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戦後の宗門運動は、それぞれ意味を成して取り組まれたことは確かだ。立正平和運動しかり、護法運動しかり、お題目総弘通運動も細かい計画を立てて実行できるように仕向けられていた。だが問題は、全国的な組織活動としての展開が本当に出来たかどうかだ。それぞれその運動の趣旨を十分理解し実行出来たか否かは、それを担う教師自身のやる気の有無による。教師にその自覚と熱意があったかを考えると、否と答えざるを得ない。組織を動かしている者たちにも責任があるとも言えよう。
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今後運動の名称は変わっても趣旨は変わる事なく、本宗の特色を生かして対杜会的運動を行うべきだ。本宗の存在価値は、お題目で人心の浄化をするにあり。思想信条をこえて社会運動に邁進せよ。
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宗門運動は何か打ち出さねばならないからという運動になりがちだ。また、このときとばかりに記念事業をというのが目的のごとくになってしまいがちである。信仰を主体とした運動なら今後も行っていく意味があり、賛成だ。
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運動を継続するには、事業事務局を作るより信仰を前面に出した部署を設けることが大切。金集めと箱物が優先するようでは、同じ繰り返しになるだろう。現在の宗門機構において信仰運動は継続する必要がある。教師の中から運動を起こそうとする気概がのぞまれる。その気概が乏しいところに問題がある。
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運動の可否は、当局の指導性による。強い指導性を発揮するには、口先で言うのではだめ。自ら積極的に行動すること。地方寺院は閉鎖的な面があるから、必要性は自覚しても持続できにくいが、運動は継続すべきだと考える。
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僧侶の自己満足に終わっている。世間が我々に何を期待しているのか、冷静に判断して信仰心を深めつつ考える必要があろう。宗門運動を考えるとき、社会浄化にどうかかわるかが今後の課題だろう。運動への協力は惜しまないが、それぞれ得意な分野がある。海外の南方の島々において亡くなった兵士の遺骨収集と慰霊に力を注いできた。こうした点も、今後の宗門運動では時間を割くよう願いたい。
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継続は力であり、素晴らしく思う。しかしながら地域においてみると、やる気がある寺院は一割にも満たないように思う。運動という名のもとに集められた金が各管区に下ろされても、やっていることは相変わらずの自己満足で何ら弘通になっていない。後は反省会という飲み食いが繰り返されているように思う。そのうえ二次会三次会がついていて、批判の的になっている場合もある。純粋な者も引きずられて、かえって運動が悪を引き出している感じさえする。
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継続は必要だと考える。ただし、日本人の雑多な思想、主義、宗教感覚を考えて、そこに切り込んで行けるような運動がこれからは必要だろう。運動として掲げることは宗門意識の統一として大切なことだと考える。今後もこのような運動形式が宗門の活性化につながると思う。おおげさな大会を開催しても参加者の顔触れは相変わらず、ではだめだ。宗門内外にアピールするための工夫が必要である。
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運動と称して行っていくことも大事だが、内に向かうのではなく外に向かってアピールすることを考えよ。アフガンや中東の実状をよそごとと考えていては法華経も本宗の存在価値もない。
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運動という名のものがないと布教に精が出ないところに問題あり。お題目を広めるのは本宗教師の当然の使命だ。地道な信仰活動が広宣流布の道と思うので、あえて運動という言葉は必要としないものを考えよ。
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運動といわれて特別の感動はない。生涯お題目総弘通運動だと思っている。運動とは区切りを切って行うものである。お題目を唱え広めることは教団創立以来のテーマであり、運動ではない。誰でも日常生活の中でできることを提唱すべきだ。
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日蓮宗のランドマークは身延山、池上本門寺、清澄寺だと思う。ここから世界にお題目を発信すれば意義がある。人が動く、人が集まる、アピールする。そういう意識も力も弱い。人材を育成することが一番大切だ。
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これからは檀信徒倍加運動がよい。そのためには寺、教師、檀信徒がもっと密接になり、寺檀の壁を無くし精神的バリアフリーになること。教師が檀信徒の上にいるものという意識がある間は、無理だろう。
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ネーミングより中身だ。運動名がどう変わろうとお題目の広宣流布は祖願である。その達成は永遠のテーマである。全教師への趣旨徹底が十分でないところに問題がある。教師は、妙法の安心を得てくれる人が増えるよう努力すればよい。
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テーマは永遠でも、宗門運動は十年以内がいいと思う。長すぎる運動はマンネリ化する。教師も檀信徒も新鮮さを求めている。新しい運動名をつけてまたぞろ同じようなことを繰り返すなら、いまのままのお題目総弘通運動でよい。これが我が宗門の究極の目的だからである。宗門の為すべきことはお題目を広めることに尽きる。時代がどう変わろうが、このことは不変である。実際には、宗門が良く変わったとは思えない。理念だおれになっていないか。実動が伴わないのは現実的でないからである。
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宗門運動は、時代を見極めつつ継続展開してきた。目的設定も間違いはなかった。欠けているのは教師の取り組む熱意である。
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ネーミングの問題ではなく、教師の自覚にかかっていると思う。自坊では熱心でも宗門全体として協力できるかどうかだろう。盛り上がりを期待するなら、教師の意識の脱皮が必要かと思う。
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名称が異なるだけのものならば、とりたてて運動などというものは必要ない。広宣流布の誓願は、得度して以来一生の目標である。教師の再教育が必要。僧侶の教育(研修制度)をもっとしっかりやる事である。
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継続して大目標をもって運動を起こしていくべきである。そのためには、異体同心になれるような設定が必要だろう。地方の底辺にあえぐ者の身になって計画すべきだ。
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太平洋戦争中、本宗は軍部に迎合して戦争に協力した。だから立正平和運動が起こったはず。護法運動は、創価学会という邪教がはびこってきたから正法を守ろうとの目的があった。お題目総弘通運動は立教開宗七五〇に向かっての運動だった。それぞれ意味があるが、運動自体の継続より、時代に合った布教を考えるべきだろう。
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日蓮聖人のみ心は総弘通運動というような形で行われるものではない。もっと基本的な根本的な精神を学び広めるものである。一宗一派にとらわれているような狭い考えは、大聖人のお題目とは思えない。宗門はさまざまな運動をしてきたが、何をもって成果としているのかわからない。形ばかりでは、今の人達はついて来ない。人々は何に救いを求めているのか、知るべきである。
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