日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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法器養成・宗教教育とは何か<質疑応答> ←前次→

〈質疑応答〉
Q:先ほどの修行期間中に取られたデータのグラフですけれども、それが成長過程を示さずにリバウンドしたというのはどういう事なのか、心理分析の中でどういうところのどういう指標が上がったり、下がったりしたのかをもう少し説明していただければと思います。
A:先ほど申し上げた指標を簡単にしますと、CPは批判的な心の動き、NPはヒトを育てる心の動き、Aは大人としての心の動き、FCは自由奔放な心の動き、ACは依存する心の動きです。
   グラフEのリバウンド2は、ご覧のように批判的な心の動きCPが九から十七へと増大しており、是非の判断にこだわっていることが分かります。さらに自由な感情FCが十五から十七へと増大しており、自由になりたい欲求にこだわっていることも分かります。つまり、信行生活によって、それらの感情がコントロールされ陶冶されて安定すればよいのですが、そういう心の中で葛藤が起きた時に、それを指導する方々が信仰的に配慮して、「集団生活の中で生じてくる葛藤は、周囲が私を辛くさせているのではなく、自分自身の心の形がその苦しみを作っているのです」というように、苦しみを周囲の責任としないで、自分自身と向き合えるように指導していればこのような結果にはならなかったといえます。
   そこで起きている心の動きは「周囲が自分を苦しめているがもう少し我慢していればいい」というように耐えているために、その部分が補強されていることをこのデータが示しているわけです。
Q:法器養成のカリキュラムを工夫する問題ですが、求道心とか回心とかそういうものが、信行道場の三十五日間や、もしくは布教研修所の半年間、また大荒行堂の百日間位で出てくる可能性というのはあるのでしょうか。
A:私はあると思います。百日間の荒行堂においても、それは指導する方々の指導の仕方にもよると思うのですが、あると思います。私は遠寿院荒行堂の行僧で、平成八年度に五行を終わりましたけれども、遠寿院の荒行堂で行われている信行生活についていえば、毎年十人や二十人というような適正な人数ですから、生活の基本となる食事については食養に基づいたお粥の指導や、読経や水行の所作の指導などを含めた全体管理ができますから、「修行中に体験する艱難辛苦によって自分自身の心身が浄化する」というような方向で修行がうまくいけば、そういったことは起きて当然だと思います。またそういう指導を自分の時にはやっていたと思っております。
   大事なことはカリキュラムを組むという段階で、現在行われている修行のあり方のこのところはこのように良い、このところは悪いということをどのように把握するか、それをしない限り新しいカリキュラムを組みかえようがないはずです。現状の認識を科学的に検証しないままに、ただ気分的に信行道場は三十五日間では短いから五十日間にしようとか、そういう議論が行われていたり、また荒行堂では相伝されてきたはずの自行段の三十五日間が、突然五十日になったり、三十五日間に戻ったりしています。
   このようなカリキュラムの組みかえも、単にその場の気分の問題で行われているだけの話であって、実際に行うためには、現代的な検証方法で科学的なデータを積み重ねて、それなりの情報を得てから、それなりに組みかえをしなければ、法器養成・宗教教育というものは実現できないように思います。
Q:法器養成のカリキュラムということを考える時に、やはり一番ベースになるのは日蓮聖人ご自身がどういう教育を受けられたのかということと、日蓮聖人ご自身がお弟子さん方にどういう教育をなさったのかということがベースになっているんだろうと思います。そして、現在のカリキュラムもそういった伝統を踏まえて、それにその時々の新しい要素が加えられていくというふうに私は理解したいと思うんですけれど、その時に日蓮聖人ご自身がお弟子さん方に施した教育、そういったものが今現在のカリキュラムの中にどういうふうに生かされているのか、その辺について影山上人はどのようにお考えか、そういったことに関する文献とかデータがありましたら教えてください。
A:私は日蓮聖人の僧侶としての立ち居振る舞いの基本は、比叡山で天台の止観業を基本に学んでいたわけですから、その行軌に則っているものと確信をしております。またそればかりではなく日本の仏教界を見ましても、この天台止観業の基本となっている『天台小止観』をベースにしない行法論はどの宗派も存在しません。
   つまり、インド・中国・日本を通じた仏教史上、この『天台小止観』は最大で最後の成文化された行法の指南書であります。日蓮宗においては、深草の元政上人が『天台小止観』の注釈書『小止観抄』を現実に書いており、現在でも天台宗においてはこの元政上人の『小止観抄』が初学の入門書として使われているといいます。
   また、かつて各檀林で行われていた信行のカリキュラムも、私は堀ノ内妙法寺で僧侶としての所作を学びましたから、かつては妙法寺の茗谷旃檀林でも、天台の止観業に基づいた行法が行われていたことを伺い知ることが出来ます。
   例えばいま現在信行道場で行われている唱題行などの正行について、本宗では正坐を以って正行の所作にしておりますが、本来は仏家は端座という教えがあり、端座とはこれは趺坐のことですから、この意味では本宗は仏教の伝統をどこかで忘失しているといえます。少なくとも本宗にあっても趺坐ができるようなカリキュラムを組まない限り、僧侶としての所作が完結できません。
   ですから、荒行堂で正坐ばかりしているものですから、足がつぶれた云々と大騒ぎしております。荒行は足をつぶすことが修行ではないので、趺坐の知識を持っていればそういう問題は起きてこない、数え上げればこういう諸々のことがあるわけです。
   どうして荒行堂ではお粥を食べるのか、そういったことも総て天台の止観業をベースにすれば理解できることであって、そういったものを基礎にして今の現状に見合うような形で積み上げていかない限り、現代的な僧侶の信行の規範ができません。
   つまり、私たちはいま、日蓮聖人の教えを知識的に知っていることで僧侶であるという風に理解する方が多いのですが、やはりそこに僧侶としての行規というものがあるはずです。立ち居振舞いの中にものを学ぶわけですから、それを学ばない限り宗祖の遺文の一言が本当に理解できるかどうか、場合によったら疑問であるはずです。
   ですから、そういったことを前提にしながら、現代社会の中で修行というのはどういうことが行なのか、修行をすればどうなるのかということを、まず知識としてではなく、自分の体験の中で、そしてその体験を客観的に評価していく方法論をとらない限り、法器養成のカリキュラムは現状のまま先へは進まないのではないでしょうか。
   例えば先ほど「宗教間対話」についての発表がありましたが、それは各宗教が持っている理念的な色々な議論かも知れません。しかし、宗教が何のために動いているのか、日蓮聖人の言葉を借りれば立正安国のお心で、人の苦を楽に変えていくんだという仏教の根本的な働きがあるわけで、その働きから見ていくならば、主義主張、方法論が違っても現実論はどうなのか、そこら辺で見ればまた違った部分が見えてくるかと思います。現実において、人の生き方や考え方を変える実際の力となるものは、それは修行のあり方です。それは修行の基本となるべき行規という枠組みです。
   僧侶を養成する信行道場であっても、その場が修行の場であれば結界でなくてはならない、その道場で修道生活をする結界をする以上、教える者も教えられる者もそこで結界をして区別はない、信行道場の先生であってもそれは結界は結界だと。ともに行をするところに意味がある、このような仏教の基本的な修行の所作を理解するためには、何としても『天台小止観』をベースにして行かなければならないといえます。

(A) 唱題行の実習三ヶ月の比較
実線は修行前
点線は修行後
(B) 三十五日間の成長過程1
実線は修行前
点線は修行後
(C) 三十五日間の成長過程2
実線は修行前
点線は修行後
(D) 三十五日間でのリバウンド1
実線は修行前
点線は修行後
(E) 三十五日間でのリバウンド2
実線は修行前
点線は修行後

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