日蓮宗 現代宗教研究所
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開宗七五〇年の総括とその後の教化
伊 藤 立 教
本題に入ります前に前回のこの大会で発表しました高橋一淳さんの問題ですが、日蓮宗僧侶が創価学会員になったのかという件ですが、日蓮宗僧侶は創価学会員になっていないという調査結果をご報告します。内容は日蓮宗新聞でご報告しました。創価学会からの反論はありませんので、これを事実と認めたことになります。
昭和五十七年から昨年の三月の時点までの集計で申しますと、寺院・教会・結社の数が六一減りまして教師が五一七名増えました。この件をベースにしてお話申し上げたいと思います。
開宗七五〇年の総括としましては、平成十二年十月一日号の日蓮宗新聞の寺院版に対談記事が出ております。昭和六十年からスタートしましたお題目総弘通運動十八年計画というものに対して、まず渡邉清明宗務総長から「教師一人ひとりの意識改革にならなかった」というお言葉が入っております。十八年計画を自分のことと受け止めていない教師がほとんどである、という指摘でございます。現場と中央が双方向で問題提起を繰り返す必要があるということですが、宗務院には五十の委員会がありまして、七五〇慶讃実行委員会には委員が三十五名、お題目総弘通運動本部企画会議には委員が二十一名おられますが、皆それぞれ地元に帰ってそういうお話ができているのか、双方向の一端を担っているのかどうかということが問われるのではないかと思います。
それから先行き不透明な中で、あるべき宗教の姿が見えてこない、これは信仰があって信仰実践者がいて賛同者が現れるわけでございますから、先行き不透明であろうがどうであろうが、まず自分に信仰があればということではないでしょうか。それから総括の検証システムがない、法華経お題目の教えの根底をなす立正安国の精神、非は非とはっきり表明できる体制を作る、これが宗務総長のお言葉ですけれど、なかなか非を非といえない、特に内で言えない部分があります。これが宗内外にわたるんですけど、この宗務総長の言葉に意を強くして言わせてもらおうと、ここに上がったわけでございます。
社会から信頼され、期待される教団としてどうあるべきか、日蓮一門としてどう筋を通すかという問題だと思うのですが、一皮むけば、権力闘争とか、好き嫌いみたいなものがいっぱい入っているような宗門の現状があるのではないでしょうか。それが社会から信頼され、期待される教団ということにどうつながっていくのか、自分の問題としてお互いに考えたいと思います。
本年三月の宗会で、宗務総長の施政方針演説がありました。これは四月一日号の日蓮宗新聞寺院版に載っておりますが、「七五〇終了後の方向を打ち立てるべく、運動の総括的な点検評価を行うよう現宗研に指示した」というお言葉がありました。それを受けまして、本年の中央教研第二部会でこれを取り上げて問題提起をさせていただきますので、今日は問題提起の原案を作らせていただくつもりで皆さんのご意見も是非反映させてもらいたいと思います。
建物作って七五〇慶讃、では、「慶讃」ではなくて「計算」と皮肉られるものがあるのではないでしょうか。教えを広めるのが七五〇だと思います。しかも七五〇でなければならない活動というものがあるはずです。それは誓願だと思いますが、これを取り上げる必要がないとおっしゃった人がおられるぐらい、どうもぼやけた宗門になっているのではないでしょうか。教師自身が口先だけで何も信仰心がない、もっと言うと野合しているだけ、日蓮宗という枠の中で野合しているだけではないのかという指摘もあります。
今申し上げた指摘は、宗会での総長の施政方針の中にあるわけですが、信仰者を育てるということが問題ではないでしょうか。そうではないところに神経がいっていることが、七五〇をやっている中で実態としてわかってきたのではないでしょうか。機構の改革だけをやったり、建物を作っただけ、あるいは日蓮宗の体裁を作っただけでは七五〇の後の日蓮宗の展望が開けるのでしょうか。問題は信仰のない僧侶、お坊さんの形はしておりますけれども、信仰心があるのでしょうかというところが問われております。それは、自分自身が気が付いていないところに問題の根があるような気がします。自分の利益と名誉ばかりの人が多いのではないでしょうか。
教化は一対一だと思いますが、かつて田中智学が「宗門か聖祖か」と問いかけたことがあります。「教団か宗祖か」ということでございますが、日蓮宗はどうでもいい、日蓮聖人が大事だと思いますが、この辺の皆さんのご判断はどうでございましょうか。日蓮宗でも日蓮聖人でもなく自分が大事だと、そんな意識に落ちておりませんでしょうか。是非反省が必要だと思いますが、どうでしょうか。
同業組合という形で日蓮宗を皮肉る人がいる、同業組合でいくならば、こういう現状の日蓮宗に自分が属しているということの協同責任を感じておらない、批判ばかりする人にお尋ねしたいですが、自分もその同業組合の一員ですが、自分はどういう協同責任を果たすのか、どうしようと思っているのか、その代案を提示してから批判されないと一方通行になってしまうのではないでしょうか。
依法不依人という大切な定義がありますが、どうも現状は人に依って群れているような気がしますが、どうでしょうか。釈尊・法華経・日蓮聖人の教えが根本だと思いますが、法華経の誓願を我が誓願とする、その誓願という言葉自体が我々の中にどれぐらい意識されているか、その辺が一番基本的なものであるのではないでしょうか。
そういうことを考えたうえで、私はろくでもないお寺は潰れてもいいと理解しました。お坊さんという職業人が増えなくてもいい、とも理解しました。数が増えることが(右上がりの曲線が)高度成長の時代には当たり前でしたでしょうが、数は減っても質の問題があるのではないでしょうか。数は減っても立派な坊さんがたくさんいる教団の方がいいのではないか、さらに寺というものは、必要なところで作っていけばいいのではないでしょうか。伝統を守るべきは守り、必要な部分は必要なところに移していく、そういうマクロ的な視野もいるのではないでしょうか。
信仰が経済問題になっているような気がします。最近読んだ日蓮宗新聞の記事の中に、宗教法人法の改正以来宗門は葬儀や法事をすることで収入を得ざるを得ない状況に立たされている、宗門の経済基盤を強化し僧侶が心ゆくまで布教できる環境づくりが必要と書いてありましたが、誰が経済基盤を強化するんですか。自分がするという発言でないように読めましたが、私には理解できません。そういう人任せの教団に皆さんがどっぷり浸っていて、世間からは何やっているんだといわれるように、もうなってくると思います。私は師匠から、「道心あれば衣食あり」と教わりました。先に信仰心があれば経済問題は自然に解決すると教わりましたが、今はお寺があって経済問題があってそれで布教だとおっしゃるわけで、これでは本末転倒ではないでしょうか。
以上のことを申し上げて、この大会が、研究する現宗研の本来の活動として機能することを期待しております。
宗務総長の三月の施政方針演説の最後に、こう書いてありました、「宗祖につらなる末法本化の教師は如来の所見として如来の事を行ずる」と。私は賛成でございますが、この言葉にどれぐらい堂々と向かい合えることができるかどうか、忸怩たるものを感じる気がいたします。
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託三重県 本覚寺住職)
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