日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 伝日遠「千代見草」に聞くビハーラ活動の理念と実践 |
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伝日遠「千代見草」に聞くビハーラ活動の理念と実践
柴 田 寛 彦
まず最初にレジメの中の修正をお願いします。心性院日遠上人作と伝えられる『千代見草』は愛媛に先立たれたとなっておりますが、これは愛娘でございます。愛娘に先立たれたお弟子さんの尼僧さんに、日蓮教学に基づいた臨終教化の在り方、看病の心得等を説き示した内容になっております。養珠院お万の方様の帰依で知られているように、江戸初期という時代背景を持つにも関わらず、内容は現代の私達にとっても示唆に富むものであります。高齢化、病気、障害等に苦しみ、悩む人々への支援活動、ビハーラ活動の基本的な考え方がこの中に教えられていると思われますので、それについて若干の考察を加えながら報告をさせていただきたいと思います。
なお、『千代見草』は国書刊行会から出されております『近世仏教集説』の中に収録されております。また、国文東方仏教叢書にも収められておりますけれども、今回は宝永七年(一七一〇年)の版本がございますけれども、それに基づいて藤井学さんが校注を加え、岩波書店の日本思想体系『近世仏教の思想』の中に収録されているものを基にして、私なりに現代語に訳しましてそれを紹介しながら話を進めていきたいと思います。
『千代見草』は岩波書店版で合計で五十六ページで、それほど長くはないのですけれども、中編の書物であります。上巻、下巻の二巻に分かれておりまして、上巻は主として人生の無常を説いて、常日頃の臨終に向けた用意としての十戒を心がけるべきこと、あるいは唱題の重要性、臨終行儀のあり方などが上巻に説かれております。下巻では看病の功徳、具体的な看病の仕方、看病の心得等について細かく記されております。本日はその中から三点を抽出いたしまして紹介したいと思います。
一つは病に苦しむ人々に手を差し伸べ、看病するということは慈悲心によるものであり、仏道の修行の重要なことであるという点、看病の功徳という点であります。二番目は臨終の心得を常日頃からしっかりと保っていることが重要であると指摘されている、これが二点目。それから三番目は病人を看病することを通じて全てに通じる優しい心配り、その心得、そういったものが教えられているということ、以上の三点に焦点を絞ってお話をさせていただきたいと思います。
まず第一番目の看病の功徳という点であります。『千代見草』の中に「ことに後生を願う人は出家にても在家にても他人にても親類にても病とならばまめやかに心を留め、慈悲心にて看病すべし」という一節があります。まめやかな心というのは誠実で思いやりのある心で、慈悲心を持って看病しなさい。そして対象は出家者だけではない、在家者であっても身内の者でなくても、他人に対してでも、病気の人に対しては思いやりのある心で看病しなさい、ということが書かれているわけであります。
そして、それらの背景として四分律には「釈迦如来の仰せられるには、もし、私に供養したいと思う人があれば病人の看病をしなさい。看病すべき人を捨ておいて看病しないことは大いなる罪である。諸仏は大慈悲を体としておられる。私の言葉に従ってよく看病する人は即ちこれ仏心である」と教えられている。また『僧祗律』には「出家者は修行、学問の暇をおしみ、在家者は生活の営みの暇を惜しんで看病すべき人を捨ておいて看病しないことは大罪である云々」。このように大乗小乗を問わず、看病の功徳は仏を供養する功徳に等しいと示されていると『千代見草』の中に書かれています。
この中で「出家者が修行、学問の暇を惜しんで看病しないことは罪なのだ」ということがあります。例えば私どもが病人がいるのに、修行が忙しいからということで、あるいは勉強が忙しいからといって看病をなおざりにすれば、それは仏道に反することなんだということが書かれてあります。在家者であっては生活の営みの暇を惜しんで、仕事が忙しいからといって看病をせずに病人を放っておくことは仏の慈悲心にかなわないことだということまで説かれているのであります。
このように、何をおいてもまず苦しんでいる人、悩んでいる人に手を差し伸べること、これが大事であって、それが大乗の菩薩の行いであるということが繰り返し説かれてあります。そのことを私どもの自分自身のこととして考えるならば、例えば檀信徒の中に病人がいた場合には、そのお見舞いをしたり、あるいはその悩み苦しみに対して心のケアをするということを、教師、僧侶の仕事の重要な柱に位置付けなければならない。そして、可能ならば介護の手助けをしていくということも僧侶の役割であるということを読み取る必要があるだろうと思います。さらに、檀信徒に対しては家族や友人など病人がいた場合には、その人達の看護を心からするように勧めること、あるいは心のケアをどのようにしたらいいかということを教えていく役割を私達が担っているといってもいいのではないかと思います。
二点目のことでありますが、先ほどの発表の中で葬儀のことが話題になっておりましたけれども、この『千代見草』の中でも「臨終の心得を常日頃からしておくことの重要性」ということが指摘されております。一部を紹介いたしますと、「経に『人善行を積めば死ぬる時悪念なし。植木の先より傾き倒るるに必ず曲がりに従うが如し』とあります。この経の意味は常々善行を行って臨終の大事を心にかけていれば死ぬ時にあたって必ず悪念を抱くことがなく、悪道に落ちることがありません。例えば、植木を根元から切り倒す時には先端から傾きますが、必ず幹の歪みに従って地に倒れ落ちるものです。これと同じように人の命の根を切る時も常々の心の歪みにしたがって、心の落ち着くところに向かうものであります。常々歪まぬように心を育てることが肝要なのであります」、というふうに常々臨終の心得をしておくことの重要性が指摘されております。そして十戒、殺生、盗み、邪淫、妄語、大酒、説四衆過悪、自讃毀他、慳貪、瞋恚、誹謗三宝といった十戒に対しての常日頃からの心がけということの重要性が指摘されております。
また臨終の一念の大事、臨終の時に思う一念が極めて大事なことであるということ、あるいは臨終の時の心得、死が迫った場合には介護をする人達がどのようにそれに介添してやればいいか、あるいは臨終の枕元で臨終行儀をどのようにすべきかということまでも、事細かに書かれてあります。私どもは先ほどの発表の中にもありましたけれども、僧侶でありながら意外と死後のことについてタブー視しているきらいがないでしょうか。死をいかに迎え、死後に何を求め望んでいくべきかについて意外と目をそらしている部分があるのではないかと思います。これは日本の経済発展に伴って豊かさ、健康、長寿が手に入れられるような時代になってきたということを背景にしているだろうとは思いますが、しかし今再び、こうした流れに反省が求められている。死と死後に対して私達が日常、どのような心がまえをしていくべきかということに対する教化が求められている時代であろうと思います。そのように思う時にこの『千代見草』の示している教えは重要であろうと思う次第であります。
三番目には、病人の心、心理状態についてどのように考え、それを指導していくべきか、お見舞いをする際にどのように心がけをすべきかというようなことがあります。例えば、「毘尼母論には『病人が看病人の言うことをきかず、また看病人が病人の心と合わなければ二人とも罪である』と説かれています。看病人は病人が腹を立てるようなことはかりそめにも言ったりしてはなりません。寝起きや寝返りにも身をもって心をこめていたわりながらすべきであります」等々。あるいは「お見舞いをする時には看病人であっても見舞い人であっても室内に入る時には、まず戸の外でしばし気を静めて病人の傍に寄ってもさらに気を静めて、病人の弱い気に自分の気を充分に移してからものを言うべきであります。」また「一般に病人の傍には三人、五人よりも多くては騒がしくなってよくありません。見舞い人を全員室内に入れるようなことは避け、また一人ひとりと話をすることも避けるべきでありましょう」云々、といった看病をする人達の心がけ、あるいはお見舞いをする人の心がけておくべきこと等々、現代の私達にも非常に示唆に富む内容が多々説かれてあります。
この書物を読むことによって、私達は日蓮宗教師として広い視野に立って、社会のあり方、政治や経済、科学、技術、文化といったもののあり方について見定めて誤りを正しくしていくというマクロ的な広い視野に立った視点と、同時にごく身近な足元、隣にいる悩み、苦しんでいる一人ひとりに手を差し伸べてともに悩み、ともに苦しみ、ともに救われていくという実にミクロ的な視点で教化活動をしていくことの必要性が示されているように思うのであります。
最後に昨日のニュースで大々的に報道されておりましたハンセン氏病に対する政府の控訴の断念のニュースを聞きまして身にしみて感じさせられているところがございます。それは、本来国の政治は政治家のためのものでも官僚のためのものでも、また法のためのものでもなく、一人ひとりの国民のためのものであるということを改めて感じさせられたのであります。翻って、私達僧侶の役割は一体何なのだろうかということを考えてみますと、決してお寺を守るための僧侶、教義を守るための僧侶、ましてや私達の生活を守るための宗教であってはならないのであります。
すぐ傍にいる、すぐ隣にいる悩み苦しんでいる人達に寄り添い、ともに悩み、ともに苦しみ、そしてともに救われていかなればならないものではないでしょうか。昨日のハンセン氏病のニュースを聞いてつくづくとそう感じさせられた次第であります。そして、そうした活動をしていく上で、ビハーラ活動をしていく上で、中世の古文書でありますけれども、『千代見草』が現代の私達に伝えてくれているものは非常に大きいものがあると感じる次第であります。以上で終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託秋田県 本澄寺住職)
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