日蓮宗 現代宗教研究所
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『六巻抄』の構造と問題点(二)「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して ←前次→

『六巻抄』の構造と問題点(二)
「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して
早 坂 鳳 城
    一 
 前回は『六巻抄』の第一章の「三重秘伝抄」について論及いたしましたが、その中で堅樹日寛が『開目抄』を引用し「文底秘沈」の文を権実・本迹・種脱の三重の教判と規定し、一念三千の解釈を展開している点は曲会私情の釈であるということを述べました。今回は第二章の「文底秘沈抄」で、本門の本尊編、戒壇編、題目編の中の本門の本尊編に絞って述べさせていただきます。
 
    二 
 まず、堅樹日寛は「文底秘沈抄」の第一の序文で「仏は法華をもって本懐となすなり」といって応仏釈尊説示の法華経を本懐と解釈し、次に「謂わく、文底に三大秘法を秘沈する故なり」と、本仏の法華経の解釈を挙げています。これは自語相違であります。つまり、迹仏の立場と本仏の立場での法華経解釈を混同しているからです。『開目抄』に「文底秘沈」と言っていますが、日蓮聖人が文底に秘沈されているのは三大秘法ではなくて、一念三千であります。ここも曲会の解釈と言えます。
 次、四角でかこっているところ、「一は謂わく、本門の本尊なり。是れ則ち一閻浮提第一の故なり、又閻浮提の中に二無く亦三無し、是の故に一と云うなり」とありますが、この「閻浮提第一」ということは多数の中の唯一論であり、「閻浮提の中に二無く亦三無し」というのは、多数否定論であります。ですから、これは二つが同時に成立しない矛盾する表現で分裂的な説明だということがいえます。
 次の「大は謂わく、本門の戒壇なり。旧より勝る云々」から二の「権迹の諸戒に勝るるが故なり」までは、いいんですが、「最勝の地を尋ねて建立するが故なり」と、これはどうしてこういうふうに展開するのかという説明がまったく不十分であります。戒壇と場所、戒壇即最勝地の説明が不成立なのです。
 次に、「事は謂わく、本門の題目なり。理に非らざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり。又事を行ずるが故に事と言うなり。云々」と、ここは、まず「一の理にあらざるを事という」これでは事の説明にはなっていません。また、天台の事理観と日蓮聖人の事理観とは違います。この点も堅樹日寛は混同しています。
 次に「天台の理行に非ざる故なり」と、これでは天台の事を認めたことになります。それから「事を事に行ずる」、「両意を存す」の文は理と事の具有なのか、天台と日蓮の両意の具有なのかはっきりしません。また次に、「待絶なり」とありますが、何を超越したのか不明です。これら全て堅樹日寛の説明が不鮮明な部分です。こういう不鮮明な論が堅樹日寛の「本尊編」であります。
 
    三 
 次に序文に「文底秘沈抄の大事」とありますが、これもいずれの文の底か不明です。また、「前代の諸師」とありますが、この「前代」の定義が明らかでありません。日蓮聖人以前なのか、堅樹日寛以前なのか、これも曖昧でよくわかりません。この様に不明なところが大変多いのです。
 次に「本尊とは所縁の境なり」とあります。本尊というのは所縁の境といたしますが、所縁の境だけが本尊ではありません。本尊とは戒定慧の三学の、定の中の対象の一つであります。故に、確かに大曼荼羅ご本尊と言いますが、本尊=曼荼羅ではないです。曼荼羅というのは仏菩薩の座配図でございまして、座配にしたがって諸尊が勧請されて曼荼羅がご本尊となる。これが日蓮教学の立場であります。日寛の教義の不明朗さを現わしています。
 それから「妙楽大師の謂えること有り、正境に云々」とありますが、日寛はこの「正境」が結局、本尊といいたいのですが、全くの私情釈であります。妙楽大師の文書を見ますと、次の『摩訶止観』第一のところで「法はすなわち経なり」と、「故に正境とは本尊にあらず」と説かれています。こういう詭弁を弄して日寛の本尊論が展開されてくるのであります。
 次に「今末法下種の本尊を明かすに且つ三段となす。初めに法本尊を明かし、次に人の本尊を明かし、三に人法体一の深旨を明かす」と、法の本尊、人の本尊、人法体一の本尊の、三つあるとする日寛のこの三分類本尊論ですが、天台の妙楽も伝教も日蓮聖人もいずれも本尊に三分類は行なっておりません。人法本尊の分類というのは、爾前権教の三宝論の亜流的思考です。小乗経では仏が優れております。権大乗では法が優れておる説を取ります。法華経の迹門では法が優れ人が劣る。法華本門は人法一箇です。従って、三宝論は法華経本門によって三宝一体となり、三大秘法の中の本門の本尊は三宝一体が前提ということでありますので、この日寛の分類もおかしいといえます。
 
    四 
 次、法本尊のところに移ります。「法本尊とは、即ち是れ事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経のご本尊是れなり」と、一念三千を理とか事と表現しても、それは諸法の変化相であり、法界の構造を表わしたにすぎません。ですから、「事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経ご本尊」というようにはならない。一念三千即本尊、日蓮即題目とはならないのです。それは『観心本尊鈔』曰く、「お題目の中に一念三千が含まれる」からであります。
 次に、「無作本有の南無妙法蓮華経」ですが、無作本有というのは法性の本有性、空諦ということであります。根源的な存在の意味でありますので、普遍真如の理です。ですからこれも事理総在の南無妙法蓮華経とは、合致しません。日寛の説く事の一念三千は迹中の本門の理でございまして、随他意の本門の理にすぎないのであります。
 次に、「但文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名づくる意如何」の問いがありますが、これには答えないんです。それで重ねて問うと、「修禅寺決に曰く、南岳大師一念三千の本尊を以て智者大師に付す」と天台の本尊観で答えています。しかし、この原文は「一念三千観の本尊」であり、「一念三千の本尊」ではありません。日寛は、私情釈を正当化するため、原文を改ざんしているのです。
 こういう論法で本尊論も、戒壇論も題目論も展開されてくるのであります。
 次に、「若し爾らば其の法体の事とは何ぞ」。この問いにも答えていません。一念三千論は法体論、法界論で、本尊は帰依の対象であります。それを合成したところに日寛の論理の飛躍があります。本尊と一念三千を合成することは木に竹を接ぐごとき無謀なのではないかと思います。
 
    五 
 次に、人本尊に移ります。ここが堅樹日寛がはじめて日蓮本仏論を表現するところであります。「人本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」と、久遠元初自受用報身、これは因を指します。それから本因妙の教主が果であります。しかし、これは因と果が錯綜しています。本尊の概念の説明になっていない、人本尊という理論にはなっていません。
 次に、久遠元初の自受用身は釈尊の因行であり、それをなぜ宗祖というのかの問に対して外用と内証で答えています。
 上行菩薩が久遠の本地に修行して久成釈迦となり、上行菩薩の立場で末法に出現した、これは修行にほかならないです。寿量品の一仏二名の義に他なりません。
 結論として外用は上行の応現で門下共通の解釈を是とし、内相と称して垂迹は上行、顕本は日蓮と称しますが、上行は釈尊の垂迹ではありません。ここでは、宗祖が何を顕本したかについての説明もありません。
 第二問、「顕本日蓮とは何か」の答えとして現証と文証で答えます。現証では『開目鈔』を引きますが、ここは殺されそうになった、死期を免れただけの話であって、本仏論の話をしているわけではありません。人間日蓮から、菩薩日蓮に、あるいは菩薩日蓮から佛日蓮に変身することはないのです。この人生の激変を発迹顕本という用語で表します。日蓮本仏論の文証にはなりません。
 次に『上野殿御書』の引用がありますが、これは仏の三世諸仏の成道の事実を明かしただけの文証で、本尊論とは関係ございません。従って、現証としては意味をなしません。それから『本尊鈔見聞』の文は、日蓮本仏論の文証ではありません。「凡夫の魂魄にあらず」と、日蓮聖人の心、凡夫の肉体と心でないことを示しています。
 次に、「久遠名字の本仏の魂魄なり」とは久遠に名字即を修行して本仏となった魂を継承していることを明かしています。つまり、本仏の精神の継承でありまして、本佛論の説明ではありません。
 『四条金吾鈔』の引用に「命をとどめおくことは」と、これは精神の境を分けた場所という意味で、由緒のある場所の意味で、寂光土とも言うべきかと表現したのであり、日蓮本仏論の文証でも現証でもありません。
 以上の現証の証明する日寛の論説は、いずれも日蓮本仏論を論証するにあたらない我田引水の釈にすぎません。
 人本尊の第三問は「どうして日蓮を本仏とするのか」ということに対して、「釈尊は熟脱の教主、日蓮は下種の教主、本因妙の教主だから」と回答します。
 次に第四問で、「他門流では日蓮大菩薩と言っている。でも本当は日蓮大聖人と呼ぶべきだ」という展開をします。
 
    六 
 次に人法体一論。これは問題がないようです。
 日寛の本尊論は、三秘を一秘に集約した本門の題目論ではなく、本門の本尊を一秘と規定しました。三秘を集約すれば、本門の題目の一秘になるのは祖意であり、日蓮門下共通の見解です。ですから、大石寺を除く日蓮教学はみな題目論から展開するのでありますが、石山は本門の本尊から三秘を展開してきます。石山教学というのは教学は全て本尊論から展開されてくるのです。ここは大きな違いであります。
 しかも、その本尊論の展開は、導入部分から全て誤りでございまして、引用した経文も全部別意の文であります。しかも堅樹日寛の私情で解釈し、論が展開されているということであります。
 また、本尊に人法論を展開し、人法一箇の本尊を立てますがその本尊の特徴は、文底独一の本門の事の一念三千と称します。人法一箇の人とは日蓮、法とは文底事の一念三千と規定します。この説は伝教大師の『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身」を拠所といたします。人即法の理論は成立いたしますが、人即法の本尊の文証たりえません。堅樹日寛の人法一箇本尊は独善的己義であり、曲会私情の釈だということでとりあえず結論として終らせていただきます。
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託愛知県 常唱寺修徒)

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