日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 教化学論集 > 第2集 > 教化学論攷及び質疑応答
法器養成・宗教教育とは何か ←前次→

法器養成・宗教教育とは何か
影 山 教 俊
 これから「法器養成・宗教教育とは何か」と題して教化学の研究発表をしたいと思います。ところで、この法器養成・宗教教育がとても重要であるということは、本年で三十四回を数える中央教化研究会議でもその当初から叫ばれておりましたが、法器養成とは何か、宗教教育は何かという具体的な事実について、今まで議論されたことがないように思います。
 では今まで議論の俎上に載ってきた法器養成や宗教教育とは、如何なるものであったのでしょうか。それはあくまで法華経や日蓮教学といった古典的な教義学からの問いかけが主流であって、私たちの実際の日常生活の中において、日蓮聖人に指示された信行実践が、日常生活の中でどのように有効であるか、その信行実践によって信仰者がどのように具体的に改善されたのか、というような具体的な調査研究がほとんど行われておりませんでした。
 ではなぜこのような具体的な調査研究が行われなかったのでしょうか。この事実はある意味で私たち僧侶のウイークポイントであると思います。どのような理由でウイークポイントであるかといいますすと、それは私たち僧侶が正しいと思っている宗教観と、世間一般の方が思っている宗教観には大きな隔たりがあるということなのです。
 この隔たりはとても大きく、例えば昨年あることが原因となって、世間的な意味での戒名料や葬儀料が問題となり、葬儀法要のあり方が社会的に問われました。ところが、仏教界がとった態度というものは、仏教教理や古典的な教義学の立場から、戒名料や葬儀料というものはありません、それは宗教的な信仰に基づくお布施です、それは布施行という修行でもあります、などと解釈説明しておりました。しかし、現代人にとっての宗教は、このような葬儀法要の観念的な議論を指すのではなく、実際の葬儀法要を営むときにかかる諸費用などの経済的な負担をも含んでいるわけです。その宗教的な行為には経済的な痛みが伴っており、観念的な議論でだけでは扱えない宗教的な意味が問われているのです。
 このように私たち僧侶を世間一般の方と比べますと、宗教観に大きな隔たりがあることに気づきます。ですから私は法器養成・宗教教育を古典的な教義学の議論ではなく、宗教の実際的な面、宗教の機能的な面から、もう一度このような切り口から考え直してみたいと思います。
 とくにこの十年の間に少しずつ調査し、荒行道場であったり、信行道場であったり、また布教研修所であったり、そちらに赴いた折にご協力を賜って、それなりの実証的な検証資料を集めてまいりましたので、これらの調査資料をもとに宗教の機能的な部分をクローズアップしてお話をしてみたいと思います。
  一、法器養成に対する現状の問題点について
 日蓮聖人の鎌倉開教以来、その布教伝道活動を生命とするわが宗門では、多様化した現代社会の中で、その活動の中核となるべき後継者づくり、法器養成の重要性が問われ、また「総合一環したカリキュラム教育」の必要性が主張されて長い年月が経っております。しかしながら、ここで私は、一つ明らかにしておかなければならない事実があると思います。それは法器養成、つまり宗教教育というものが、一般の学校教育に見られるような知識偏重型の教育や技能教育などと、その目的と方法が大きく異なっているにも関わらず、どうも同じように混同されているという事実をまず考えておかなければならないと思っております。
 そして、そのように混同された教育観に支えられた宗門の法器養成機関、その教育活動によって、わが伝道教団の明日を担うべき若い方々の、その法器の資質低下を招き、結果として教団の面目である法華経の広宣流布という願業すら、法華系新宗教の台頭を許しているのが実情であるといえます。
 ここでその理由の一つとして指摘したいことは、戦後の昭和二十六年に新宗教法人法が制定され、それが二十七年四月に施行されて以来、農地解放によって田畑寺領という経済基盤を失った寺院にあっては、本来は宗教的な意義づけの上にあった檀信徒は、葬儀法要の依頼者、言い方を変えれば顧客として経済的な基盤を担う重要な位置づけを得て現在に至っているという事実です。これを荒削りに申し上げますと、経済基盤を担う顧客としての檀信徒というような体系に変わったということです。
 変わったということは、当然、葬儀・法要の執行者としての僧侶の儀式・典礼をきっちりとやる、その辺に宗門の法器養成の方向性が求められてきた、つまり、葬儀・法要の求めに応ずる葬儀・法要対応型の法器養成が行われてきた、法式作法を中心とする宗教の知識と技能教育が行われてきた、といっても過言ではありません。
 ここで一言申し上げておきますと、この葬儀・法要対応型の法器養成によって、戦後の経済的な危機が救われたのは事実であり、現在のような寺院運営の経済基盤が安定することが出来たといえます。それは、その時代の要請に基づいて機能していたといえます。しかしながら、いま世間一般の目の高さから僧侶や寺院を眺めた場合、例えばオウム真理教の信者は「僧侶やお寺は風景だった」と指摘したように、葬儀・法要対応型の法器養成によって輩出された僧侶は、顧客としての檀信徒が求める儀式典礼の要請に応ずるよう教育されているわけであって、戦後から日本経済の高度成長期まではそれでよかったものの、バブル経済の崩壊以降の社会的な混乱の中では、結果的には葬儀や法要以外の社会的なニーズに応えられなくなった事実が指摘できると思います。
 では葬儀や法要以外の社会的ニーズとは何か。この辺りについては、今春に日蓮宗現代宗教研究所より出ました『顕正会』〈二〉(『現代宗教研究』別冊二〇〇一・三)をご覧いただければわかると思いますが、ある意味では現代のような社会的な危機にあって、僧侶や寺院というものは地域社会の心の安全弁としての機能を果たすべきであるといえます。
  二、日蓮聖人に求められる僧侶の理想
 ここで日蓮聖人に求められる僧侶の理想、いったい法器養成・宗教教育とはどういうことなのか、日蓮聖人のお言葉に耳を傾けますと、聖人は晩年にご自身の生涯をふり返られて、「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(『報恩鈔』聖人五十五才)と語られ、また「今日蓮は去る建長五年四月二十八日より、いま弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(『諌暁八幡鈔』聖人五十九才)と語られているように、私たち日蓮門下の法器養成・宗教教育の目的を熟慮いたしますと、日蓮聖人ご一代の宗教活動(求道、悟りの確信、救いの願業)を突き動かした「苦しみのある人々を救済しなければならない」という、日蓮聖人のそのような慈悲心の啓発を、私は日蓮宗の法器養成・宗教教育の目的とすべきであったと考えます。まさに「異の苦を受くるは日蓮一人の苦なり」のお気持ちであろうと思います。
 ここに一般的な学校教育にみられる知識や技能の獲得を目的とする教育方法と、法器養成・宗教教育にみられる慈悲心の啓発、つまり、人格や資質の向上につながることを目的とする教育方法とは大きく異なり、その性格上まったく異なったプロセスを持っていることが指摘できます(=法器養成・宗教教育は心の変化を促すもの)。
  三、宗教的理想とその実現方法について
 では、その教育の方法論はどういうことでしょうか。信行生活によって実現される日蓮聖人に求められる僧侶の理想像とその方法について、日蓮聖人のお言葉に耳を傾けてみますと、皆様もご存知のように『観心本尊鈔』の中に、「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強て之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』……」(『観心本尊鈔』聖人五十二才)と語られて、私たちは無自覚(無意識)ではあるが本当は『お釈迦さまのように素晴らしい』という宗教的理想が示されております。つまり、日蓮聖人は私たちはお釈迦さまのように素晴らしいんだと、そういう理想像をきっちりとお持ちになっています(=宗教的な私たちの理想)。
 そして、その理想像を自己実現するためには「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし……」(『唱法華題目抄』聖人三十九才)とその行儀を語られ、私たちがいま求めている法器養成・宗教教育の基本が唱題修行という行儀にあることが示されております(=理想を実現するためには信行生活が必要)。
 私はこの妙法蓮華経の五字、七字を受持する信行生活の中に、この法器養成の肝心があると思います。具体的に言えば私たちは常に日常性の中に埋没して、「私たちの本当の姿は、お釈迦さまのように素晴らしいという宗教的な理想」が見えなくなっております。この日常性に埋没して見えなくなっている自分の姿を、その信行生活によって自覚することが、法器養成・宗教教育の最も肝心になるべきことではないだろうかと思います。先師は信行生活によって自身の宗教性を高め、人格や資質の向上をなし得ていたといえます。(影山教俊「修行による変性意識状態の誘導の比較について」日蓮宗現代宗教研究所編『教化学論集』1所収)
  四、法器養成カリキュラムを科学的に評価する必要性について
 ところで、現在実施されている日蓮宗大荒行堂をはじめ、信行道場、大崎・熊谷学寮、沙弥校、僧風林など法器養成カリキュラムが実際に機能しておりますが、これらのカリキュラムが実際に機能しているか否かの科学的な基礎研究も行われないまま放置されてきたために、いままで中央教化研究会議などで長い間討議されてきた「総合一貫したカリキュラム教育」や、「行学林構想」なども、単なるスローガンとして一人歩きをしてきたに過ぎないといえます。
 先ほども述べましたように、法器養成・宗教教育が信行生活によって宗教性を高め、人格や資質の向上を目指している以上、信行によって変化する修行者の心と身体(心理と生理)の変容を、科学的な基礎研究によって的確に評価する必要性があります。このような調査研究を待たなければ、「総合一貫したカリキュラム教育」など望めないはずです。
 また法器養成・宗教教育とは、「苦しみのある人々を救済しなければならない」という慈悲心の啓発にあることを指摘しました。これを平たくいいますと、水泳のインストラクターが水泳理論を学ぶ以前に、未熟ではあってもまず水に親しみ、水を恐れることなく泳げることが大前提であるように、僧侶として自立して行くためには、宗教教義や布教手段などのテクニックを身につけるなど、その知識を学び、技術を学んで、それで良しとするものではなく、まずは宗教的な自分の体験によって、そこに一つの安心というようなこと、つまり自分が泳ぐということをまず自分が体験しなければならないのではないかと思います。
 つまり、導き手となっていくためには、自分がその導く場所まで行くことが先ではないか。水泳はそれはほど上手ではなくとも、自分が泳げる範囲の水泳は教えられるものです。この宗教的な体験がないと、なかなかお話が先に進まないと思います。僧侶というインストラクターは、宗教体験を泳ぐ、そしてその場所まで導いていけるので、導いていくからこそ、私たちはお導師さんと呼ばれるのではないでしょうか。
  五、現在実施されている「法器養成カリキュラム」の実際を科学的に評価する
 ところで、現在実施されている僧風林、信行道場、布教研修所などのカリキュラムを、信行規範としての『天台小止観』『摩訶止観』から評価しますと、そのカリキュラムはなんらの訂正を加えることなく、「法器養成カリキュラム」として充分機能するといえます。
 つまり信行生活によって自身の宗教性を高め、人格や資質の向上をなし得ることが出来るということです。
 ここでその論拠を示してみましょう。信行生活(修行)の基本的な方法を『天台小止観』の「修五番止観」と、『摩訶止観』に見える常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種のパターンを基準として、現行の法器養成カリキュラム(沙弥校、信行道場、布教研修所などカリキュラム要約)の実際を評価すると、次のようになります。
 一・常坐三昧(じっと坐って静かになる)
 二・常行三昧(目的をもった行為そのものになる)
 三・半行半坐三昧(読経、唱題、声明の音声や所作そのものになる)
 四・非行非坐三昧(見返りを求めない無意の行為そのものになる)
 この四つのパターンを基本として、現行の法器養成カリキュラムの全課程で日夜一貫して行なわれている起床に始まり就寝に終わる十四課程のカリキュラムを評価すると、次のようになります。
  @朝のおつとめ =一・常坐三昧
           三・半行半坐三昧
  Aラジオ体操  =二・常行三昧
   掃除     =四・非行非坐三昧
   水行     =二・常行三昧
  B朝食     =二・常行三昧
  C自習時間   =三・半行半坐三昧
  D訓話     =二・常行三昧
  E法儀     =三・半行半坐三昧
   声明     =三・半行半坐三昧
   写経、境内巡拝=二・常行三昧
   読経     =三・半行半坐三昧
  F昼のおつとめ =一・常坐三昧
           三・半行半坐三昧
  G昼食     =二・常行三昧
  H読経     =三・半行半坐三昧
   法要習礼   =一・常坐三昧
           三・半行半坐三昧
   唱題行    =三・半行半坐三昧
  I夕方のおつとめ=一・常坐三昧
           三・半行半坐三昧
  J夕食     =二・常行三昧
  K講義     =二・常行三昧
  L唱題行    =三・半行半坐三昧
  M入浴     =二・常行三昧
 以上の十四課程は、「修五番止観」を前提とした常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種のパターンと全て相応するものであるところから評価すると、この現行のカリキュラムは、なんらの訂正を加えることなく「法器養成カリキュラム」として機能しうることが認められます。
 しかし現状の法器養成カリキュラムの姿が、一般教育の知識技能教育、一種の職能教育へと偏向しているのは何故なのでしょうか。それは現行のカリキュラム、起床に始まり就寝に終わる十四課程が上述の基本パターンの類型に当てはまったとしても、そこには修行が修行になるための必要条件、信行生活によって自身の宗教性を高め、人格や資質の向上することが機能していないからだと指摘できます。
 少し専門的にいえば、信行生活によって変性意識状態(Alterd State of Consciousness)が誘導されていないために、心の形が健康的な方向へ人格や資質が向上していないのです。
 つまり現状の十四課程が儀式的・形式的であって、そこには精神性の変化を促す過程が見られない、止観の双用(身体的要素と精神的要素に自意識を注意集中する)によって生理的な緊張の弛緩、自意識の活動レベルの低下による変性意識状態の誘導が起きていないためだといえます。
 ではどうしてカリキュラムに問題がないのに、信行生活が機能していないのでしょうか。
 それは水泳のインストラクターが泳げないインストラクターであるように、導き手となっている僧侶のインストラクターが宗教経験を泳げていない事実を浮き彫りにしているのではないでしょうか。僧侶のインストラクターは宗教的知識の講釈師ではなく、インストラクターとして実際に即した心と身体の調適した指導が出来るように、身体的な技法も含めて修練されることが必須であると思えます。(影山教俊「現行の沙弥校カリキュラムの実際とその実証的評価」日蓮宗現代宗教研究所刊『現代宗教研究』第二十八号所収)
  六、法器養成カリキュラムに見られる心の変化の実際について
 ところで、信行生活が本来の意味で修行になっておりますと、人格や資質の向上が生じてきます。その修行者は心の形が変化をして、ある程度宗教的な体験をしていることが評価できます。ここに東大式エゴグラム(TEG)という、心の形を評価する問診票があります。例えばこの問診票を使って信行生活の前後で、心の形の変化を比較してみますと、人格や資質の向上が行われたか否かハッキリと評価できます。
 まずこのTEGのグラフを見てください。実線のラインと点線のラインがあります。実線のラインは修行前のその人の心の形の部分です。点線のラインは修行が終わった後のもので、二つを比較して心の変化を表記したものです。ごく簡単にその様子を説明しましょう。文末のグラフを参照して下さい。
 一応参考のためにTEGの五つの指標について説明しておきますと、まずCPはことの是非にこだわる父親的な感情の動き、NPはヒトを育てる養育的な感情の動き、Aは現実的な処理能力という大人としての感情の動き、FCは自由な子供としての感情の動き、ACは依存する子供の感情の動きというそれぞれの指標を、数値が表しております。
 A 唱題行の実習三ヶ月の比較
 これはある意味では、修行が修行になった方の心の変化の形です。三ヶ月のお題目修行でかなり神経症的であったものが、非常に安定した心の状態ができました。とくに養育感情NPが十八から十五に、自由な子供の感情FCが七から十二に、依存する感情ACが十八から十四へと、少ないものが大きく、大きいものが少なくなり、安定したことが分かります。
 B 三十五日間の成長過程1
 これは信行生活三十五日間の成長過程の見られたグラフです。これもグラフAと同様に、とくに自由な子供の感情FCが二十から十六へと安定しており、非常に自由奔放な心の成長過程が伺われております。
 C 三十五日間の成長過程2
 これも信行生活三十五日間で成長過程の見られたグラフです。とくに養育感情NPが八から十四へと安定しており、心の成長過程が伺われております。
 D 三十五日間でのリバウンド1
 これは信行生活三十五日間が心の成長過程とならずに、高いところが更に伸びてリバウンドを起こしております。これは典型的なリバウンドで、始めの心の形が信行期間を通じてかえって補強されている、始めのグラフの形がそのまま大きくなっていることが分かります。これはまさしくリバウンドをしています。つまり、信行生活の期間の中で自分の自我を出さずにじっと耐えていた、「我慢をしていた」という証拠です。
 ヒトにはそれぞれ個性がありますから、その個性は集団の中で、その個性の形によって自我がぶつかります。ぶつかることで自分の個性の問題点が明らかになってくる。そして、その問題となる個性を自身の宗教性を高めることで、修行が修行になることで陶冶されて、心の形が円滑に変化して行きます。しかし、信行道場であるならば三十数日間我慢していればいい、布研であれば半年間を我慢していればいい、というような信行生活の姿勢がリバウンドを招いている、と考えられます。
 E 三十五日間でのリバウンド2
 このグラフもリバウンドをしております。とくにCPの九から十七は、これはものごとの是非にこだわる指標ですから、この方はすごく我慢をしていることが分かります。本人もかなり修行中辛かったといっております。
 これは法器養成の期間を経た時に、あるものを我慢させ、場合によると罰水をかぶらせるとか、罰経をするとか、そういうようなことが現実に起きているわけであります。つまりその期間、信行生活のある一定期間、それが行になるべきものが行にならなかった、そういうことをこれらのデータが如実に示していると言えます。
 これから法器養成の実証を、実際を考えるのであるならば、ある程度実証的に調査、研究をして、そしてその下で信行道場なり、荒行堂なり、布教研修所、法器養成のカリキュラムを組み直すことが必要なのではないか、と私はこのところで申し上げたいわけであります。時間が過ぎておりますので、この辺で終わらせていただきます。
(日蓮宗現代宗教研究所主任千葉県 釈迦寺住職)

このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2006 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.