日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 『六巻抄』の構造と問題点(二)「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して<質疑応答> |
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〈質疑応答〉
Q:学会である人がこういうことを言っていたんです。「私達は大曼荼羅を奉じておりますが、日蓮宗の方は、本堂に、日蓮聖人のご尊像をおまつりしておられますが、私達は日蓮聖人は形にしておりません。どういうふうにお考えですか」という質問を受けたことがあるんですが、先生ならどういうふうにお答えになりますか。
A:確かに日蓮宗にもそういう信仰はございまして、朗師が宗祖在世に日蓮聖人の像を作っておまいりしておったという事実がございます。それから歴史的にそのことを申し述べますならば、宗祖大聖人が客殿に自らがお迎えするという意味から、本来客殿にご尊像をお奉りする。それがだんだん一体となって本堂にも大聖人がおでましになるようになったという教団の展開がございます。
卑近な例では京都の大本山妙顕寺に行かれるとわかると思いますが、勅使門から入ると三宝尊があって、その前にご尊像があるんです。あれは客殿でございます。客殿で大聖人が出て自らがお出迎えするという意味であういうふうに安置するようになったと私は聞いております。
Q:そういう向こうのやや詭弁性というものを論じるだとするならば、逆にいうと、向こうはそういう形で質問してくるだろうということで、是非私はその解答が欲しいと思ったわけでございます。
A:歴史的にいうと、日蓮宗の中にも日蓮本仏論をいった学者がいるんです。清水梁山などがそうだったと思います。ないわけではないです。もちろん、これは特異な解釈でありまして、ただ、日蓮本仏論をいうと、不思議と教団は伸びます。やはり崇拝する人が身近というのは、こんなことをいうと暴論になるんですけれども、しかしそこはやはり今後どう考えていくのかが課題だと思います。さりとて、人間日蓮という言い方だけで切ってしまっていいのかという問題もまた残ると思います。確かに戦前のような上行のご再誕日蓮聖人という言い方で遠い存在にしてしまうと、みなが近づかないということから戦後の流れで人間日蓮ときた。しかしだからといって日蓮聖人は、私達にとって恋人という範疇では論じられない。やはり尊敬と崇拝の方であると思います。大聖人こそ末法の依師として仰がなければいけないので、大聖人の教えを通して、本仏釈尊の精神を理解するということでございますので、その辺が今後の私達の残された課題だと思います。戦後五十年過ぎましたので、戦後の流れだけでいってはいけないと思います。本門法華思想に基づいたところの国家意識の表明ということも合せて考えなければいけないと感じております。
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