日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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伝道と交流
河 村 孝 照
 今日の一番の最後の発表のはずだったんですが、それを変更させていただきまして、午前の最後の発表にしていただきました。質問があると答えられないかも知れませんので、なるべく質問はしないでいただきたいとお願いいたします。その分ちょっと時間をいただきたいと思います。
 私はそろそろこの世を去る人間ですので、私が理解の道筋を書きますので、これは全てと思わないでいただきたいんですが、それは「何々」で「何々」を「どのように」解釈する、あるいは理解する、認識する、これがパターンでございます。このパターンは今まで公のところではついこの間、富山で勧学院の講義がありました時にはじめて私の本心を出したわけですが、そうしましたら、たまたま「伝える」というこの宗務院から発行になりました冊子の中に、このパターンを見ました。このようにパターンが出ていたものですから、これを利用させていただこうというわけで、「何を伝える」のかというのは法華経お題目、すなわち妙法を伝える訳でございます。そして今度は「どのように伝えるのか」、ここで冊子はすっと技術面に入られるんです。個人から組織までそれぞれの特性や能力、技能に合わせて伝えること。文節、文章、手法、儀式、そして教師のふるまい等々であると説かれています。ここのところが実は重大なところです。
 そこで大事な点を示さないと大変な誤解を招くんじゃないか。これはこの公式パターンの中に入れますと、心で諸法を妙法なりと観ずる。ここのところの項目がこれまで捨象されてきている。この冊子には「何を伝えるのか、妙法を伝える」。それでは妙法とは何か。先ほど影山上人の天台のお話がありましたが、私は意を強くしたのはこれまでの宗門のあり方では天台になずむなという言葉ばかりを表看板にしまして、ことさらに天台を避けてきた。それは全く考え方が逆なんです。先ほど影山上人が言われた通り、日蓮聖人は天台を勉強して日蓮聖人の宗教が出たんですから、その元を捨象してしまってなずむなと。気をつけなければいけないのはなずむなという言葉でございます。これは馴染んでそれにこだわってしまってはいけないんだということ。習うんだということで勉強するなという意味ではないんですけれども、そこのところの履き違えがかなりあるのではないかと思っておりましたところが、今日のお話だったものですから、私は意を強くしたんですが、妙法は天台が摩訶止観で書きました一念三千のところです。
 この妙法は言語道を断ずるところでよくこれを言語道断と言ってしまいますが、言語道で切って読むわけですね。言語道を断ずるところの教示であり、それは心行所滅だと。ですから、言葉にも何にもならない一つの教示なんだと。それで言葉にも何にもならない教示ならば、それはどのようにすれば教化しうるかということを天台はこの一念三千のところで説いております。それはご案内の通り悉檀、それは第一義悉檀、真理というものはこのようなものなんだと言って説く。それから世界悉檀、世界観の上で説く。為人悉檀、その人が信を生ずるように説く。そして対治悉檀、これはこのようにすれば煩悩を退治することができますよと言って説く。
 そこで私は伝道と交流を天台の一念三千説に基づいて区別しますと、この四悉檀のうち、為人悉檀と対治悉檀が伝道で、第一義悉檀と世界悉檀とは私は交流と考えて進むのがよいのではないかということを申し上げたかったわけでございます。
 話はこれで終わりでございますから、段を降りてよろしいんですけれども、まだ少し時間がありますね。そこで、私が一番危惧いたしましたのは、天台になずむなということを先ほど申し上げました通り、それから仏教学、宗学の捉え方が全く違っている。それは文献学とか、あるいは歴史学とか、あるいは文化人類学とか、そういうものが仏教学であり、宗学であるかの如く捉えられている。これは学問上、大きな方法論の誤りでありまして、仏教学の宗学ということを表にした方が適切であるかも知れませんが、宗学というのは規範学でありますから常に「鏡」がある。その鏡は何かというと、この妙法という鏡に照らして、御遺文をどのように解釈するかという解釈学的方法論に入る。それを文献学の手続き、あるいは歴史学の手続きだけでものを言っているのは宗学ではないんであります。
 これは今度、印度学仏教学会が東大でありますので、その点を発表する予定でおったんですが、ところが私の発表が三十日ということで、ところが三十日は私の近くに浜松フォトニクスというのがありまして、そこの社員が結婚するので結婚式に出てくれ、じゃ私は何故出されたかというと、浜松フォトニクスの社長はコンプレックスシステム、複雑系科学というんですか、宗教と科学の接点を常に求めているという、だから、そういう面でのお客様が多いから私に出て何かスピーチしてくれということだったものですから、抜けるに抜けられなくて三十日を一日に伸ばしてくれと学会本部に言いましたら、一日はいっぱいだということでお断りをいただきましたが、そこで言いたいのは私は日蓮聖人の一代五時図の中に通の五時と別の五時があるんです。我々は別の五時だけしか取り上げない。
 通の五時を取り上げない。通の五時はこれは偽書であるかの如くやられている。ところが今日、中井上人でございましたか、これも私非常にうれしかったんですが、天台開会について言及されている。ですから、日蓮聖人の基盤には明らかに通の五時、すなわち一代五時図で言うと、華厳から法華のいずれにも開・結の経典を配置してある。これは一代五時図をご覧なればわかります。ところが別の五時図になりますと、すなわち日蓮聖人はこれを権実相対という一つの立場において捉えたわけですが、そうした中で我々が伝道ということになりますと別の五時であるべきはずで、交流ということになりますと通の五時になるわけでございます。
 そのことを何とか表現したいと思っておりましたところが、新聞の運勢欄ですが、私が何故運勢欄を見るかと申しますと、自然の摂理、神の摂理というものを運勢欄は鏡として出している、その点では利用しうる。それを見ますと、内心は道に従い、概念、理念は世間に合わせて凶かえって吉と。ああ、これだなということで、私はここにその文章を出させていただきましたが、その教化学はこの伝道と交流の両方をカバーしていただきたいんです。その意味では昔の宗学や、昔の仏教学はこの両面をカバーしておりました。
 ところがご案内の通り、戦後アメリカ式の実証主義、そして学者の点数主義のために入りやすい歴史学だとか文献学だとか、あまり自分の頭を使わなくてもこのような妙法……なんて、こんな言葉を使わなくても目の前の手作業でやりうる勉強の方に走ってしまった。それがあたかも本流であるかの如く、今宗学であり仏教学と申しておりますが、これは一つの教化学に関する限り本来の言語道断、心行所滅の境界を常に鏡としてお願いしたいと思いまして、このテーマを掲げさせていただきました。
 ところが皆様がたの発表を見まして、もう既にそのことをお考えになっておられることを知りまして、私は非常に嬉しかったわけでございます。この伝えるということ、何を伝えるのか、それは妙法、これはいいですね。ではどのように伝えるのか、ここで前述のようにスコーンとハウツーに走ってしまった。伝えるその具体的な内容はこの縁によれば世界観を示し、この縁によれば人々に信を生ぜしめ、この縁によれば人々の煩悩を破折する、そういうところを抜きにしてただ技術面だけに、いわゆるハード面だけに限定してしまったところに私は非常に寂しさを感じておったものの一人であります。
 これまで比較的言葉を慎みましたが、いつまで経ってもらちがあきませんので、かなりはっきり申しさせていただかないと、学問というものの区別、分野、方法論、これが全くこれまで等閑視されてきたということに対して、私は非常に不安と寂しさを持っておるわけでございます。その点、影山上人の方法論は非常に私は適切であり、そして願わくば妙法のところ、小止観を使用されておられるところなどはまさしくそうだと思います。
 私も前はカリキュラム委員におりましたが、やみくもに唱題行だけを課している。じゃ唱題行をどのような心構えでどのようにするのかということになったら、何にもカリキュラム委員では取り上げない。それでたまたまあるところである方が小止観の一つの方法論を提示された。私はこれは一つの道だというわけで、それを申し上げましたところが、即座にそれは否定されました。ことほどさように我が宗門は非常にその点は淋しい、言えば、そういう面では乏しい、これはもう一度勉強し直さなければ私は宗門の立ち上がりは難しいという見方をしております。
 余分なことを言いましたが、お許し下さい。
(静岡県 妙源寺住職)
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