日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
綱脇龍妙上人と身延深敬園
奥 田 正 叡
ハンセン病(癩病)は私達人類がごく初期に出合った伝染病であり、ローマの昔から明治に至るまでこの病気に対する対応は隔離しかなく、患者達の多くは極めて悲痛な状態でした。我が国においては、明治時代になって本格的にこの病気に対する民間救済事業が始められました。その先駆をなしたのはキリスト教ではフランス人宣教師テストウィッドが創設した御殿場神山の復生病院であり、仏教では日蓮宗僧侶綱脇龍妙上人(以下綱脇師)による身延深敬園でした。深敬園の創設と経営の功績により綱脇師には多くの表彰が授与され、また高松宮殿下からは「綱脇師は身延深敬園を独力で創設し、日本人による我が国最古の施設として大事業に貢献す」とその功績を讃えられております。
このように身延深敬園は仏教者による近代社会事業の先駆として特筆すべき活動でありながら、現在ではその活動や存在すら忘れさられようとしています。今年、熊本地裁は「ハンセン病国家賠償訴訟」の第一回判決でライ予防法の改廃の遅れや違法性を認め、国に賠償命令を下しました。昨日五月二十三日、政府は声明文を出し、立場を明らかにした上で控訴しないことを決めました。これは、下級裁判所の判決が判例を覆したわけですので、司法上の立場を明らかにした上で控訴しないということを決めたということでございます。本講では綱脇師による身延深敬園の設立経緯と背景、園内の生活とその特徴について述べたいと思います。
綱脇師は九州の生まれです。京都の檀林を卒業した後、苦学しながら東京に向かいます。明治三十八年には現在の東洋大学、当時の哲学館で聴講します。その翌年友人と共に念願だった身延山に参拝します。そこで、ハンセン病患者の少年と運命的な出会いをするわけです。
身延山や熊本の本妙寺付近には昔からハンセン病患者が多く、多くの日蓮宗の信者が集まっていました。特に身延山ではこのことが問題となり、明治三十五年に南部警察署がハンセン病患者の住居を焼却してしまいます。熊本の本妙寺の近くにも、かつて本妙寺ライ部落というのがありライ部落撲滅運動の詳細記録が残っております。当時のことをご存知の方はハンセン病患者と聞いただけで偏見の目で見ていた時代のことです。身延山でもそういった町内の意見から住居を焼却したわけです。
綱脇師が身延山を訪れた当時はハンセン病患者が身延の山内に散在して、特に身延川の河原付近や山門付近に小屋を造って住んでいました。たまたまそこで綱脇師が一人の少年に出会い次のような話を聞いたのです。少年は山形県の出身で父親を失って母と姉と三人暮らしをしていました。ちょうど三年前の夏に虫に刺されたが治らず、近くの病院で見てもらったがなかなか顔のはれが引かない、母親が大きな病院に連れていったらレプラだと言われた、あまりのショックに母親はその場で発狂してしまったと言います。実は父親もハンセン病で亡くなっていたのです。
困った姉は近くの温泉場で働き、前借金二百円を借りて母親を精神病院に入れ、そして残ったお金二十数円を弟に渡し、「昔からお前のような病人が集まるといわれる身延山を訪ねなさい」と説得しました。泣く泣くわかれた少年は、野に寝、山に伏し、あるいは農家の馬小屋に寝ながら道々子供にいじめられ、やっと辿りついた身延山も決して自分には住みやすい所ではない。河原以外に住む所も無い。食べるものを買いに行っても売ってくれず、皆からはやしたてられてどうしようもない。
話を聞いた綱脇師は宗教家として本来の目的である布教教化をとるべきか、それとも目の前で苦しんでいるハンセン病の患者を助けるべきか自問自答を続けました。自伝によれば「何とかしてやれや、何とかしてやれや」という日蓮聖人の導きの声を聞き、布教教化よりもまず苦しんでいる患者を救ってやろうという決意に至りました。
ハンセン病は遺伝、不治の病、業病と言われ、本人や患者が幾多の悲惨な境遇にあっていた時代のことです。国でさえその対策を放置していた時代です。病院を開設するには多くの困難がありました。ライ予防法が明治四十二年に施行されますが、その三年前のことです。かろうじて御殿場に復生病院、東京目黒に慰廃園という私立のライ病療養所がありました。そこで看護の勉強をし、資金調達としては「十万一厘講」を考案しました。これは一日一厘、三年で一円八銭を身延深敬病院基金に寄付していただくという浄財勧募の方法です。
綱脇師は三年間で十万口、浄財十万八千円を目標に立てました。決意してから近隣地域は言うに及ばず、全国あちこちに出向き勧募を願い出ました。その結果、明治三十九年に時の身延山法主、豊永日良猊下に一棟の建物を寄付してもらい、それを病舎とし、身延河原から十三名のハンセン病患者を収容して病院を建てました。「深敬病院」の名前は法華経の常不軽菩薩品から名付けられました。以来平成四年に廃園になるまで八十七年間、一四六三名のハンセン病患者を収容しました。現在では身体障害者養護施設「かじか寮」になっています。
綱脇師が深敬園を建てるに至った思想背景はどのようなものだったのでしょうか。自伝によれば綱脇師は、常々三つの誓願を立てていました。第一は出家した以上、法華経の色彩の強い宗教家として精進すること。第二は当時腐敗していた宗門を改革すること。そして第三番目に日本のライ病救済に奮闘することでした。
明治三十九年の身延深敬病院の設立の趣意書には「本院は専らこれら無告の病者を収容して暖かき信仰の慰安と、治術の救済等を与え、もって歓喜と光明との中にその余命をまっとうせしめ、兼ねて隔離消毒の方法を完全にして、この恐るべき病毒の撲滅に資せんとす」とあります。
この趣意書から身延深敬病院は仏教信仰による精神的救済と、医療技術による身体的救済の両面からハンセン病患者の救済を目的にしていたことが理解できます。
次に綱脇師の宗教的救済について述べたいと思います。綱脇師は昭和五年二月の『身延教報』で「二十世紀における即身成仏は法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる常不軽菩薩を模倣することにある。その根本主張者は釈尊と日蓮聖人である」と述べています。その論拠として日蓮聖人の『崇峻天皇御書』の「仏法と申は是にて候ぞ。一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしは如何なる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」、『寺泊御書』の「法華経は三世説法の儀式也。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品也」などを挙げています。また、綱脇師は「不軽品色読が現れる時、法華経が広まり宗門が自然に興隆する。日蓮聖人に報ずる途も国家に報ずる途もこの外にない」と述べています。
さらに日蓮宗の『教学大会紀要第一集』では「法華経の大事な教え、日蓮聖人の教えを曲げてはいけない。しかし、その方法は時によって変えなければいけない。自分の信仰するところは〈二乗作仏〉と〈久遠実成〉と、そして〈不軽礼拝〉が三つの柱である。それは木に例えれば木の根が〈二乗作仏〉であり、幹が〈久遠実成〉であり、そして果実が〈不軽礼拝〉である」と強調しています。
今月のはじめに綱脇師の長女綱脇美智氏をたずねました。綱脇師は病弱のために兵役は免れましたけれども、日清戦争、日露戦争をきっかけに「人間礼拝を中心にすべし」と考えるようになったそうです。そして日々の勤行でも不軽品の真読は欠かさなかったそうです。以上のことから綱脇師による身延深敬園開設の思想背景は、常不軽菩薩の但行礼拝の精神で貫かれていたことが理解できます。
資料に深敬園の地図を載せておきました。これは大正十三年発行の資料に基づいたものです。身延川のほとりに建物が並んでいます。院長一名、医師一名、幹事一名、看護二名、会計一名で管理しておりました。維持運営は篤志家の寄付金、十万一厘講の浄財、そして昭和二十六年以降は内務省及び様々な公的基金の補助で運営しています。ちなみに大正十三年には四十名の収容でした。深敬園では入園者が自治会を作っていました。自治会では会長、副会長の下に法要や葬儀などをする法事部、菜園を行う農園部、木工や修繕を行う木工部、炊事部、薪をとる薪炭部等があり、男女又は健康の度合いに応じて任意にそれぞれ作業しました。
特に信仰的な教化、あるいは安心を得させるために、たくさんの仏教行事が行われました。年中行事としては新年の祝祷会、節分、涅槃会、降誕会、春秋彼岸会、あるいは盂蘭盆会、お会式等が行われ、毎月一日と十五日には定期的に説法が行われました。また、不定期ですが外部講師による法話会も行われました。
以上のことから身延深敬園の特徴を以下のようにまとめることが出来ます。
@宗教的救いと医学的治療を両立させた。
A宗教的救いとしては唱題行と法話を中心とした。
B当時は世界でも唯一の仏教者によるハンセン病療養所だった。
C形態は病院療養所であるが、建物やその名称が信仰の道場のようだった。
D患者同士が信仰の絆に結ばれ、互いの人格を尊重しあい、相互扶助の自治組織を形成した。
E「らい予防法」(一九九六年廃止)による隔離政策のもとでもほとんど強制入園がなかった。
F国立療養所のないころは全国から患者が入園し、国立療養所開設後も事情により国立療養所に入れない患者も入園許可した。
G北里柴三郎博士をして、精神的依り所がある、園長が僧侶、科学的手法が整備されている等の点において「理想の療養所」と評価を受けた。
深敬園の場合は国立の療養所と違って、強制の入園の患者がほとんどありませんでした。断種、あるいは堕胎、そして独房というような人権に関わる問題が取り上げられていますが、そういったものは深敬園には一切なかったというお話でございました。今回のハンセン病訴訟で問題となっている様々な人権問題が深敬園にほとんどなかったということは特筆すべきことだと思います。
先月、岡山県の光明園と愛生園で取材をしてまいりました。ハンセン病問題は非常に根深いことを感じました。強制連行で連れてこられた朝鮮半島の方、あるいは被差別部落にいたという方がたくさんハンセン病になった率が多くて、なぜそうなったのかという問題もあるし、人種差別、人権問題も絡んでいます。国立療養所の各自治会の中にも穏健派と急進派に分かれていて、今回、訴訟に立った方々は比較的急進派が原告として加わったようです。
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託京都府 常照寺住職)
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