日蓮宗 現代宗教研究所
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葬儀の現状を通して、お寺離れの実情を追う
灘 上 智 生
   一、はじめに
 私は、現在横浜の中区にあります善行寺の副住職をしております。善行寺は、葬儀・法要中心の典型的な都市型寺院といえると思います。現在三十三才で、僧侶になって約十年が経ちました。近年、葬儀の形態が何となく変化してきているのではないかと思っておりました。以前は(といっても十年前ですが)、人が亡くなると、通夜を行い、葬儀をやり、法号を授与し、繰り上げの初七日を行う。そして四十九日忌で埋葬するといった段取りが普通でした。ところが、この二〜三年は、通夜・葬儀を行わずに火葬しお骨にして、四十九日忌で埋葬するという檀信徒がぼつぼつ見られるようになりました。また、火葬場に行き、釜の前でお経を唱えるわけですが、釜の前に並んでいる位牌が俗名の物がけっこう目に付くようになりました。先日葬儀に行きました際に、葬儀社の人と話す機会がありました。その葬儀社は、横浜近辺に多くの葬祭場を抱え、年間二千数百の葬儀をこなす大手の葬儀社でした。無宗教葬、即ち僧侶のような宗教者が来ない葬送はどれぐらいの比率かを尋ねると、七〜八%ぐらいということでした。無宗教葬の内容は、好きな音楽を流したり、献花をしたり、ただ家族で集まり葬祭場で食事をしたりといった具合だそうです。中には、遺体をただ保管してもらい、翌日火葬しお骨にするといった方もいるそうです。以上の例はまだまだ少数であり、大半の方が僧侶をお呼びすることを希望するということでしたが、近年、無宗教葬が増えてきているということも事実ということでした。
 近年の葬儀における変化を何となく感じていたわけですが、その変化の裏には、何らかのメッセージが隠れているはずです。そのメッセージを読み解くことにより、我々僧侶がどのような状況におかれ、今後我々はどうすべきかを考えるためのヒントが整理できればと思います。
   二、葬儀の現状
 現在、寺院は檀家制度の庇護の下、バブル崩壊も何処吹く風といった具合であるのが実感である。横浜という恵まれた地域性もあるが、地元のお上人とお会いする時は、「忙しいですか?」が、口癖になっているような気がする。確かに、バブル崩壊後、法要の数やその際のお布施、塔婆の本数は、減少傾向にある。一方、寺院運営における重要な部分を締める葬儀について見てみると、一軒当たりのお布施は減少しているようである。
 しかし、この高齢社会という現状において、葬儀の件数はある程度一定しており(檀家数の四〜五%)、寺院運営においてそれほどの危機感は感じられない。ある程度の数の檀家を抱えており、まじめに葬儀・法要をしていれば、まだまだ仏教界は安泰だといった雰囲気もあるように思われる。お寺の中にこもって、世間の情報に対して耳を塞いでいれば、平穏無事なのであるが、お寺を取り巻く外の状況はなかなか厳しいようである。
 最近、テレビや新聞、雑誌などの情報メディアにおいて、葬儀に対する批判をよく目にする。葬儀批判を整理してみると、大きく二つに分けられる。
 一つは、葬儀が形骸化しているという批判である。人が亡くなったら、まず葬儀屋さんを呼ぶといったステレオタイプが成立することにより、葬儀社がいなければ葬儀が出来ない現状がある。葬儀社による葬儀のマニュアル化が進み、僧侶の読経もBGM化している感もある。また、葬儀社と僧侶の癒着が反感を買い、社会に対する不信感を生む結果となっている。又バブル時代は顕著であった、地域や会社関係などといった義理で参列する人のために大規模となった葬儀である「義理葬」への批判がある。
 もう一つは、経済的な面への批判である。葬儀社に支払う高額の葬儀代金、戒名や僧侶へのお布施に対する疑問や反発、不信である。
 以上のような批判を背景に、新しい傾向の葬送の方法が出てきた。高額で形骸化した葬儀の反省として、身内と友人だけで行う小規模な葬儀である「地味葬」、意味不明のお経でなく自分の好きな音楽を流すなどといった、仏教批判からくる「無宗教葬」、義理で参加する人々を避ける「密葬」を行った後、親しい人のみを呼んで行う「お別れ会」「偲ぶ会」などである。いずれも「自分らしい葬儀」をコンセプトにしており、自分にとって不必要なものは思い切って省くといった「簡素化」が主流であり、葬儀も選択の時代に入ったといえる。
 この様な状況下、葬儀を依頼してくる檀信徒の家族において如何なる変動が生じているのかを俯瞰することは、今後の葬儀がどうなっていくのかを考える上でも必要であると思う。
   三、檀家制度の行方
 我々僧侶が葬儀に呼ばれる場合、故人及び遺族は檀信徒であることが多い。つまり檀家制度あっての葬儀なのである。現在の寺院運営も、檀信徒からの葬儀や法要などの布施収入によるところが大きいことを考えると、檀信徒の家族がどのような状況に置かれており、それが今後檀家制度にどのような影響を及ぼすかを考える事も重要である。
 従来、日本人は特有の家意識を持ち、その家を継承してきた先祖を祭ろうとしてきた。
その祭祀の多くは僧侶に委ねられてきたのである。この家と先祖と寺院(僧侶)という相互補完的な三角構造が檀家制度を形成してきたといえる。
 しかし、現代社会の状況は、寺院運営の基盤である檀家制度に異変を起こしているのである。高度経済成長期の社会変動と共におきた核家族化は、家意識を希薄化し、それに伴い先祖観も変化したといえる。「先祖は供養しなければならない」「供養して当然」という考え方が変化し、顔を知らない先祖は祭らないといった状況である。遠方に暮らしており、近くに墓を買ったから改葬をするというケースで、両親・祖父母のお骨は持っていくが、それ以前の先祖のお骨は無縁墓に入れてくれといった依頼があった。それは、丁重にお断りしたが、経験上の先祖しか先祖とは思えないという意識の現れた例である。
 また、少子・高齢社会では、檀家制度の構成要素である仏壇・墓の継承問題を一層深刻にしている。夫婦ともに仏壇・墓の継承を期待されたもの同士の結婚が一般的となり、従来の父系男子の単系継承が実質上困難となっている。「家の墓」を代々子孫が永代に守っていく継承システムが制度疲労を起こしている。今後少子・高齢社会においては、世帯数の現象が生じ、それはイコール檀家数の減少に繋がる。
 そして、近年顕著になった変化として、個人化があげられる。離婚、結婚しない、子どもを持たないといった人生の選択をするものが多くなった。マスコミでは「家族崩壊」として報道されている。つまり、婚姻の公的意味付けの希薄化であり、従来とは異なった、子どもや配偶者を持たないライフコースが市民権を獲得したことを意味する。それは、個人を単位とする社会の成立であり、従来の家族における制約が取り払われた状態といえる。
 特に、家庭における女性の意識の変化は顕著である。従来の家意識の持っていた、親から子どもへといった縦のラインではなく、女性はむしろ自分達夫婦が主体の横ラインを重視する傾向にある。最近、女性が嫁ぎ先の墓には入りたくないという発言を時々耳にする。現に先日、檀家である嫁ぎ先の両親には内緒で墓地が欲しいという女性がいた。彼女から良く話を聞いてみると、長男である夫は承知しているとのことである。家や夫に従属した立場から脱却し、個として人格の認められた生き方を確立するために行う行動と考えられる。この様な個人化の傾向は、将来的に先祖の祭祀が困難になることは容易に想像がつき、檀家制度に大きな影響を及ぼすことになる。
 以上簡単に述べた現代社会の状況は、我が国の近代に始まる家族や個人のあり方を根底から変えるような大きな地殻変動の一面であると考えられる。そしてこの変動は、現在の寺院の基盤である檀家制度を解体する要素を十二分に含んでいるのである。家意識が希薄化した現代においては、檀家制度は個人を束縛するシステムとなっているのである。多くの人が家意識から逃れたように、個を束縛する檀家制度から逃れようとしないとも限らない。この様な状況下で、檀家制度の上に成り立っている葬儀はどうなっていくのであろうか。
   四、葬式仏教崩壊のシナリオ
 社会変動に伴う家族の変貌や意識の変化によって、檀家制度が制度疲労を起こし、機能不全となりつつある。しかし、現実には高齢社会であり、葬儀に忙しい日々を送っている僧侶も多いと思う。実感とすれば、そんな事言ったって、急激に檀信徒の意識が変化し葬儀の依頼が激減するとは考え難い。なぜならば、形骸化していながらも檀家制度に庇護され、会社で言えば固定客を抱えている状態である。墓地を抱えている寺院では、自分のところで葬儀を行わなければ一般的には埋葬を許可しないため、葬儀を檀家数に比例して執り行うことになる。檀家からすれば、葬儀や戒名などいらないと思っても、遺骨を埋葬するためには菩提寺に葬儀を依頼しなければならないのである。
 この様ないわば墓質による現状を、世間では批判的な意味を込めて、葬式仏教と呼ぶ。私は個人的には、仏教に対する社会のニーズが葬儀に向けられている現状では、遺族の納得する葬儀を行うことも、我々僧侶の重要な役目であると考えている。ところが、社会における仏教批判から来る「無宗教葬」が出始めてきている事を考えると、それほど葬式仏教も安泰ではないという事である。葬式仏教が崩壊し、無宗教葬が益々増加するという可能性がある事を、以下「私がある寺院の寺墓地に墓地を永代使用している典型的な檀家であるが、仏教に対し不信感を持っており、無宗教葬を行うつもり」で述べたいと思う。
 社会変動により伝統的な基層文化が意味を失いつつある現在、無宗教葬を行う事は大して困難な事ではない。親戚や地域社会に対する世間体のために、従来の僧侶を呼んで葬儀を行わなければならないといった社会的圧力は極端に減少した感がある。また、人が亡くなったら僧侶にお経を上げてもらいたいと思う、多くの人が持っていた感情も薄れつつある。功利主義にどっぷり漬かった現代人の感覚からすると、寺院に納めるお布施が節約できることになる。問題は遺骨をどうするかという事である。お金があれば、宗教を問わない霊園に墓地を作り埋葬すれば良い。以前は、先祖伝来の墓地を動かすなどもっての外といった思いがあったが、近年は自分の生活圏にお墓を建てる人が多くなり、お骨の改葬も手順を踏めば簡単に行えるため、お墓を移す事に抵抗が無くなったようである。そこまでの金銭的余裕がなければ、どうするか。ここで近年登場してきた、安価な永代供養墓を体の良いお骨の捨て場所として利用できる。又、散骨という方法もある。
 この様にちょっと考えただけでも、既存の檀家制度における檀家が必ず菩提寺に葬儀を依頼してくるかといったら、そうとは言えない状況にある。人が亡くなった時はお坊さんを呼んでお経を読んでもらい供養をするといった従来自明だったものが喪失しつつある時代まで、あとちょっとの所まで来ているのではないだろうか。「お坊さんを呼んで葬儀をしなければならない」という固定観念が崩れ、「無宗教葬でいいじゃん」という時代を迎えているのである。
   五、我々に今、何ができるのか?
 葬儀や法要が無くなれば生きた人間を扱う本来の仏教に戻る、などといった強がりを言ってもしょうがないので、我々に今、何ができるのかを考えてみたい。
 当然、布教をして法華経信仰者を増やし、法華経でなければ成仏できないと多くの人に思わせる事が出来るほどの教化力があれば苦労はしない。しかしその様な力は私には無いため、現状の葬式仏教を如何に継続・再生させるかを考えたい。
 お葬式を行う意味とはなんであろうか。それは大きく分けて三つあると考えられる。
  @死体の処理
  A霊魂の処理
  B遺族の心の整理
 まず、@の死体の処理であるが、これは今、葬儀社が一手に引き受けて行っている。これにおいては、現状では僧侶が主導権を取る事は困難であろう。Aの霊魂の処理は、僧侶の専売特許である。しかし現状では、霊魂というイメージの衰弱化が生じ、その意味付けも困難となっている。また「仏教でなければ霊魂は鎮められない」などと言ったら、それは相手に対する脅しにもなり兼ねない。やはり霊魂の処理は、日頃から修行を怠らず、故人そして遺族からも信頼される僧侶にならなければ困難であると思う。そして、事ある毎に御仏の教えの素晴らしさを説かねばならない。Bの遺族の心の整理であるが、ここが疎かになっているような気がしてならない。形骸化した葬儀や法要をするだけでは、遺族の心の整理にはたいした役には立たない。通夜や葬儀はもちろんのこと普段の時でも、話を聞いてあげて、心の整理の手助けをすべきである。ここで注意しなければならないのは、僧侶が心の整理をしてあげるのではなくて、あくまでも遺族が心の整理をするのに付き合い、手助けする事が大切である。
 なお、A霊魂の処理とB遺族の心の整理は、相関関係にある。霊魂の処理をし、故人を成仏させる事により、遺族を癒すのである。葬儀を、遺族のための「ヒーリングとしての葬儀」としてしまうと、霊魂の処理という概念が益々弱体化し、突き詰めれば、遺族が納得すれば無宗教葬で良いということで、無宗教葬が増加する危険性がある。
 また、従来日本においては、死を語る事はタブーとされていたように思う。死の事について語り合う事が少なければ、僧侶主導で葬儀を執り行う事が出来る。しかし、自分の死について周りのものと語り合うができるようになる死後の自己決定権の確立された社会となると、僧侶が積極的に死について教えを説かなければ、社会情勢に流され葬儀は益々脱宗教化していくと思われる。
        
 たいそうな事は思い付きませんが、我々は現状に危機意識を持って、葬儀・法要を親身になって、一生懸命執り行う事が求められており、それにより寺院運営を安定したものとし、余った時間で教えを広めるための修行に励むべきなのでしょう。
(日蓮宗現代宗教研究所研究員神奈川県 善行寺副住職)
【参考文献】
『お葬式をどうするか』 ひろさちや著 PHP新書 二〇〇〇
『墓をめぐる家族論』 井上治代著 平凡社新書 二〇〇〇

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