日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 「宗教法人法の華三法行」の破産と宗教組織の「説明責任」 |
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「宗教法人法の華三法行」の破産と宗教組織の「説明責任」
貫 名 英 舜
一 「宗教法人法の華三法行」への破産宣告
「宗教法人法の華三法行(以下「法の華」)」の教祖福永法源(本名 輝義)以下複数の教団幹部が行った行為が、社会的に容認される範囲の宗教としての行為ではなく、例えば「足の裏診断」という行為が「法の華」の組織によって計画された相手の金銭を詐取するところの意図的な「不当利得」の行為に当たるとされた。これの違法行為について「法の華」は刑事告訴され、現在も教祖以下の幹部に対する公判が継続中である。
この刑事裁判に合わせて、それらの違法行為によって多額な献金(研修費名目や宗教グッズを購入する際の納入金、その他)を詐取されたとして訴えていた被害者への弁済補償の合計が、現存する教団資産の総額を上回ると認定され、東京地裁は、平成十三年三月二十九日、同教団に対して「破産」を宣告し、即日に全ての教団資産が凍結され、派遣された破産管財人によって、各地の教団の礼拝施設等の関連施設を差し押さえられた。これらによって、「法の華」は宗教法人としての活動が実質的に停止することになった。
この「法の華」を巡る一連の経過の中において注目しなければならない点は、「法の華」のどのような組織的●宗教行為≠ェ、どのような法律的根拠に拠って、正当な宗教活動の範囲にはないと司法が判断したのかという点である。近代概念の「信教の自由」の観点から考えれば、今回の「法の華」のケースにおいても、その宗教的理念(=教義)についての価値判断をすることは許されない。
しかし、現行の宗教法人法は、法体系の前提として●宗教の性善説≠ノ立脚しており、●宗教による犯罪≠ニいうことを予見していないという点で、しばしば、宗教教団の暴走という事態に対する対処に遅れが生じやすい点は否めない。近代の法体系と現実の宗教存在という関係のある種のねじれが、オウム真理教の暴走を事前に止めることができなかったことは記憶に新しい。
さて、ごく日常的なレベルにおける宗教の行為においては、相手の知的理解度、また、その時の相手の精神的状況に応じた説諭をすることがある。このような説諭行為の中には、日本人の基層的宗教心性である「因縁・タタリ・先祖供養など」というようなアイテムを援用的に使用するということも含まれる。これらは、通常、仏教的には対機的手段として「方便」と呼ばれる。このような「方便」の使用それ自体が「社会通念に照らして相当」ではないとされるのであれば、我々の宗教行為の全般も見直さなければならないだろう。
オウム真理教事件以後、市民社会の宗教に対する見方が厳しくなり、また、やや過剰反応傾向にあることは確かである。それは、制度的な伝統仏教に対しても例外でない(「戒名問題」批判など)。この意味で、「法の華」の事件と法律判断は、宗教が社会とどう関わって行くべきかを考える上で、看過することができないものであると思う。
二 裁判においては何が問題とされたか
それでは、同会の行為の何が、この裁判において、違法性があると判断されたのかを二点に絞ってその概略を述べてみよう。
@不当利得
同会の勧誘活動において用いられた「足の裏診断」という行為が、専ら組織の利益獲得のためになされたものであり、その組織の自己目的を果たすために、「先祖の因縁等の話を利用し、害悪を告知して、殊更に相手方の不安を煽り……(略)……自由な意志に基づくとはいえない態様【※平成十二年四月二十八日福岡地裁民事判決 以下引用同じ】」において「研修会」への参加に導かれたことが問題であるとされている。さらに、その「研修会」参加への献金額が、「出損者の年齢、家庭環境、資力、社会的地位等に照らして、不相当な金額」であったことが、宗教として許容される範囲を大きく「逸脱」しているのであって、その点がその勧誘行為全体の違法性の根拠とされている。
また、同会には『足の裏診断士養成マニュアル』と呼ばれる内部文書が存在し、相手の「不安や恐怖を煽り、研修に参加するしかない」という精神状態に追い込むための方策が事前に練られている。つまり、このことからも、違法性は一人教祖福永だけにあるのではなく、幹部及び組織全体の関わるものであることとされた。
A教団名の秘匿
「法の華」は、多くの出版書籍を書店に流し、それを買って読み、関心を抱いて連絡して来た人に対して勧誘行為を行った。その際に、「法の華」は別名である「アースエイド」、あるいは、「ゼロの力学本庁」という名称を使い、「その際宗教であることは殊更秘匿され、……被告福永については、生態哲学博士という肩書から、宗教に関わるものであるという認識」を被勧誘者に持たせなかったことが違法性があると判断されている。
この教団名の秘匿という問題は、他の新教団の勧誘行為においてもしばしば見いだせるものである。とりわけ、一九九五年のオウム事件以後の市民社会の宗教の勧誘行為に対する警戒感の高まりの中で、組織の拡大を目論む教団が、その警戒をかいくぐるために意図的にこのような自己の教団の本当の名称を隠すという方策を採っている。
このような教団名の秘匿という問題は、その組織がどのような教義や実践、メンバーが組織の維持のために必要とされる献金の金額やその使われ方などの内容やシステム、総じて、その組織の「宗教性」全体の秘匿の問題として捉えられるだろう。つまり、社会内存在である宗教法人は、その受容者たるメンバーに対して(同時に公共社会に対して)、組織に加わる以前に、あるいはメンバーとして組織活動に参画する以前に、正確な知識と認識を与えなければならないことになる。それは、逆に見れば、組織の側の公共社会と被受容予定者に対する事前の「説明責任」の問題となる。
三 宗教組織の「自己説明責任」
近代社会においては、宗教は個人の内面的な道徳や倫理、つまり「私事」としての側面とともに「公共性・公益性」の側面がある。この後者の「公共性・公益性」の側面において、社会的許容範囲の中で市民社会に関わっている限り、社会からその行為の適不適を問われることはない。しかし、現代の宗教、とりわけ、ラジカルな新宗教の運動組織は、しばしばこの境界を踏み越えて顧みないものとして表出する。いわゆる現代の「カルト」批判とは、こうした市民社会の側から求められる宗教の自己規制の不存在に対して行われることを一つの本質にするだろう。
この自己規制の不在、そして、組織の暴走という問題に対して、現行の日本の法体系では法律的対応ができないという前提を踏まえて、日本弁護士連合会は「宗教的活動にかかわる人権被害についての判断基準 一九九九・三・二六」を公表した。その基本的な姿勢とは、各の教団が主体的に自己の宗教行為について自己検証するべきであり、その際の判断基準のポイントとして使用されるべきであるというものである。
この日弁連の試みがどこまで日本の宗教的存在に受け入れられるかは不明ではあるが、このような提言がなされたことには一定の評価をしなければならない。つまり、このような提言がなされる背景には、市民社会の側の、宗教的存在の内容について事前に知っておきたいという一定の要望があるとしなければならないからである。
我が日蓮宗にしても、一箇の宗教法人として、公共圏に対しての「自己説明責任」、及び情報公開が問われることを前提に社会に関わらなければならないのではないか。結論を急げば、教義的側面、実践的側面、檀信徒と寺院・教師との関係性などの組織論的な側面、そして布施などの献金等の側面など、これらの項目について、明確で統一的な公式見解を示しておく必要が生まれて来ていると考えるものである。
二十一世紀は、宗教が再度の復権を果たす時代であると言われる。それは、同時に、宗教と市民社会が、しばしば葛藤や対立が多発する時代でもあるだろう。加えて、市民社会の成熟とともに市民の権利意識がさらに高まり、その一つの現われとしての「訴訟社会」としての側面が強くなって行くとすれば、教団の「自己説明責任」の重要性はさらに大きなものになることは避けられないだろう。
※二〇〇一年五月三十日、フランスで「セクト新法(基本的人権と自由を害するセクト的集団に対する予防・取り締まり強化のための法案)」が成立した。この法案は、国家が宗教における逸脱について、予防と取り締まりを実施する意志を示すものである。近代国家は、個々の内面の「信教の自由」、及び、この個人が集合しているところの組織の「信教の自由」の保証を前提にするが、その組織が世俗内存在としての面において、つまり、公共性や公益性の面において、反社会的(反人権・自由)の面が社会的許容度の範囲を越えて強くなった時に、法律でそれを規制することができるという途を拓いた。
このフランスでの政治的選択が、今後、世界にどのような影響を与えるか。そして、我が国に対してどのような波及効果をもたらすか、米国での同時多発テロにおけるイスラム原理過激主義に対する世界的反応と合わせて、注視して行かなければならないだろう。
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託静岡県 常泉寺住職)
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