できにくいが、運動は継続すべきだと考える。
僧侶の自己満足に終わっている。世間が我々に何を期待しているのか、冷静に判断して信仰心を深めつつ考える必要があろう。宗門運動を考えるとき、社会浄化にどうかかわるかが今後の課題だろう。運動への協力は惜しまないが、それぞれ得意な分野がある。海外の南方の島々において亡くなった兵士の遺骨収集と慰霊に力を注いできた。こうした点も、今後の宗門運動では時間を割くよう願いたい。
継続は力であり、素晴らしく思う。しかしながら地域においてみると、やる気がある寺院は一割にも満たないように思う。運動という名のもとに集められた金が各管区に下ろされても、やっていることは相変わらずの自己満足で何ら弘通になっていない。後は反省会という飲み食いが繰り返されているように思う。そのうえ二次会三次会がついていて、批判の的になっている場合もある。純粋な者も引きずられて、かえって運動が悪を引き出している感じさえする。
継続は必要だと考える。ただし、日本人の雑多な思想、主義、宗教感覚を考えて、そこに切り込んで行けるような運動がこれからは必要だろう。運動として掲げることは宗門意識の統一として大切なことだと考える。今後もこのような運動形式が宗門の活性化につながると思う。おおげさな大会を開催しても参加者の顔触れは相変わらず、ではだめだ。宗門内外にアピールするための工夫が必要である。
運動と称して行っていくことも大事だが、内に向かうのではなく外に向かってアピールすることを考えよ。アフガンや中東の実状をよそごとと考えていては法華経も本宗の存在価値もない。
運動という名のものがないと布教に精が出ないところに問題あり。お題目を広めるのは本宗教師の当然の使命だ。地道な信仰活動が広宣流布の道と思うので、あえて運動という言葉は必要としないものを考えよ。
運動といわれて特別の感動はない。生涯お題目総弘通運動だと思っている。運動とは区切りを切って行うものである。お題目を唱え広めることは教団創立以来のテーマであり、運動ではない。誰でも日常生活の中でできることを提唱すべきだ。
日蓮宗のランドマークは身延山、池上本門寺、清澄寺だと思う。ここから世界にお題目を発信すれば意義がある。人が動く、人が集まる、アピールする。そういう意識も力も弱い。人材を育成することが一番大切だ。
これからは檀信徒倍加運動がよい。そのためには寺、教師、檀信徒がもっと密接になり、寺檀の壁を無くし精神的バリアフリーになること。教師が檀信徒の上にいるものという意識がある間は、無理だろう。
ネーミングより中身だ。運動名がどう変わろうとお題目の広宣流布は祖願である。その達成は永遠のテーマである。全教師への趣旨徹底が十分でないところに問題がある。教師は、妙法の安心を得てくれる人が増えるよう努力すればよい。
テーマは永遠でも、宗門運動は十年以内がいいと思う。長すぎる運動はマンネリ化する。教師も檀信徒も新鮮さを求めている。新しい運動名をつけてまたぞろ同じようなことを繰り返すなら、いまのままのお題目総弘通運動でよい。これが我が宗門の究極の目的だからである。宗門の為すべきことはお題目を広めることに尽きる。時代がどう変わろうが、このことは不変である。実際には、宗門が良く変わったとは思えない。理念だおれになっていないか。実動が伴わないのは現実的でないからである。
宗門運動は、時代を見極めつつ継続展開してきた。目的設定も間違いはなかった。欠けているのは教師の取り組む熱意である。
ネーミングの問題ではなく、教師の自覚にかかっていると思う。自坊では熱心でも宗門全体として協力できるかどうかだろう。盛り上がりを期待するなら、教師の意識の脱皮が必要かと思う。
名称が異なるだけのものならば、とりたてて運動などというものは必要ない。広宣流布の誓願は、得度して以来一生の目標である。教師の再教育が必要。僧侶の教育(研修制度)をもっとしっかりやる事である。
継続して大目標をもって運動を起こしていくべきである。そのためには、異体同心になれるような設定が必要だろう。地方の底辺にあえぐ者の身になって計画すべきだ。
太平洋戦争中、本宗は軍部に迎合して戦争に協力した。だから立正平和運動が起こったはず。護法運動は、創価学会という邪教がはびこってきたから正法を守ろうとの目的があった。お題目総弘通運動は立教開宗七五〇に向かっての運動だった。それぞれ意味があるが、運動自体の継続より、時代に合った布教を考えるべきだろう。
日蓮聖人のみ心は総弘通運動というような形で行われるものではない。もっと基本的な根本的な精神を学び広めるものである。一宗一派にとらわれているような狭い考えは、大聖人のお題目とは思えない。宗門はさまざまな運動をしてきたが、何をもって成果としているのかわからない。形ばかりでは、今の人達はついて来ない。人々は何に救いを求めているのか、知るべきである。

4、その他関連する意見
バブルの頃は活動も勢いがあったが、バブルが弾けて以降、信仰どころではなく、寺院の経営も教化活動も難しくなっている。時代背景をよく考えて宗門運動を推進しなければ、世間と遊離してしまう。
運動そのものが生活に密着していないし、定着していない。言葉だけは盛り上がっていて中身が伴わない運動では、これから先も同じことが繰り返されるのではないか。
戦後の宗門運動(立正平和運動、護法運動、お題目総弘通運動)に連動する何かが不足していたように見受けられる。
過去の運動もこれからの運動も、宗祖の誓願を心に刻み、信仰していくようにすべきである。現在の宗門運動は大聖人の四箇格言の精神と掛け離れてはいないか、疑問を持つ。
教師のやる気があるかないかによって、運動は評価される。折伏逆化も必要だが、現代では協調摂受が世界の潮流ではないか。
運動のスローガンを展開するのは賛成だが、財政負担が加重され、地域差もあり、痛し痒しである。世の中が不況なだけに、課金の増額は困る。
宗門も七百五十年の歴史を積み重ねてきた。時代を越えて変わらないことがよいことと、今の時代を考慮して宗門の運営、布教活動、組織の在り方等にメスを入れることも大切だ。都市、田舎、寺院の大小、地域、法縁、派閥、財政、先人の作ったものがすべてよいとは言えない。21世紀にふさわしい宗門つくりはいかにあるべきかが問われている。
宗門運動の大切さは理解できるが、大会や記念行事は一見華やかでいて、宗門の現状を良く変えていけるものではない。限られた同じ顔触れの人数を動員してのものだけに、宗勢のバロメーターにもならない。寺院の繁栄が葬儀杜とタイアツプしての結果ではなおさらである。それが、道義を逸脱した檀家獲りになっていて大きくなった寺院には、閉口するしめいわくである。こうしたことを宗門のどこかで規制しない限り、組織としての繁栄はないのではないか。
先祖供養を中心とした片手間の運動では単に自己満足にしか過ぎず、未信徒教化などおぼつかない。これが宗門の大方の現状ではないか。運動の継続より、宗門の在り方を根本的に変えるほうが先決であろう。
宗門の大きな課題に、大学教授、信行道場その他の教育機関の指導者等は指導に専念できるように処遇を考えることである。教育機関の充実こそ信仰運動の推進には欠かせない。
運動はともかく、宗門の大きな問題としては戒壇建立問題がある。三秘は日蓮宗門の最も基本の問題であろう。
次の聖日はご降誕八百年である。それまでに未信徒への強烈な布教をしていく運動を展開すべきであろう。未信徒も抵抗なく参加出来るテーマがよい。
信仰運動のみならず宗門のあらゆる事をきめる宗会議員の自覚が、不足している。もっと熱意をもってしっかりと地方の声を代弁していれば、お題目総弘通運動も成功したであろう。地方にはいい提案者もいるのだが、宗会議員になれない現実がある。
創価学会の組織力、パワーの大きさには、憎いほど感じさせられている。本宗の信仰運動には、残念ながらパワーが感じられない。何が不足しているのか。教師の熱意と真剣さ。それに檀信徒をもっと教育して先兵にしないかぎり、創価学会など新宗教には太刀打ちできまい。
本宗の布教がいつからボランティア活動重視になったのか。大聖人の意に添うとは思えない。大聖人の教えは事の善悪をはっきりさせることにあると思う。お題目は現世利益の人助けにあるのではない。突き放すことも大切だ。お題目を僧侶の生活の糧にしていないか。
檀信徒が読む日蓮宗新聞の論説に、宗門の運動方針に対する批判文を載せては、現場の対応が混乱する。意見は大いに結構だが、城者破城の論説は困る。
宗門が信仰組織として成り立っていくには、寄り合い所帯や組合では無理だ。強力な指導性を発揮して、五千か寺の檀家をならして目の届く教化ができるよう、檀家数の多いところは少なくし、少ないところには増やすぐらいの改革をしない限り、強者優先、弱者切り捨ての宗門から脱皮できないであろう。
地方寺院の実態の多くは、ご先祖様とお墓を媒介に成り立っている。また、農家主体の田舎では、農閑期以外大会や信行会にも出られず、無理な動員に苦労した。社会の情勢、例えば経済事情の変化等を無視した勧募は一考を要する。
運動以前に、宗門の僧侶であるという自覚に欠ける者が多すぎる。平素の寺院生活に、僧侶にあるまじき行為をしている者もいる。反省を促したい。同時に、宗務院は厳しく指導すべきだ。
護法運動を提唱したころの宗務総長の話に大変感銘を受けた。宗門の一大行事、慶讃年などには信仰心の厚い、真剣な布教精神を発揮して全国の教師を叱咤するほどの総長の出現を期待する。
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