南無阿弥陀仏<往生の業には念仏を先とす>[p088]
安楽集の上に云く、「問うて云く、一切衆生は皆仏性あり。遠劫より以来、まさに多仏に値ひたてまつるべし。何によつてか、今に至るまでなほ自ら生死に輪廻して、火宅を出でざるや。答へて曰く、大乗の聖教によらば、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここをもつて火宅を出でざるなり。何ものをか二とする。一には謂はく聖道、二には謂はく往生浄土なり。それ聖道の一種は、今の時、証し難し。一には大聖を去れること遥遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる」と。この故に大集月蔵経に云く、「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修せむに、いまだ一人として得る者あらじ」と。当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。この故に大経に云く、「もし衆生あつて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨んで、十念相続して、我が名字を称せむに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ」と。[p089]またまた一切衆生は都て自ら量らず。もし大乗によらば、真如実相・第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦・修道にマ入し、ないし那含・羅漢に、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、皆五戒・十善のために、よくこの報を招く。しかるを持得する者は甚だ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴き風駛き雨に異ならむ。 ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて、専精に常によく念仏せば、一切の諸障、自然に消除して、定んで往生することを得。何ぞ思量せずして、都て去りゆく心なきや。[p089]
私に云く、窃に計れば、それ立教の多少は宗に随つて不同なり。しばらく有相宗の如きは、三時教を立てて一代の聖教を判ず。いはゆる有・空・中これなり。無相宗の如きは、二蔵教を立てて、もつて一代の聖教を判ず。いはゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。華厳宗の如きは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いはゆる小乗教・始教・終教・頓教・円教これなり。法華宗の如きは、四教・五味を立てて、もつて一切の仏教を摂す。 四教といふは、いはゆる蔵・通・別・円これなり。五味といふは、いはゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。真言宗の如きは、二教を立てて一切を摂す。いはゆる顕教・密教これなり。[p089]
今この浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。[p089]
問うて曰く、それ宗の名を立つることは、もと華厳・天台等の八宗・九宗にあり。いまだ浄土の家において、その宗の名を立つることを聞かず。しかるを今、浄土宗と号すること何の証拠かあるや。答へて曰く、浄土宗の名、その証一にあらず。元暁の遊心安楽道に云く、「浄土宗の意はもと凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」と。また慈恩の西方要決に云く、「この一宗による」と。また迦才の浄土論に云く、「この一宗窃に要路たり」と。その証かくの如し。疑端に足らず。[p090]
但し諸宗の立教は、正しく今の意にあらず。しばらく浄土宗について、略して二門を明かさば、一は聖道門、二は浄土門。初めの聖道門とは、これについて二あり。一は大乗、二は小乗。大乗の中について、顕密・権実等の不同ありといへども、今この集の意はただ顕大および権大を存す。故に歴劫迂廻の行に当れり。これに准じてこれを思ふに、まさに密大および実大を存すべし。しかれば則ち、今、真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、これら八家の意、正しくこれにあり。まさに知るべし。次に小乗は、惣てこれ小乗の経・律・論の中に明かすところの声聞・縁覚・断惑証理・入聖得果の道なり。上に准じてこれを思ふに、また倶舎・成実・諸部の律宗を摂すべきのみ。およそこの聖道門の大意は、大乗および小乗を論ぜず。この娑婆世界の中において、四乗の道を修し四乗の果を得るなり。四乗は、三乗の外に仏乗を加ふ。[p090]
次に往生浄土門とは、これについて二あり。一は正しく往生浄土を明かすの教へ、二は傍らに往生浄土を明かすの教へなり。[p090]
初めに、「正しく往生浄土を明かすの教へ」といふは、謂はく三経・一論これなり。三経とは、一には無量寿経、二は観無量寿経、三は阿弥陀経なり。一論とは、天親の往生論これなり。或いはこの三経を指して浄土の三部経と号す。[p091]
問うて曰く、三部経の名、またその例ありや。答へて曰く、三部経の名その例一にあらず。一は法華の三部・謂はく無量義経・法華経・普賢観経これなり。二は大日の三部。謂はく大日経・金剛頂経・蘇悉地経これなり。三は鎮護国家の三部。謂く法華経・仁王経・金光明経これなり。四は弥勒の三部。謂はく上生経・下生経・成仏経これなり。今はただこれ弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づくるなり。弥陀の三部は、これ浄土の正依の経なり。[p091]
次に「傍らに往生浄土を明かすの教へ」といふは、華厳・法華・随求・尊勝等の、もろもろの往生浄土を明かすの諸経これなり。また起信論・宝性論・十住毘婆沙論・摂大乗論等の、もろもろの往生浄土を明かすの諸論これなり。[p091]
およそこの集の中に聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめむがためなり。これについて二の由あり。一は大聖を去ること遥遠なるによる。二は理深解微なるによる。この宗の中に二門を立つることは、独り道綽のみにあらず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師、皆この意あり。[p091]
しばらく曇鸞法師の往生論の注に云く、「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一は難行道、二は易行道。難行道とは、謂はく五濁の世に、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。この難に乃ち多くの途あり。ほぼ五三を言つて、もつて義意を示さむ。一は外道の相善、菩薩の法を乱る二は声聞の自利、大慈悲を障ふ。三は無顧の悪人、他の勝徳を破す。四は顛倒の善の果、よく梵行を壊る。五はただしこれ自力のみにして他力の持つなし。かくの如き等の事、目に触るるに皆これなり。譬へば陸路より歩行するは則ち苦しきが如し。易行道とは、謂はくただ仏を信ずる因縁をもつて、浄土に生ぜむと願ずれば、仏の願力に乗つて、便ちかの清浄の土に往生することを得。仏力住持して即ち大乗正定の聚に入る。正定は即ちこれ阿毘跋致なり。譬へば水路より船に乗つて則ち楽なるが如し」と。<已上> この中の難行道は即ちこれ聖道門なり。易行道は即ちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言異なりといへども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし。[p091-092]
また西方要決に云く、「仰いで惟みれば、釈迦、運を啓いて弘く有縁を益す。教へ、随方に闡けて、並びに法潤に霑ふ。親しく聖化に逢うて、道、三乗を悟りき。福薄く、因疎かなるものを、勧めて浄土に帰せしめたまふ。この業をなす者は、専ら弥陀を念じ、一切の善根、廻らしてかの国に生ず。弥陀の本願、誓うて娑婆を度したまふ。上現生の一形を尽し、下臨終の十念に至るまで、倶によく決定して皆往生を得」と。<已上>[p092]
また同じき後序に云く、「それ以みれば、生れて像季に居して、聖を去ることこれ遥かに、道三乗に預かつて、契悟するに方なし。人天の両位は躁動して安からず。智博く、情弘きものは、よく久しく処するに堪へたり。もし識痴かに、行浅きものは、おそらくは幽途に溺れむ。必ずすべからく跡を娑婆に遠くして、心を浄域に栖ましむべし」と。<已上> この中、三乗は即ちこれ聖道門の意なり。浄土は即ちこれ浄土門の意なり。三乗浄土、聖道浄土、その名異なりといへども、その意また同じ。浄土宗の学者、先づすべからくこの旨を知るべし。[p092-093]
たとひ先より聖道門を学する人といふとも、もし浄土門において、その志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。例するに、かの曇鸞法師、四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて、偏に西方の行を弘めしが如し。上古の賢哲、なほもつてかくの如し。末代の愚魯、むしろこれに遵はざらむや。[p093]
問うて曰く、聖道家の諸宗、おのおの師資相承あり。謂はく天台宗の如きは、慧文・南岳・天台・章安・智威・慧威・玄朗・湛然、次第相承せり。真言宗の如きは、大日如来・金剛薩・・竜樹・竜智・金智・不空、次第相承せり。自余の諸宗、またおのおの相承の血脈あり。しかるに今言ふところの浄土宗に師資相承の血脈の譜ありや。答へて曰く、聖道家の血脈の如く、浄土宗にまた血脈あり。ただし浄土一宗において、諸家また不同なり。いはゆる廬山の慧遠法師、慈愍三蔵、道綽・善導等これなり。今しばらく道綽・善導の一家によつて、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説あり。一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師、大海禅師・法上法師。<已上、安楽集に出づ> 二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感法師・少康法師。<已上、唐宋両伝に出づ>[p093]
観経疏の第四に云く、「行について信を立つといふは、しかも行に二種あり。一には正行、二には雑行。正行と言ふは、専ら往生の経によつて行を行ずるもの、これを正行と名づく。何のものか是や。一心に専らこの観経・弥陀経・無量寿経等を読誦し、一心に専ら思想を注めて、かの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せば即ち一心に専らかの仏を礼し、もし口称せば即ち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養せば即ち一心に専ら讃歎し供養す。これを名づけて正とす。また、この正の中について、また二種あり。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。もし礼誦等によるをば、即ち名づけて助業とす。この正助二行を除いての已外の、自余の諸善をばことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、即ち心常に間断す。廻向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。[p094]
私に云く、この文について二の意あり。一には往生の行相を明かし、二には二行の得失を判ず。初めに「往生の行相を明かす」といふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども、大きに分つて二とす。一には正行、二には雑行。初めの正行とは、これについて開合の二の義あり。初めの開を五種とし、後の合を二種とす。[p094]
初めの「開を五種とす」といふは、一には読誦正行、二は観察正行、三は礼拝正行、四は称名正行、五は讃歎供養正行なり。第一の読誦正行は、専ら観経等を読誦するなり。即ち文に、「一心に専らこの観経・弥陀経・無量寿経等を読誦す」と云ふ、これなり。第二に観察正行は、専らかの国の依正二報を観察するなり。即ち文に、「一心に専ら思想を注めて、かの国の二報荘厳を観察し憶念す」と云ふ、これなり。第三に礼拝正行は、専ら弥陀を礼するなり。即ち文に、「もし礼せば即ち一心に専らかの仏を礼す」と云ふ、これなり。第四に称名正行は、専ら弥陀の名号を称するなり。即ち文に、「もし口称せば即ち一心に専らかの仏を称す」と云ふ、これなり。第五に讃歎供養正行は、専ら弥陀を讃歎供養するなり。即ち文に、「もし讃歎供養せば即ち一心に専ら讃歎し供養す。これを名づけて正とす」と云ふ、これなり。もし讃歎と供養とを開して二とせば、六種正行と名づくべきなり。今、合の義によるが故に、五種と云ふ。[p094-095]
次に「合を二種とす」といふは、一には正業、二には助業。初めの正業は、上の五種の中の第四の称名をもつて正定の業とす。即ち文に、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」と云ふ、これなり。次に助業は、第四の口称を除いての外、読誦等の四種をもつて、しかも助業とす。即ち文に、「もし礼誦等によるをば、即ち名づけて助業とす」と云ふ、これなり。[p095]
問うて曰く、何が故ぞ、五種の中に独り称名念仏をもつて、正定の業とするや。答へて曰く、かの仏の願に順ずるが故に。意に云く、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。[p095]故にこれを修すれば、かの仏の願に乗じて必ず往生を得るなり。その仏の本願の義、下に至りて知るべし。次に雑行は、即ち文に、「この正助二行を除いて已外の、自余の諸善をばことごとく雑行と名づく」と云ふ、これなり。意に云く、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらずと。但し今しばらく五種の正行に飜対して、もつて五種の雑行を明かすべし。一は読誦雑行、二は観察雑行、三は礼拝雑行、四は称名雑行、五は讃歎供養雑行なり。第一に読誦雑行といふは、上の観経等の往生浄土の経を除いての已外、大小乗の顕密の諸経において受持し読誦するを、ことごとく読誦雑行と名づく。第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除いての已外、大小、顕密、事理の観行を、皆ことごとく観察雑行と名づく。第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除いての已外、一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除いての已外、自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するを、ことごとく称名雑行と名づく。第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除いての已外、一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行と名づく。この外また布施・持戒等の無量の行あり。皆雑行の言に摂尽すべし。[p096]
次に二行の得失を判ぜば、「もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、即ち心常に間断す。廻向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と、即ちその文なり。この文の意を案ずるに、正雑二行について、五番の相対あり。一には親疎対、二には近遠対、三は有間無間対、四は廻向不廻向対、五は純雑対なり。[p096-097]
第一に親疎対といふは、先づ親と云ふは、正助二行を修する者は、阿弥陀仏において甚だもつて親昵とす。故に疏の上の文に云く、「衆生、行を起して、口に常に仏を称すれば、仏即ちこれを聞しめす。身に常に仏を礼敬すれば、仏即ちこれを見たまふ。心に常に仏を念ずれば、仏即ちこれを知りたまふ。衆生、仏を憶念すれば、仏、衆生を憶念したまふ。彼此の三業相ひ捨離せず。故に親縁と名づくるなり。次に疎といふは雑行なり。衆生、仏を称せざれば、仏即ちこれを聞きたまはず。身に仏を礼せざれば、仏即ちこれを見たまはず。心に仏を念ぜざれば、仏即ちこれを知りたまはず。衆生、仏を憶念せざれば、仏、衆生を憶念したまはず。彼此の三業、常に捨離す。故に疎行と名づくるなり」と。[p097]
第二に近遠対といふは、先づ近といふは、正助二行を修する者は、阿弥陀仏において甚だもつて隣近とす。故に疏の上の文に云く、「衆生、仏を見むと願ずれば、仏即ち念に応じて、目の前に現在したまふ。故に近縁と名づくるなり。次に遠といふは雑行なり。衆生、仏を見むと願ぜざれば、仏即ち念に応ぜず、目の前に現じたまはず。故に遠と名づくるなり」と。但し親近の義、これ一に似たりといへども、善導の意分ちて二とす。その旨、疏の文に見えたり。故に今、引き釈するところなり。[p097]
第三に無間有間対といふは、先づ無間といふは、正助の二行を修する者は、弥陀仏において憶念間断せず。故に「名づけて無間とす」と云ふ、これなり。次に有間は、雑行を修する者は、弥陀仏において憶念常に間断す。故に「心常に間断す」と云ふ、これなり。[p097-098]
第四に不廻向廻向対は、正助二行を修する者は、たとひ別に廻向を用ゐざれども、自然に往生の業となる。故に疏の上の文に云く、「今この観経の中の、十声仏を称するは、即ち十願十行ありて具足せり。いかんが具足する。南無と言ふは即ちこれ帰命、またこれ発願廻向の義、阿弥陀仏と言ふは即ちこれその行なり。この義をもつての故に、必ず往生を得」と。<已上> 次に廻向といふは、雑行を修する者は必ず廻向を用ゐるの時に、往生の因となる。もし廻向を用ゐざるの時には、得往生の因とならず。故に「廻向して生ずることを得べしといへども」と曰ふ、これなり。[p098]
第五に純雑対は、先づ純といふは、正助二行を修する者は、純らこれ極楽の行なり。次に雑といふは、これ純ら極楽の行にあらず。人天および三乗に通ず、また十方浄土に通ず、故に雑と云ふなり。しかれば西方の行者、すべからく雑行を捨てて正行を修すべし。[p098]
問うて曰く、この純雑の義、経論の中において、その証拠ありや。答へて曰く、大小乗の経・律・論の中において、純雑二門を立つること、その例一にあらず。大乗は即ち八蔵の中において、しかも雑蔵を立つ。まさに知るべし。七蔵はこれ純、一蔵はこれ雑なり。小乗は即ち四含の中において、しかも雑含を立つ。まさに知るべし。三含はこれ純、一含はこれ雑なり。律には則ち二十のモ度を立てて、もつて戒行を明かす。その中に前の十九はこれ純、一は雑モ度なり。論には則ち八モ度を立てて、諸法の性相を明かす。前の七モ度はこれ純、後の一はこれ雑モ度なり。賢聖集の中、唐宋両伝には十科の法を立てて、高僧の行徳を明かす。その中に前の九はこれ純、後の一はこれ雑科なり。ないし大乗義章に五聚の法門あり。前の四聚はこれ純、後の一はこれ雑聚なり。また顕教のみにあらず。密教の中に純雑の法あり。謂はく山家の仏法の血脈の譜に云く、「一には胎蔵界の曼陀羅の血脈の譜一首。二には金剛界の曼陀羅の血脈の譜一首。三には雑曼陀羅の血脈の譜一首」と。前の二種はこれ純、後の一首はこれ雑なり。純雑の義多しといへども、今略して小分を挙ぐるのみ。まさに知るべし。純雑の義、法に随つて不定なり。これによつて今善導和尚の意、しばらく浄土の行において、純雑を論ずるなり。この純雑の義、内典のみに局らず、外典の中にその例甚だ多し。繁きことを恐れて出ださず。[p099]
但し往生の行において二行を分つこと、善導一師のみに限らず。もし道綽禅師の意によらば、往生の行多しといへども、束ねて二とす。一には謂はく念仏往生、二には謂はく万行往生。もし懐感禅師の意によらば、往生の行多しといへども束ねて二とす。一には謂はく念仏往生、二には謂はく諸行往生。<恵心これに同じ> かくの如きの三師、おのおの二行を立てて往生の行を摂す。甚だその旨を得。自余の諸師はしからず。行者まさにこれを思ふべし。[p099]
往生礼讃に云く、「もしよく上の如く念々相続して、畢命期とする者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何をもつての故に。外の雑縁なく、正念を得るが故に。仏の本願と相応するが故に。教に違はざるが故に。仏語に随順するが故に。もし専を捨てて雑業を修せむと欲する者は、百の時に希に一二を得。千の時に希に五三を得。何をもつての故に。雑縁乱動して正念を失ふによるが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教と相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。廻願慇重真実ならざるが故に。貪・瞋、諸見の煩悩、来たつて間断するが故に。慙愧悔過あることなきが故に。また相続してかの仏の恩を報ぜむと念はざるが故に。心に軽慢を生じて、業行をなすといへども常に名利と相応するが故に。人我自ら覆うて、同行善知識に親近せざるが故に。楽うて雑縁に近づいて、往生の正行を自障障他するが故になり。何をもつての故に。余、比日自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同なり。専雑異あり。ただ意を専らにしてなす者は、十は即ち十生ず。雑を修して心を至さざる者は、千が中に一もなし。この二行の得失、前に已に弁ずるが如し。仰ぎ願はくは一切の往生人等、よく自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生ぜむと願ぜば、行住坐臥に必ずすべからく心を励まし、己を剋して昼夜に廃することなかるべし。畢命を期とせよ。正しく一形にあつて、少苦に似たれども、前念に命終して、後念に即ちかの国に生れて、長時永劫に常に無為の諸楽を受く。ないし成仏までに生死を逕ず。あに快きにあらずや。まさに知るべし」と。[p099-100]
私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せむや。行者よくこれを思量せよ。[p100-101]
ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文[p101]
無量寿経の上に云く、「たとひ我仏を得たらむに、十方の衆生、心を至し信楽して、我が国に生ぜむと欲して、ないし十念せむに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ」と。[p101]
観念法門に、上の文を引いて云く、「もし我成仏せむに、十方の衆生、我が国に生ぜむと願じて、我が名号を称すること下十声に至らむに、我が願力に乗つて、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。[p101]
往生礼讃に、同じく上の文を引いて云く、「もし我仏と成らむに、十方の衆生、我が名号を称すること下十声に至らむに、もし生ぜずは正覚を取らじ。かの仏、今現に世にましまして仏に成りたまへり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生することを得」と。[p101]
私に云く、一切の諸仏、おのおの惣別二種の願あり。惣といふは四弘誓願これなり。別といふは釈迦の五百の大願、薬師の十二の上眼等の如きこれなり。今この四十八の願は、これ弥陀の別願なり。[p101]
問うて曰く、弥陀如来、いづれの時、いづれの仏の所においてか、この願を発したまへるや。答へて曰く、寿経に云く、「仏、阿難に告げたまはく、乃往過去、久遠無量[p102]、不可思議、無央数劫に、定光如来世に興出したまひて、無量の衆生を教化し度脱して、皆道を得せしめて、乃ち滅度を取りたまへり。次に如来まします、名づけて光遠と曰ふ。 <乃至>次を処世と名づく。かくの如きの諸仏<五十三仏なり>、皆ことごとく已に過ぎて、その時に、次に仏まします、世自在王如来と名づく。時に国王まします。仏の説法を聞いて、心に悦予を懐いて、尋いで無上正真道の意を発し、国を棄て王を捐て、行じて沙門となり、号けて法蔵と曰ふ。高才勇哲にして世と超異せり。世自在王如来の所に詣でたまふ。 <乃至>ここにおいて世自在王仏、即ちために広く二百一十億の諸仏の刹土の人天の善悪、国土の麁妙を説いて、その心願に応じて、ことごとくこれを現与したまふ。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞き、皆ことごとく覩見して、超えて無上殊勝の願を発す。その心寂静にして、志所着なく、一切世間によく及ぶ者なし。五劫を具足して、荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき。阿難、仏に白さく、かの仏の国土の寿量、幾何ぞや。仏の言はく、その仏の寿命、四十二劫なり。時に法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき」と。<已上> 大阿弥陀経に云く、「その仏、即ち二百一十億の仏の国土中の諸天人民の善悪、国土の好醜を選択し、心中の所欲の願を選択せむがためなり。楼夷亘羅仏<ここには世自在王仏と云ふ>、経を説き畢つて、曇摩迦<ここには法蔵と云ふ>、便ちその心を一にして、即ち天眼を得、徹視して、ことごとく自ら二百一十億の諸仏の国土の中の諸天人民の善悪、国土の好醜を見て、即ち心中の所願を選択して、便ちこの二十四の願経を結得す」。<平等覚経またまたこれに同じ>[p102-103]
この中の選択とは、即ちこれ取捨の義なり。謂はく二百一十億の諸仏の浄土の中において、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。大阿弥陀経の選択の義かくの如し。双巻経の意、また選択の義あり。謂はく、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取すと云ふこれなり。選択と摂取と、その言異なりといへども、その意これ同じ。しかれば不清浄の行を捨て、清浄の行を取るなり。上の人天の善悪、国土の麁妙、その義また然なり。これに准じてまさに知るべし。[p103]
それ四十八願に約して、一往おのおの選択摂取の義を論ぜば、第一に無三悪趣の願は、覩見するところの二百一十億の土の中において、或いは三悪趣あるの国土あり。或いは三悪趣なきの国土あり。即ちその有三悪趣の麁悪の国土を選捨して、その無三悪趣の善妙の国土を選取す。故に選択と云ふなり。第二に不更悪趣の願は、かの諸仏土の中において、或いはたとひ国の中に三悪道なしといへども、その国の人天、寿終つて後に、その国より去つて、また三悪趣に更るの土あり。或いは悪道に更らざるの土あり。即ちその悪道に更る麁悪の国土を選捨して、その悪道に更らざる善妙の国土を選取す。故に選択と云ふなり。第三に悉皆金色の願は、かの諸仏の土の中において、或いは一土の中に黄白二類の人天あるの国土あり。或いは、純ら黄金色の国土あり。即ち黄白二類の麁悪の国土を選捨して、黄金一色の善妙の国土を選取す。故に選択と云ふなり。第四に無有好醜の願は、かの諸仏の土の中において、或いは人天の形色、好醜不同の国土あり。或いは形色一類にして、好醜あることなきの国土あり。即ち好醜不同の麁悪の国土を選捨して、好醜あることなき善妙の国土を選取す。故に選択と云ふなり。[p103-104]
ないし第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土の中において、或いは布施をもつて、往生の行とするの土あり。或いは持戒をもつて、往生の行とするの土あり。或いは忍辱をもつて、往生の行とするの土あり。或いは精進をもつて、往生の行とするの土あり。或いは禅定をもつて、往生の行とするの土あり。或いは般若をもつて、<第一義を信ずる等これなり>往生の行とするの土あり。或いは菩提心をもつて、往生の行とするの土あり。或いは六念をもつて、往生の行とするの土あり。或いは持経をもつて、往生の行とするの土あり。或いは持呪をもつて、往生の行とするの土あり。或いは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつて、おのおの往生の行とするの国土等あり。或いは専らその国の仏の名を称して、往生の行とするの土あり。かくの如く一行をもつて、一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。或いは一仏の土の中に、多行をもつて、往生の行とするの土あり。或いは多仏の土の中に、一行をもつて、通じて往生の行とするの土あり。かくの如く往生の行、種々不同なり。つぶさに述ぶべからず。即ち今は前の布施・持戒ないし孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。故に選択と云ふなり。しばらく五の願に約して、略して選択を論ずること、その義かくの如し。自余の諸願はこれに准じてまさに知るべし。[p104]
問うて曰く、普く諸願に約して、麁悪を選捨し善妙を選取すること、その理しかるべし。何が故ぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただ偏に念仏一行を選取して[p104]、往生の本願とするや。答へて曰く、聖意測り難し、たやすく解することあたはず。しかりといへども、今試みに二の義をもつてこれを解せば、一は勝劣の義、二は難易の義なり。初めの勝劣は、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。ゆゑいかんとならば、名号はこれ万徳の帰する所なり。しかれば則ち、弥陀一仏の所有の四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳、最も勝とするなり。余行はしからず。おのおの一隅を守る。ここともつて劣とするなり。譬へば世間の屋舎の、その屋舎の名字の中には棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂すれども、棟梁等の一々の名字の中には一切を摂することあたはざるが如し。これをもつてまさに知るべし。しかれば則ち仏の名号の功徳は、余の一切の功徳に勝れたり。故に劣を捨て勝を取つて、もつて本願としたまふか。[p104-105]
次に難易の義は、念仏は修し易し、諸行は修し難し。この故に往生礼讃に云く、「問うて曰く、何が故ぞ、観をなさしめずして、ただちに専ら名字を称せしむるは何の意あるや。答へて曰く、乃ち衆生障り重く、境は細く、心は麁し、識\り、神飛んで、観成就し難きによるなり。ここをもつて、大聖悲憐して、ただちに専ら名字を称せよと勧めたまふ。正しく称名の易きによるが故に、相続して即ち生ず」と。<已上>[p105]
また往生要集に、「問うて曰く、一切の善業、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故ぞ、ただ念仏一門を勧むるや。答へて曰く、今念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せむとにはあらず。ただこれ男女貴賎、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、ないし臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏に如かざればなり」と。<已上>[p105-106] 故に知んぬ。念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。もし智慧高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもつて本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに准じてまさに知るべし。[p106]
まさに知るべし。上の諸行等をもつて本願とせば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からむ。しかれば則ち、弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せむがために、造像起塔等の諸行をもつて、往生の本願としたまはず。ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり。[p106]
故に法照禅師の五会法事讃に云く、「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きて我を念ぜば惣て迎へに来たらむ。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず、ただ心を廻して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめむ」と。<已上>[p106-107]
問うて曰く、一切の菩薩は、その願を立つといへども、或いは已成就あり、また未成就あり。いぶかし、法蔵菩薩の四十八願は、已に成就すとやせむ、はたいまだ成就せずとやせむ。答へて云く、法蔵の誓願、一々に成就す。いかんとならば極楽界の中にすでに三悪趣なし。まさに知るべし。これ即ち無三悪趣の願を成就するなり。何をもつてか知ることを得。即ち願成就の文に、「また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし」と云ふ、これなり。またかの国の人天、寿終つて後に、三悪趣に更ることなし。まさに知るべし。これ即ち不更悪趣の願を成就するなり。何をもつてか知ることを得。即ち願成就の文に、「またかの菩薩、ないし成仏までに悪趣に更らず」と云ふ、これなり。[p107]
また極楽の人天、既にもつて一人として三十二相を具せずといふことあることなし。まさに知るべし。これ即ち具三十二相の願を成就するなり。何をもつてか知ることを得。即ち願成就の文に、「かの国に生まるる者は、皆ことごとく三十二相を具足す」と云ふ、これなり。かくの如く初め無三悪趣の願より、終り得三法忍の願に至るまで、一々の誓願、皆もつて成就す。第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらむや。しかれば則ち念仏の人、皆もつて往生す。何をもつてか知ることを得。即ち念仏往生の願成就の文に、「もろもろの衆生あつて、その名号を聞きて信心歓喜して、ないし一念心を至して廻向して、かの国に生ぜむと願ずれば、即ち往生を得て不退転に住す」と云ふ、これなり。[p107]
およそ四十八願荘厳の浄土は、花池・宝閣、願力にあらずといふことなし。何ぞその中において、独り念仏往生の願を疑惑すべきや。しかのみならず、一々の願の終りに、「もししからずは正覚を取らじ」と云ふ。しかも阿弥陀仏、仏になりたまひてより已来、今において十劫。成仏の誓既にもつて成就せり。まさに知るべし、一々の願虚設すべからず。故に善導の云く、「かの仏、今現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得」と。<已上>[p107-108]
問うて曰く、経には十念と云ふ、釈には十声と云ふ。念声の義いかん。答へて曰く、念声はこれ一なり。何をもつてか知ることを得。観経の下品下生に云く、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称せば、仏の名を称するが故に、念々の中において八十億劫の生死の罪を除く」と。今この文によるに、声はこれ念なり、念は則ちこれ声なり。その意明らけし。しかのみならず、大集日蔵経に云く、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」と。感師の釈に云く、「大念といふは、大声に仏を念じ、小念とは小声に仏を念ずるなり。故に知んぬ。念は即ちこれ唱なり」と。[p108]
問うて曰く、経には乃至と云ひ、釈には下至と云ふ。その意いかん。答へて曰く、乃至と下至と、その意これ一なり。経に乃至と云ふは、多より少に向ふ言なり。多といふは上一形を尽すなり。少といふは下十声・一声等に至るなり。釈に下至と云ふは、下とは上に対する言なり。下とは下十声・一声等に至るなり。上とは上一形を尽すなり。上下相対の文、その例多しといへども、宿命通の願に云く、「たとひ我、仏を得たらむに、国の中の人天、宿命を識らずして、下、百千億那由他諸劫の事を知らざるに至るといはば、正覚を取らじ」と。かくの如く五神通および光明・寿命等の願の中に、一々に下至の言を置く。これ則ち多より少に至り、下をもつて上に対するの義なり。上の八種の願に例するに、今この願の乃至は、即ちこれ下至なり。この故に今善導の引釈するところの下至の言、その意相違せず。[p108-109]
但し善導と諸師と、その意不同なり。諸師の釈には別して十念往生の願と云ふ。善導独り、惣じて念仏往生の願と云ふ。諸師の別して十念往生の願と云ふは、その意即ち周からず。しかる所以は、上一形を捨て、下一念を捨つるの故なり。善導の惣じて念仏往生の願と言ふは、その意即ち周し。しかる所以は、上一形を取り、下一念を取るの故なり。[p109]
「仏、阿難に告げたまはく、十方世界の諸天人民、それ心を至し、かの国に生ぜむと願ふことあるに、およそ三輩あり。その上輩は、家を捨て欲を棄て、しかも沙門となつて、菩提心を発して、一向に専ら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜむと願ふ。これらの衆生は、寿終る時に臨んで、無量寿仏もろもろの大衆とともに、その人の前に現じて、即ちかの仏に随つてその国に往生して、便ち七宝の花の中において、自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。この故に阿難、それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見たてまつらむと欲はば、まさに無上菩提の心を発し、功徳を修行し、かの国に生ぜむと願ずべし。[p109-110]
仏、阿難に語げたまはく、その中輩は、十方世界の諸天人民、それ心を至し、かの国に生ぜむと願ふことあるに、行じて沙門となることあたはずといへども、大きに功徳を修し、まさに無上菩提の心を発して、一向に専ら無量寿仏を念じ、多少に善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繪を懸け、灯を燃し、華を散じ、香を焼き、これをもつて廻向してかの国に生ぜむと願ずべし。その人終りに臨んで、無量寿仏その身を化現したまふ。光明相好、つぶさに真仏の如し。もろもろの大衆とともにその人の前に現ず。即ち化仏に随つてその国に往生して、不退転に住す。功徳智慧、次いで上輩の者の如し。[p110]
仏、阿難に告げたまはく、その下輩は、十方世界の諸天人民、それ心を至し、かの国に生ぜむと欲することあるに、たとひもろもろの功徳をなすことあたはずとも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意を専らにして、ないし十念、無量寿仏を念じて、その国に生ぜむと願ずべし。もし深法を聞き歓喜信楽して、疑惑を生ぜず、ないし一念、かの仏を念じ、至誠心をもつて、その国に生ぜむと願ぜば、この人終りに臨み、夢にかの仏を見て、また往生することを得。功徳智慧、次で中輩の者の如し」。[p110]
私に問うて曰く、上輩の文の中に、念仏の外にまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文の中に、また起立塔像等の余行あり。下輩の文の中にまた菩提心等の余行あり。何が故ぞ、ただ念仏往生と云ふや。答へて曰く、善導和尚の観念法門に云く、「またこの経の下巻の初めに云く、仏、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上中下あり。その根性に随つて、仏、皆専ら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人、命終らむと欲する時、仏、聖衆とともに自ら来たつて迎接したまうて、ことごとく往生を得しめたまふ」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生と云ふなり。[p110-111]
問うて曰く、この釈いまだ前の難を遮せず。何ぞ余行を棄てて、ただ念仏と云ふや。答へて曰く、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめむがために、しかも諸行を説く。二には念仏を助成せむがために、しかも諸行を説く。三には念仏と諸行の二門に約して、おのおの三品を立てむがために、しかも諸行を説く。[p111]
一に、「諸行を廃して念仏に帰せしむがために、しかも諸行を説く」といふは、善導の観経疏の中に、上より来、定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むれば、意、衆生をして、一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩の中に菩提心等の余行を説くといへども、上の本願に望むれば、意ただ衆生をして、専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり。しかるに本願の中には、さらに余行なし。三輩ともに上の本願によるが故に、一向専念無量寿仏と云ふなり。一向は、二向三向等に対する言なり。例するに、かの五竺に三寺あるが如し。一は一向大乗寺、この寺の中には小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺の中には大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺の中には大小兼ね学す、故に兼行寺と云ふ。まさに知るべし。大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。今この経の中の一向もまた然なり。もし念仏の外にまた余行を加へば、即ち一向にあらず。もし寺に准ぜば、兼行と云ふべし。既に一向と云ふ、余を兼ねざること明らけし。既に先に余行を説くといへども、後に一向専念と云ふ。明らかに知んぬ。諸行を廃して、ただ念仏を用ゐるが故に一向と云ふ。もししからずは一向の言、最ももつて消しがたきか。[p111-112]
二に、「念仏を助成せむがためにこの諸行を説く」とは、これにまた二の意あり。一には同類の善根をもつて念仏を助成す。二には異類の善根をもつて念仏を助成す。初めに同類の助成は、善導和尚の観経疏の中に、五種の助行を挙げて念仏一行を助成す、これなり。つぶさに上の正雑二行の中に説くがごとし。次に異類の助成は、先づ上輩について正助を論ぜば、「一向に専ら無量寿仏を念ず」とは、これ正行なり。またこれ所助なり。「家を捨て欲を棄て、しかも沙門となつて、菩提心を発す」等は、これ助行なり、またこれ能助なり。謂はく往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せむがために、「家を捨て欲を棄て、しかも沙門となつて、菩提心を発す」等なり。中について出家発心等はしばらく初出および初発を指せり。念仏はこれ長時不退の行、むしろ念仏を妨礙すべけんや。中輩の中に、また起立塔像・懸繪・燃灯・散花・焼香等の諸行あり。これ則ち念仏の助成なり。その旨、往生要集に見えたり。謂はく、助念の方法の中の、方処供具等これなり。下輩の中に、また発心あり、また念仏あり。助正の義、前に准じて知るべし。[p112]
三に、「念仏と諸行に約して、おのおの三品を立てむがために、しかも諸行を説く」といふは、先づ「念仏に約して三品を立つ」は、謂はくこの三輩の中に、通じて皆「一向専念無量寿仏」と云ふ。これ則ち念仏門に約して、その三品を立つるなり。故に往生要集の念仏証拠門に云く、「双巻経の三輩の業に浅深ありといへども、しかも通じて皆、一向専念無量寿仏と云ふ」と。<感師これに同じ> 次に「諸行門に約して三品を立つ」とは、謂はくこの三輩の中に、通じて皆菩提心等の諸行あり。これ則ち諸行に約して、その三品を立つるなり。故に往生要集の諸行往生門に云く、「双巻経の三輩もまたこれを出でず」と。<已上>[p112-113]
およそかくのごときの三義、不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義は、即ちこれ廃立のために説く。謂はく諸行は廃せむがために説き、念仏は立せむがために説く。次の義は、即ちこれ助正のために説く。謂はく念仏の正業を助けむがために、諸行の助業を説く。後の義は即ちこれ傍正のために説く。謂はく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正とし、諸行をもつて傍とす。故に三輩通じて皆、念仏と云ふなり。但しこれらの三義は、殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。今もし善導によらば、初めをもつて正とするのみ。[p113]
問うて曰く、三輩の業、皆念仏と云ふ。その義しかるべし。但し観経の九品と、寿経の三輩と、もとこれ開合の異なり。もししからば、何ぞ寿経の三輩の中には皆念仏と云ひ、観経の九品に至つて上・中二品には念仏を説かず、下品に至つて始めて念仏を説くや。答へて曰く、これに二の義あり。一には問端に云ふが如く、「双巻の三輩と観経の九品とは開合の異」とは、これをもつてまさに知るべし。九品の中に、皆念仏あるべし。[p113]いかんが知ることを得。三輩の中に皆念仏あり。九品の中、なんぞ念仏なからむや。故に往生要集に云く、「問ふ、念仏の行は、九品の中において、これいづれの品の摂ぞや。答ふ、もし説の如く行ぜば、理、上々に当れり。かくの如くその勝劣に随つて、まさに九品を分つべし。しかるに経に説くところの九品の行業は、これ一端を示す。理実に無量なり」と。<已上> 故に知んぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二に観経の意、初め広く定散の行を説いて、普く衆機に逗す、後には定散二善を廃して、念仏一行に帰せしむ。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義、下につぶさに述ぶるが如し。故に知んぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。[p114]
無量寿経の下に云く、「仏、弥勒に語げたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得ることあつて、歓喜踊躍し、ないし一念せむ。まさに知るべし、この人は大利を得たりとす。則ちこれ無上の功徳を具足す」と。[p114]
善導の礼讃に云く、「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることあつて、歓喜して一念を至すも、皆彼に生ずることを得べし」と。[p114]
私に問うて曰く、上の三輩の文に准ずるに、念仏の外、菩提心等の功徳を挙ぐ。何ぞ彼等の功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。答へて曰く、聖意測り難し。定めて深き意あらむか。しばらく善導の一意によつて、しかもこれを謂はば、原、それ仏意は正しく直ちに、ただし念仏の行を説かむと欲すといへども、機に随つて、一往、菩提心等の諸行を説いて、三輩の浅深不同を分別す。しかるを今諸行においては、既に捨てて歎めたまはず、置いて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行について、既に選んで讃歎す。思うて分別すべきものなり。[p114-115]
もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随つてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。浅深は、上に引くところの如し。「もし説の如く行ぜば、理、上々に当れり」、これなり。次に多少は、下輩の文の中に、既に十念ないし一念の数あり。上中の両輩はこれに准じて随つて増すべし。観念法門に云く、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて、浄土の荘厳を礼讃すべし。はなはだ精進すべし。或いは三万・六万・十万を得る者は、皆これ上品上生の人なり」と。まさに知るべし。三万已上はこれ上品上生の業、三万已去は上品已下の業なり。既に念数の多少に随つて品位を分別すること、これ明らけし。[p115]
今この一念と言ふは、これ上の念仏の願成就の中に言ふところの一念と、下輩の中に明かすところの一念とを指すなり。願成就の文の中に、一念と云ふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文の中に、一念と云ふといへども、また功徳の大利を説かず。この一念に至つて、説いて大利とし、歎めて無上とす。まさに知るべし。これ上の一念を指すなり。この大利とは、これ小利に対するの言なり。しかれば則ち菩提心等の諸行をもつて小利となし、ないし一念をもつて大利とするなり。また無上功徳とは[p115]これ有上に対するの言なり。余行をもつて有上とし、念仏をもつて無上とするなり。既に一念をもつて一の無上とす。まさに知るべし。十念をもつて十無上とし、また百念をもつて百無上とし、また千念をもつて千無上とす。かくの如く展転して、少より多に至る。念仏恒沙の無上の功徳もまた恒沙なるべし。かくの如くまさに知るべし。しかればもろもろの往生を願求せむ人、何ぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せむや。[p115-116]
無量寿経の下巻に云く、「当来の世に経道滅尽せむに、我、慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて、止住すること百歳ならしめむ。それ衆生あつて、この経に値はむ者、意の所願に随つて、皆得度すべし」と。[p116]
私に問うて曰く、経にただ「特留此経止住百歳」と云うて、全くいまだ「特留念仏止住百歳」と云はず、しかるに今何ぞ「特留念仏」と云ふや。答へて曰く、この経の詮ずるところは全く念仏にあり。その旨前に見えたり。再び出だすにあたはず。善導・懐感・恵心等の意も、またまたかくの如し。しかれば則ちこの経の止住は、即ち念仏の止住なり。しかる所以は、この経に菩提心の言ありといへども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言ありといへども、いまだ持戒の行相を説かず。しかるに菩提心の行相を説くことは、広く菩提心経等にあり。かの経先に滅しなば、菩提心の行、何によつてかこれを修せむ。また持戒の行相を説くことは、広く大小の戒律にあり。かの戒律先に滅しなば、持戒の行、何によつてかこれを修せむ。自余の諸行、これに准じてまさに知るべし。[p116-117]
故に善導和尚の往生礼讃に、この文を釈して云く、「万年に三宝滅しなば、この経住すること百年ならむ。その時に聞きて一念せむ。皆まさに彼に生ずることを得べし」と。またこの文を釈するに、略して四の意あり。一には聖道・浄土二教の住滅の前後、二には十方・西方二教の住滅の前後、三には兜率・西方二教の住滅の前後、四には念仏・諸行二行の住滅の前後なり。[p117]
一に聖道・浄土二教の住滅の前後といふは、謂はく聖道門の諸経は先に滅す、故に経道滅尽と云ふ。浄土門のこの経は特り留まる、故に止住百歳と云ふなり。まさに知るべし、聖道は機縁浅薄にして、浄土は機縁深厚なりといふことを。[p117]
二に十方・西方二教の住滅の前後とは、謂はく十方浄土の往生は諸教先に滅す、故に経道滅尽と云ふ。西方浄土の往生はこの経特り留まる、故に止住百歳と云ふなり。まさに知るべし、十方浄土は機縁浅薄にして、西方浄土は機縁深厚なり。[p117]
三に兜率・西方二教の住滅の前後とは、謂はく上生・心地等の上生・兜率の諸教は先に滅す、故に経道滅尽と云ふ。往生西方のこの経特り留まる、故に止住百歳と云ふなり。まさに知るべし、兜率は近しといへども縁浅く、極楽は遠しといへども縁深し。[p117]
四に念仏・諸行二行の住滅の前後は、諸行往生の諸教は先に滅す、故に経道滅尽と云ふ。念仏往生のこの経特り留まる、故に止住百歳と云ふなり。まさに知るべし、諸行往生は機縁最も浅し、念仏往生は機縁甚だ深し。しかのみならず、諸行往生は縁少なく、念仏往生は縁多し。また諸行往生は、近く末法万年の時を局る。念仏往生は遠く法滅百歳の代に霑ふ。[p117-118]
問うて曰く、既に、「我、慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて、止住すること百歳ならしむ」と云ふは、もししからば釈尊慈悲をもつて、しかも経教を留めたまはむに、いづれの経、いづれの教か、しかも留まらざらむや。しかるを何ぞ余経を留めずして、ただこの経を留めたまふや。答へて曰く、たとひいづれの経を留むといへども、別して一経を指さば、またこの難を避けず。ただし特りこの経を留むる、その深き意あるか。もし善導和尚の意に依らば、この経の中に已に、弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。釈迦慈悲をもつて念仏を留めむがために、殊にこの経を留めたまふ。余経の中には、いまだ弥陀如来の念仏往生の本願を説かず。故に釈尊慈悲、もつてこれを留めたまはず。およそ四十八願、皆本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規とす。故に善導の釈に云く、「弘誓、門多くして四十八なれども、偏に念仏を標はして、最も親しとす。人よく仏を念ずれば、仏還つて念じたまふ。専心に仏を想へば、仏、人を知りたまふ」と。<已上> 故に知んぬ、四十八願の中に、既に念仏往生の願をもつて、本願の中の王とすといふことを。ここをもつて釈迦の慈悲、特にこの経をもつて、止住百歳なり。例するに、かの観無量寿経の中に、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属したまふが如し。これ即ちかの仏願に順ずるが故に、念仏一行を付属するなり。[p118-119]
問うて曰く、百歳の間、念仏を留むべきこと、その理しかるべし。この念仏の行は、ただかの時機に被らしむとやせむ。はた正・像・末の機に通ずとやせむ。答へて曰く、広く正・像・末法に通ずべし。後を挙げて今を勧む。その義まさに知るべし。[p119]
観無量寿経に云く、「無量寿仏に八万四千の相あり。一々の相に八万四千の随形好あり。一々の好に八万四千の光明あり。一々の光明、遍く十方世界の念仏衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」と。[p119]
同経の疏に云く、「無量寿仏より下、摂取不捨に至るまでより已来は、正しく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明かす。即ちその五あり。一には相の多少を明かし、二には好の多少を明かし、三には光の多少を明かし、四に光の照らす遠近を明かし、五に光の及ぶところの処、偏に摂益を蒙ることを明かす」と。[p119]
問うて曰く、つぶさに衆行を修して、ただよく廻向すれば、皆往生を得。何をもつてか、仏の光普く照らすにただ念仏者を摂する、何の意かあるや。答へて曰く、これに三義あり。一に親縁を明かす。衆生、行を起して口に常に仏を称すれば、仏即ちこれを聞きたまふ。身に常に仏を礼敬すれば、仏即ちこれを見たまふ。心に常に仏を念ずれば、仏即ちこれを知りたまふ。衆生、仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。彼此の三業相ひ捨離せず。故に親縁と名づくるなり。二に近縁を明かす。衆生、仏を見むと願ずれが、仏即ち念に応じて、現に目の前に在します。故に近縁を名づくるなり。三に増上縁を明かす。衆生称念すれば、即ち多劫の罪を除いて、命終らむと欲する時、仏、聖衆とともに自ら来たりて迎接したまふ。もろもろの邪業繋、よく礙ふるものなし。故に増上縁と名づくるなり。自余の衆行は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校にあらず。この故に、諸経の中に、処々に広く念仏の功能を讃む。無量寿経の四十八願の中の如きは、ただ専ら弥陀の名号を念じて、生ずることを得と明かす。また弥陀経の中の如きは、一日七日、専ら弥陀の名号を念じて生ずることを得。また十方恒沙の諸仏、虚しからずと証誠したまふなり。またこの経の定散の文の中には、ただ専ら名号を念じて生ずることを得と標はせり。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕はし畢んぬ。[p120]
観念法門に云く、「また前の如く、身相等の光、一々遍く十方世界を照らすに、ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生のみあつて、かの仏の心光、常にこの人を照らして、摂護して捨てたまはず。惣て余の雑業の行者を照摂することをば論ぜず」と。[p120]
私に問うて曰く、仏の光明、ただ念仏の者を照らして、余行の者を照らさざるは何の意かあるや。答へて曰く、解するに二の義あり。一には親縁等の三の義、文の如し。二には本願の義、謂はく余行は本願にあらざるが故に、これを照摂せず。念仏はこれ本願の故に、これを照摂す。故に善導和尚の六時礼讃に云く、「弥陀の身色は金山の如し。相好の光明十方を照らす。ただ仏を念ずるのみあつて、光摂を蒙る。まさに知るべし、本願最も強しとす」と。<已上> また引くところの文の中に、「自余衆善、雖名是善、若比念仏者、全非比校也《自余の衆善は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校にあらず》」と言ふは、意の云く、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏は、これ既に二百一十億の中に、選取するところの妙行なり。諸行は、これ既に二百一十億の中に、選捨するところの麁行なり。故に「全非比校」と云ふなり。また念仏はこれ本願の行なり、諸行はこれ本願にあらず。故に「全非比校」と云ふなり。[p120-121]
観無量寿経に云く、「もし衆生あつて、かの国に生ぜむと願ふ者は、三種の心を発して、即便ち往生しなむ。何等をか三とす。一は至誠心、二は深心、三は廻向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず」と。[p121]
同経の疏に云く、「経に、一には至誠心と云ふは、至は真なり。誠は実なり。一切衆生の身・口・意業に修するところの解行、必ずすべからく真実心の中になすべきことを明かさむと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪・瞋・邪・偽・奸・詐、百端にして、悪性侵し難く、事蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づけ、真実の業と名づけざるなり。もしかくの如く安心起行をなせば、たとひ身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急になして、頭燃をはらふが如くすとも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を廻らして、かの仏の浄土に生ぜむことを求めむと欲せば、これ必ず不可なり。何をもつての故ぞ。正しくかの阿弥陀仏の因中に、菩薩の行を行じたまひし時に、ないし一念一刹那も、三業に修するところ、皆これ真実心の中になしたまひしによるなり。およそ施為趣求するところ、皆真実なるべし。また真実に二種あり。一は自利の真実、二は利他の真実。自利の真実と言ふは、また二種あり。一は真実心の中に、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に、一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくの如くならむと想ふなり。二は真実心の中に、自他の凡聖等の善を勤修して、真実心の中に、口業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を讃歎し、また真実心の中に、口業をもつて三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。善業にあらざるをば、敬しんでこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心の中に、身業をもつて合掌礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心の中に、身業をもつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨し、また真実心の中に、意業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目前に現ずるが如くにし、また真実心の中に、意業をもつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽賎し厭捨し、不善の三業をば必ずすべからく、真実心の中に捨つべし。またもし善の三業を起せば、必ずすべからく真実心の中になすべし。内外明闇を簡ばず、皆すべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。[p121-122]
二は深心。深心と言ふは即ちこれ深信の心なり。また二種あり。一は決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二は決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑ひなく慮りなく、かの願力に乗つて、定んで往生を得と信ず。また決定して深く、釈迦仏の、この観経の三福・九品・定散二善を説いて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふを信ず。また決定して深く、弥陀経の中に、十方恒沙の諸仏は、一切の凡夫を証勧したまふ、決定して生ずることを得と信ず。また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて、身命を顧みず、決定して依り行じて、仏の捨てしめたまふをば即ち捨て、仏の行ぜしめたまふをば即ち行じ、仏の去らしめたまふ処をば即ち去る。これを仏教に随順し仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づけ、これを真の仏弟子と名づく。[p122-123]
また一切の行者、ただよくこの経によつて深く信じて行ずる者は、必ず衆生を^たざるなり。何をもつての故に。仏はこれ満足大悲の人なるが故に。実語の故に。仏を除いてより已還は、智行いまだ満たずして、その学地にありて、なほし正習二障あつて、いまだ除かず。果願いまだ円かならざるに、これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、要ずすべからく仏の証を請して定とすべきなり。もし仏の意に称へば、即ち印可して、「如是如是」と言ふ。もし仏の意にかなはざれば、即ち、「汝等所説是義不如是」と言ふ。印したまはざれば、即ち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふものは、即ち仏の正教に随順するなり。もし仏の所有の言説は、即ちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、もろもろの菩薩・人天等を問はず、その是非を定む。もし仏の所説は、即ちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づく。まさに知るべし。この故に今の時、仰いで一切の有縁の往生人等に勧む。ただ深く仏語を信じて、専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑を抱いて自ら迷ひて、往生の大益を廃失すべからざるなり。[p123-124]
また深心とは、深信とは、決定して自心を建立して、教に順つて修行して、永く疑錯を除いて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざるなり。[p124]
問うて曰く、凡夫は智浅く、惑障処深し。もし解行不同の人に、多く経論を引いて来たつて相ひ妨難し、証して一切の罪障の凡夫、往生することを得ずと云ふに逢はむに、いかんがかの難を対治して、信心を成就して、決定して直に進んで、怯退を生ぜざらむや。答へて曰く、もし人ありて、多く経論の証を引いて、生ぜずと云はば、行者即ち報へて云へ、仁者経論を将て来たり、証して生ぜずとcふといへども、我が意の如きは、決定して汝が破を受けず。何をもつての故に。しかも我また、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰信す。しかるに仏、かの経を説きたまふ時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。またかの経を説きたまふ時は、即ち観経・弥陀経等を説きたまふ時にあらず。しかるに仏の説教は、機に備ふ。時また不同なり。彼は即ち通じて人天・菩薩の解行を説き、今は観経の定散二善を説いて、ただ韋提および仏の滅後の五濁・五苦等の一切の凡夫のために、証して生ずることを得と言へり。この因縁のために、我、今一心にこの仏教によつて決定して奉行す。たとひ汝等百千万億あつて生ぜずとcふとも、ただ我が往生の信心を増長し成就せむ。[p124-125]
また行者さらに向つて説いて言へ。仁者よく聴け。我今、汝がために、さらに決定の信相を説かむ。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支仏等、もしは一、もしは多、ないし十方に遍満して、皆経論の証を引いて生ぜずと言はば、我またいまだ一念の疑心を起さじ。ただ我が清浄の信心を増長し成就せむ。何をもつての故に。仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるが故に。[p125]
また行者よく聴け。たとひ初地已上、十地已来、もしは一、もしは多、ないし十方に遍満して、異口同音に、皆、「釈迦仏は弥陀を指讃し、三界六道を毀呰して、衆生を勧励し、専心に念仏し、および余善を修して、この一身を畢へて後に、必定してかの国に生ずといふは、これは必ず虚妄なり。依信すべからず」と云はむに、我これらの所説を聞くといへども、また一念の疑心を生ぜずして、ただ我が決定して上々の信心を増長し成就せしむ。何をもつての故に、乃ち仏語は、真実の決了の義なるによるが故に。仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、これ疑惑の心中の語にあらざるが故に。また一切の菩薩の異見・異解のために破壊せられず、もし実にこれ菩薩ならば、衆く仏教に違はじ。[p125]
またこの事を置け。行者まさに知るべし。たとひ化仏・報仏、もしは一、もしは多、ないし十方遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐いて、遍く十方に覆うて、一々に説いて言はく、「釈迦の所説、相ひ讃め、一切凡夫を勧発して専心に念仏し、および余善を修して、廻願してかの浄土に生ずることを得といふは、これはこれ虚妄なり。定んでこの事なし」と。我これらの諸仏の所説を聞くといへども畢竟して、一念の疑退の心を起して、かの仏国に生ずることを得ずと畏れじ。何をもつての故に。一仏は一切仏なり。所有の知見・解行・証悟・果位・大悲、等同にして少しきの差別なし。この故に一仏の制したまふところは、即ち一切の仏同じく制したまふ。前仏の殺生・十悪等の罪を制断したまふが如似く畢竟して犯ぜず、行ぜざるは、即ち十善・十行と名づけ、六度の義に随順す。もし後仏あつて世に出でむに、あに前の十善を改めて、十悪を行ぜしむべけむや。この道理をもつて推験するに、明らかに知んぬ。諸仏の言行は、相ひ違失せず。たとひ釈迦一切の凡夫を指し勧めて、この一身を尽して、専念専修して、命を捨てて已後に、定んでかの国に生ずといふは、即ち十方の諸仏も、ことごとく皆同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。何をもつての故に。同体の大悲の故に。一仏の所化は、即ちこれ一切の仏の化なり。一切の仏の化は、即ちこれ一仏の所化なり。即ち弥陀経の中に説かく、「釈迦、極楽の種々荘厳を讃歎し、また一切凡夫を勧めたまふ。一日七日、一心に専ら弥陀の名号を念じて、定んで往生を得」と。次下の文に云く、「十方におのおの恒河沙等の諸仏あつて、同じく釈迦を讃めて、よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して称念すれば、必ず往生を得」と、即ちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらむことを恐畏して、即ちともに同心同時に、おのおの舌相を出して、遍く三千世界に覆うて、誠実の言を説きたまふ。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず。ただよく上百年を尽して、下一日七日に至るまで、一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得ること、必ず疑ひなきなり。この故に一仏の所説は、即ち一切の仏、同じくその事を証誠したまふなり。これを、人について信を立つと名づくるなり。[p125-127]
次に行について信を立つは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行云々。<前の二行の中に引くところの如し。繁きを恐れて載せず。見む人、意を得よ>[p127]
三には廻向発願心。廻向発願心と言ふは、過去および今生の身・口・意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身・口・意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他の所修の善根をもつて、ことごとく皆真実の深信の心の中に廻向して、かの国に生ぜむと発願す。故に廻向発願心と名づくるなり。また廻向発願して、生ぜむと願ずる者は、必ずすべからく決定して真実心の中に廻向して、得生の想ひを願作すべし。この心深く信ずること、なほし金剛の若く、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉つて、正直に進んで、かの人語を聞いて、即ち進退あつて、心に怯弱を生じて、廻顧して道に落ちて、即ち往生の大益を失ふことを得ざれ。[p127]
問うて曰く、もし解行不同の邪雑の人等あつて、来たつて相ひ惑乱して、種々の疑難を説いて往生を得ずとcひ、或いは云はむ、「汝等衆生、曠劫より已来、および今生の身・口・意業に、一切の凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかもこれらの罪は、三界の悪道に繋属す。いかんぞ、一生の修福念仏をもつて、即ちかの無漏無生の国に入つて、永く不退の位を証悟することを得むや」と。答へて曰く、諸仏の教行、数塵沙に越えたり。稟識の機縁、情に随つて一にあらず。譬へば世間の人の、眼に見つべく信ずべきが如きは、明よく闇を破し、空はよく有を含ず、地はよく載養す、水はよく生潤す、火はよく成壊するが如し。かくの如き等の事、ことごとく待対の法と名づく。即ち目に見るべし。千差万別なり。[p127-128]
いかにいはんや仏法の不思議の力、あに種々の益なからむや。随つて一の門より出づれば、即ち一の煩悩門より出づるなり。随つて一の門に入れば、即ち一の解脱智慧の門より入るなり。これがために縁に随つて行を起して、おのおの解脱を求む。汝、何をもつてか、乃ち有縁にあらざる要行をもつて、我を障惑するや。しかも我が愛するところは、即ちこれ我が有縁の行なり。即ち汝が所求にあらず。汝が愛するところは、即ちこれ汝が有縁の行なり。また我が所求にあらず。この故に、所楽に随つてその行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし。もし解を学せむと欲はば、凡より聖に至り、ないし仏果まで、一切無礙に皆学することを得よ。もし行を学せむと欲はば、必ず有縁の法に藉れ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得るなり。[p128]
また一切の往生人等に白す。今、さらに行者のために一の譬喩を説いて信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がむ。何の者か是や。譬へば、人あつて西に向つて百千の里を行かむと欲するに、忽然として中路に二の河あり。一はこれ火の河、南にあり。二はこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩おのおの深さ底もなく、南北辺りなし。正しく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るまで、また長さ百歩。その水の波浪交過して道を湿す、その火の焔、また来たつて道を焼く。水火相ひ交つて、常に休息することなし。この人すでに空曠のVかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣のみあり。この人の単独なるを見て、競ひ来たつて、殺さむと欲す。この人死を怖れて、直に走つて西に向へば、忽然としてこの大河を見る。即ち自ら念言すらく、この河、南北に辺畔を見ず。中間に一つの白道を見るも、極めてこれ狭少なり。二つの岸、相ひ去ること近しといへども、何によつてか行くべき。今日定めて死すこと疑はず。正しく到り廻らむと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来たり逼む。正しく南北に避け走らむと欲すれば、悪獣・毒虫、競ひ来たつて我に向ふ。正しく西に向つて道を尋ねて去らむと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕ちてむことを、時に当つて惶怖すること、また言ふべからず。即ち自ら思念すらく、我、今廻るともまた死なむ。往すともまた死なむ。去るともまた死なむ。一種として死を免れざれば、我むしろこの道を尋ねて、前に向つて去らむ。既にこの道あり。必ずまさに度るべし。この念をなす時に、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定して、この道を尋ねて行け。必ず死の難なけむ。もし住せば即ち死なむ」と。また西岸の上に人あつて喚ばつて言く、「汝、一心に正念に直に来たれ。我よく汝を護らむ。衆て水火の難に堕つることを畏れざれ」と。この人すでにここに遣り彼に喚ばふを聞いて、即ち自ら正しく身心に当つて、決定して道を尋ねて、直に進んで疑怯退心を生ぜず。或いは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばつて言く、「仁者廻り来たれ。この道嶮悪にして過ぐることを得じ。必ず死せむこと疑はず。我等衆て悪心をもつて、相ひ向ふことなし」と。この人喚ぶ声を聞くといへども、また廻顧せず。一心に直に進んで道を念じて行くに、須臾にして即ち西岸に到つて、永くもろもろの難を離れて、善友と相ひ見えて慶楽已むことなきが如し。これはこれ喩なり。[p128-130]
次に喩を合はせば、東岸と言ふは、即ちこの娑婆の火宅に喩ふるなり。西岸と言ふは、即ち極楽の宝国に喩ふるなり。群賊・悪獣詐り親しむと言ふは、即ち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふるなり。人なき空Vの沢と言ふは、即ち常に悪友に随つて、真の善知識に値はざるに喩ふるなり。水火の二河と言ふは、即ち衆生の貪愛は水の如く、瞋憎は火の如きに喩ふるなり。中間の白道四五寸なると言ふは、即ち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄の願往生の心を生ずるに喩ふるなり。乃ち貪瞋強きによるが故に、即ち水火の如しと喩ふ。善心は微なるが故に、白道の如しと喩ふ。また水波常に道を湿すといふは、即ち愛心常に起つてよく善心を染汚するに喩ふるなり。また火焔常に道を焼くとは、即ち瞋嫌の心、よく功徳の法財を焼くに喩ふるなり。人の、道の上を行つて、直に西に向ふと言ふは、即ちもろもろの行業を廻して直に、西方に向ふに喩ふるなり。東の岸に人声の勧め遣るを聞いて、道を尋ねて直に西に進と言ふは、即ち釈迦は已に滅して、後の人見たてまつらざれども、なほ教法あつて尋ぬべきに喩ふ。即ちこれを声の如しと喩ふるなり。或いは行くこと一分二分するに、群賊等喚び廻すと言ふは、即ち別解・別行・悪見人等の、妄りに見解を説いてたがひに相ひ惑乱し、および自ら罪を造つて退失するに喩ふるなり。西岸の上に人あつて喚ぶと言ふは、即ち弥陀の願意に喩ふるなり。須臾に西岸に到つて、善友相ひ見えて喜ぶと言ふは、即ち衆生久しく生死に沈んで、曠劫に輪廻し、迷倒して自ら纏はつて、解脱するによしなきに喩ふ。仰いで釈迦の発遣して西方に指向したまふを蒙り、また弥陀の悲心をもつて招喚したまふに藉つて、今二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗つて、命を捨て已つて後に、かの国に生ずることを得て、仏と相ひ見えて、慶喜何ぞ極まらむ。また一切の行者、行住坐臥、三業に修するところ、昼夜時節を問ふことなく、常にこの解をなし、常にこの想ひをなす。故に廻向発願心と名づく。また廻向と言ふは、かの国に生じ已つて、還つて大悲を起して、生死に廻入して、衆生を教化するをまた廻向と名づくるなり。三心既に具すれば、行として成ぜずといふことなし。願行既に成じて、もし生ぜずは、この処あることなけむ。またこの三心は、また通じて定善の義に摂す。まさに知るべし」と。[p130-131]
往生礼讃に云く、「問うて曰く、今人を勧めて、往生せしめむと欲はば、いまだ知らず、いかんが安心起行して、業をなしてか、定んでかの国土に往生することを得む。答へて曰く、必ず浄国の土に往生せむと欲はば、観経の説の如きは、三心を具すれば必ず往生を得。何等をか三とす。一は至誠心、いはゆる身業をもつてかの仏を礼拝し、口業をもつてかの仏を讃歎称揚し、意業をもつてかの仏を専念観察す。およそ三業を起すに、必ずすべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。二は深心、即ちこれ真実の信心をもつて、身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今、弥陀の本弘誓願、名号を称すること、下十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、ないし一念も疑心あることなし。故に深心と名づく。三は廻向発願心、所作の一切の善根、ことごとく皆廻して往生を願ず。故に廻向発願心と名づく。この三心を具すれば、必ず生ずることを得るなり。もし一心をも少けぬれば、即ち生ずることを得ず。観経につぶさに説くが如し。まさに知るべし」と。[p131-132]
私に云く、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。経には則ち、「具三心者、必生彼国《三心を具する者は必ずかの国に生ず》」と云ふ。明らかに知んぬ。三を具すれば、必ず生ずることを得べし。釈には則ち、「若少一心、即不得生《もし一心をも少けぬれば、即ち生ずることを得ず》」と云ふ。明らかに知んぬ。一も少けぬれば、これさらに不可なり。これによつて極楽に生ぜむと欲はむ人は、全く三心を具足すべきなり。[p132]
その中に至誠心とは、これ真実の心なり。その相、かの文の如し。ただし外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くといふは、外は内に対するの辞なり。謂はく外相と内心と不調の意なり。即ちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対するの言なり。謂はく外はこれ賢、内は即ち愚なり。善とは悪に対するの辞なり。謂はく外はこれ善、内は即ちこれ悪なり。精進は懈怠に対するの言なり。謂はく外には精進の相を示し、内は即ち懈怠の心を懐くなり。もしそれ外を飜じて内に蓄へば、_に出要に備ふべし。内に虚仮を懐く等とは、内は外に対するの辞なり。謂はく内心と外相と不調の意なり。即ちこれ内は虚、外は実なり。虚は実に対するの言なり。謂はく内は虚、外は実なるものなり。仮は真に対するの辞なり。謂はく内は仮、外は真なり。もしそれ内を飜じて外に播さば、また出要に足んぬべし。[p132-133]
次に深心とは、謂はく深信の心なり。まさに知るべし。生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす。故に今、二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。またこの中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは、これ聖道門の解行学見を指すなり。その余は即ちこれ浄土門の意なり。文にあつて見るべし。明らかに知んぬ、善導の意、またこの二門を出でざるなり。[p133]
廻向発願心の義、別の釈を俟つべからず。行者まさにこれを知るべし。この三心は惣じてこれを言へば、もろもろの行法に通ず、別してこれを言はば、往生の行にあり。今、通を挙げて別を摂す。意、即ち周し。行者よく用心して、敢へて忽諸せしむることなかれ。[p133]
善導の往生礼讃に云く、「また四修の法を勧行す。何ものをか四とす。一は恭敬修。いはゆるかの仏および一切の聖衆等を恭敬礼拝す、故に恭敬修と名づく。命畢るを期して誓うて中止せざる、即ちこれ長時修なり。二は無余修。いはゆる専らかの仏の名を称して専念し専想し、専らかの仏および一切の聖衆等を礼讃して、余業を雑へず、故に無余修と名づく。畢命を期として誓うて中止せざる、即ちこれ長時修なり。三は無間修。いはゆる相続して恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、廻向発願し、心々に相続して、余業をもつて来たし間へず、故に無間修と名づく。また貪瞋煩悩をもつて来たし間へず。犯せむに随ひ、随つて懺ぜよ。念を隔て時を隔て日を隔てず、常に清浄ならしめよ。また無間修と名づく。畢命を期として誓うて中止せざる、即ちこれ長時修なり」と。[p133-134]
西方要決に云く、「ただし四修を修してもつて正業となせ。一は長時修。初発心よりないし菩提まで、恒に浄因をなして、終に退転なし。二は恭敬修。これにまた五あり。一は有縁の聖人を敬ふ。謂はく行住坐臥、西方に背かず、涕唾便痢、西方に向はざるなり。二は有縁の像教を敬ふ。謂はく西方の弥陀の像変を造る。広く作ることあたはず、ただし一仏二菩薩を作ることもまた得たり。教とは弥陀経等を五色の袋に盛れて、自ら読み他を教ふ。この経像を室の中に安置して、六時に礼懺し、花香をもつて供養し、特に尊重をなせ。三は有縁の善知識を敬ふ。謂はく浄土の教へを宣ぶる者は、もしは千由旬、十由旬より已来、並びにすべからく敬重し親近し供養すべし。別学の者には、惣じて敬心を起せ、己と同ぜざるをば、ただし深く敬うことを知れ。もし軽慢を生ぜば、罪を得ること窮りなし。故にすべからく惣て敬ふべし。即ち行障を除く。四は同縁の伴を敬ふ。謂はく同じく業を修する者なり。自ら障り重くして、独業成ぜずといへども、要ず良朋によつて、方によく行をなす。危きを扶け、厄を救ふ、助力して相ひ資けて、同伴の善縁深く相ひ保重す。五は三宝を敬ふ。同体別相、並びに深く敬ふべし。つぶさに録すことあたはず。浅き行者のために、果して依修せざればなり。住持の三宝とは、今の浅識のために大因縁となる。今ほぼ料簡せむ。仏宝と言ふは、謂はく檀に雕り、綺に繍ひ、素質に金容玉を鏤め、繪に図し、石に磨り、土に削り、この霊像特に尊承すべし。暫く形を観たてまつれば、罪消えて福を増す。もし少慢を生ぜば、悪を長じ善を亡ぼす。ただし尊容を想ふに、まさに真仏を見つべし。法宝と言ふは、三乗の教旨、法界所流なり。名句の所詮する、よく解縁を生ず。故にすべからく珍仰すべし。もつて恵を発す基なり。尊経を抄写して、恒に浄室に安んぜよ。箱篋に盛れ貯へて、並びに厳敬すべし。読誦の時は、身手清潔なれ。僧宝と言ふは、聖僧・菩薩・破戒の流、等心に敬を起せ。慢想を生ずることなかれ。三は無間修。謂はく常に念仏して、往生の心をなす。一切時において、心に恒に想巧すべし。譬へば人あつて、他に抄掠せられて、身下賎となつて、つぶさに艱辛を受けむに、たちまちに父母を思つて、国に走り帰らむことを欲す。行装いまだ弁ぜず。なほ他の郷にあつて、日夜に思惟して、苦しみ忍ぶるに堪へず。時として暫くも捨てて、爺嬢を念ぜざることなし。計をなすこと既に成じて、便ち帰つて達することを得て、父母に親近して、ほしきままに歓娯するがごとし。行者もまたしかなり。往因の煩悩、善心を壊乱し、福智の珍財並びに皆散失して、久しく生死に流れて、制するに自由ならず。恒に魔王のために、しかも僕使となつて、六道に駆馳し、身心を苦切す。今善縁に遇うて、たちまちに弥陀の慈父、弘願に違はず、群生を済抜しることを聞いて、日夜に驚忙して、心を発して往かむと願ふ。所以に精勤して倦まずして、まさに仏恩を念ずべし。報じ尽すを期として、心に恒に計り念ふべし。四は無余修。謂はく専ら極楽を求めて、弥陀を礼念するなり。ただし諸余の業行を雑起せしめざれ。所作の業、日別にすべからく念仏誦経を修すべし。余課を留めざるべきのみ」と。[p134-136]
私に云く、四修の文を見つべし。繁きを恐れて解せず。ただし前文の中に、既に四修と云うて、ただ三修あり。もしはその文を脱するか。もしはその意あるか。さらに脱文にあらず、その深き意を有つなり。何をもつてか知ることを得。四修とは、一には長時修、二は慇重修、三は無余修、四は無間修なり。しかも初めの長時をもつて、ただこれ後の三修に通用す。謂はく慇重もし退せば、慇重の行、即ち成ずべからず。無余もし退せば、無余の行、即ち成ずべからず。無間もし退せば、無間の修、即ち成ずべからず。この三修の行を成就せしめむがために、みな長時をもつて、三修に属して、通じて修せしむるところなり。故に三修の下に皆結して、「畢命為期誓不中止即是長時修《畢命を期として誓うて中止せざる、即ちこれ長時修なり》」と云ふ、これなり。例するにかの精進の、余の五度に通ずるが如くなるのみ。[p136]
観無量寿経に云く、「或いは衆生あつて、もろもろの悪業を作り、方等経典を誹謗せずといへども、かくの如きの愚人、多く衆悪を造つて、慚愧あることなし。命終らむと欲する時、善知識のために、大乗の十二部経の首題の名字を讃むるに遇はむ。かくの如きの諸経の名を聞くをもつての故に、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教へて、掌を合せ手を叉へて南無阿弥陀仏と称せしむ仏の名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。その時かの仏、即ち化仏・化観世音・化大勢至を遣はして、行者の前に至らしめ、讃めて言はく、善男子、汝仏名を称するが故に、もろもろの罪消滅すれば、我来たつて汝を迎ふ」と。[p136-137]
同経の疏に云く、「聞くところの化讃、ただし称仏の功を述べて、我来たつて汝を迎ふと、聞経の事を論ぜず。しかるに仏の願意に望むれば、ただ励んで正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。この経および諸部の中の如き、処々に広く歎じて、勧めて名を称せしむ。まさに要益とするなり。まさに知るべし」と。[p137]
私に云く、聞経の善はこれ本願にあらず、雑業の故に、化仏讃めたまはず。念仏の行はこれ本願の正業なるが故に、化仏讃歎したまふ。しかのみならず、聞経と念仏とは、滅罪の多少不同なり。観経疏に云く、「問うて曰く、何が故ぞ、経を聞くこと十二部、ただし罪を除くこと千劫、仏を称すること一声、即ち罪を除くこと五百万劫とは、何の意ぞや。答へて曰く、造罪の人障り重くして、加ふるに死苦来たり逼むるをもつてす。善人多経を説くといへども、a受の心浮散す。心散ずるによるが故に、罪を除くことやや軽し。また仏名はこれ一なれども、即ちよく散を摂してもつて心を住せしむ。また教へて正しく念じて名を称せしむ。心重きによるが故に、即ちよく罪を除くこと多劫なり」と。[p137]
観無量寿経に云く、「もし仏を念ぜむ者、まさに知るべし、この人は即ちこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐して、諸仏の家に生まる」と。[p138]
同経の疏に云く、「「若念仏者」といふより下、「生諸仏家」に至るまでより已来は、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善の比類とすることを得るにあらざることを顕はす。即ちその五あり。一は専ら弥陀仏の名を念ずることを明かし、二は能念の人を讃むることを明かし、三はもしよく相続して念仏すれば、この人甚だ希有とし、さらに物として、もつてこれに方ぶべきことなきことを明かす。故に分陀利を引いて喩へとす。分陀利と言ふは、人中の好花と名づけ、また希有花と名づけ、また人中の上々花と名づけ、また人中の妙好花と名づく。この花、相伝して蔡花と名づくる、これなり。念仏の者は、即ちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上々人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四は専ら弥陀の名を念ずれば、即ち観音・勢至常に随つて影護したまふこと、また親友知識の如くなることを明かす。五は今生既にこの益を蒙つて、命を捨てて、即ち諸仏の家に入ることを明かす。即ち浄土これなり。彼に到り長時に法を聞いて歴事し供養す。因円かに、果満ず。道場の座、あにZからむや」と。[p138]
私に問うて曰く、経に、「もし仏を念ぜむ者、まさに知るべし、この人」等と云ふは[p138]、ただ念仏者に約して、しかもこれを讃歎す。釈家何の意あつてか、「実に雑善の比類とすることを得るにあらず」と云つて、雑善に相ひ対して、独り念仏を歎むるや。答へて曰く、文の中に隠れたりといへども、義意これ明らけし。知る所以は、この経既に定散の諸善、并びに念仏の行を説いて、しかもその中において、孤り念仏を標して芬陀利に喩ふ。雑善に待するにあらずは、いかんがよく念仏の功の余善諸行に超えたることを顕はさむ。しかれば則ち、「念仏の者は即ちこれ人中の好人」とは、これ悪に待して美むるところなり。「人中の妙好人」と言ふは、これ麁悪に待して称するところなり。「人中の上々人」と言ふは、これ下々に待して讃むるところなり。「人中の希有人」と言ふは、これ常有に待して歎むるところなり。「人中の最勝人」と言ふは、これ最劣に待して褒むるところなり。[p138-139]
問うて曰く、既に念仏をもつて上々と名づけば、何が故ぞ、上々品の中に説かずして、下々品に至つて、しかも念仏を説くや。答へて曰く、あに前に云はずや。念仏の行は広く九品に亘ると。即ち前に引くところの往生要集に、「その勝劣に随つて、まさに九品を分つべし。」と云ふ、これなり。しかのみならず、下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかもよく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力おみあつて、よく重罪を滅するに堪へたり。故に極悪最下の人のために、極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道府蔵の薬にあらずは、即ち治することあたはざるが如し。今この五逆の重病の淵源は、またこの念仏の霊薬府蔵なり。この薬にあらずは、何ぞこの病を治せむ。故に弘法大師の二教論に、六波羅蜜経を引いて云く、「第三の法宝といふは、いはゆる過去無量の諸仏所説の正法と、および我が今の所説となり。いはゆる八万四千のもろもろの妙法蘊なり。ないし有縁の衆生を調伏し純熟して、しかも阿難陀等の諸大弟子をして、一たび耳に聞いて、皆ことごとく憶持せしむ。摂して五分とす。一は素咀纜・二は毘奈耶・三は阿毘達磨・四には般若波羅蜜多・五には陀羅尼門なり。この五種の蔵は有情を教化し、度すべきところに随つて、しかもためにこれを説く。もしかの有情山林に処せむと楽うて、常に閑寂に居して、静慮を修せむ者には、しかも彼のために素咀纜蔵を説く。もしかの有情、威儀を楽ひ習ひ正法を護持して、一味和合して、久住することを得しむ、しかも彼のために毘奈耶蔵を説く。もしかの有情、正法を楽うて説き、性相を分別し、循環研覈して究竟甚深なり、しかも彼のために阿毘達磨蔵をとく。もしかの有情、大乗真実の智慧を楽ひ習ひて、我法執着の分別を離る、しかも彼のために般若波羅蜜多蔵を説く。もしかの有情、契経・調伏・対法・般若を受持することあたはず。或いはまた有情あつて、もろもろの悪業を造り、四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪をして、銷滅することを得しめ、速やかに解脱し、頓く涅槃を悟る。しかも彼のためにもろもろの陀羅尼蔵を説く。この五蔵は、譬へば乳・酪・生酥・熟酥・および妙醍醐の如し。契経は乳の如く、調伏は酪の如く、対法教はかの生酥の如く、大乗般若はなほし熟酥の如く、總持門は、譬へば醍醐の如し。醍醐の味ひ、乳・酪・酥の中に微妙第一なり。よくもろもろの病を除いて、もろもろの有情をして、身心安楽ならしむ。總持門は、契経等の中に最も第一とす。能く重罪を除き、もろもろの衆生をして、生死を解脱して速やかに涅槃安楽の法身を証せしむ」と。<已上>[p141L2] この中、五無間罪はこれ五逆罪なり。即ち醍醐の妙薬にあらずは、五無間の病、甚だ療し難しとす。念仏もまた然なり。往生の教の中に、念仏三昧はこれ總持の如く、また醍醐の如し。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらずは五逆深重の病は治し難しとす。まさに知るべし。[p141]
問うて曰く、もししからば下品上生は、これ十悪軽罪の人なり。何が故ぞ念仏を説くや。答へて曰く、念仏三昧は、重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや。余行はしからず。或いは軽を滅して、重を滅せざるあり。或いは一を消して、二を消さざるあり。念仏はしからず、軽重兼ね滅す、一切遍く治す。譬へば阿伽陀薬の、遍く一切の病を治するが如し。故に念仏をもつて、王三昧とす。およそ九品の配当は、これ一往の義なり。五逆の廻心、上々に通ず。読誦の妙行、また下々に通ず。十悪の軽罪、破戒の次罪、おのおの上下に通じ、解第一義、発菩提心、また上下に通ず。一法におのおの九品あり。もし品に約せば、即ち九々八十一品なり。しかのみならず、迦才の云く、「衆生、行を起すに既に千殊あり。往生して土を見ること、また万別あり」と。一往の文を見て封執を起すことなかれ。[p141]
その中に、念仏はこれ即ち勝行なり。故に芬陀利を引いて、もつてその喩へとす。譬への意まさに知るべし。しかのみならず、念仏行者をば観音・勢至、影と形との如く、暫くも捨離せず。余行はしからず。また念仏者は、命を捨て已つて後、決定して極楽世界に往生す。余行は不定なり。およそ五種の嘉誉を流し、二尊の影護を蒙る。これはこれ現益なり。また浄土に往生して、ないし仏に成る。これはこれ当益なり。また道綽禅師は、念仏の一行において始終の両益を立つ。安楽集に云く、「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず、寿尽きて必ず生ず、これを始めの益と名づく。終りの益と言ふは、観音授記経によるに、阿弥陀仏、世に住すること長久にして、兆載永劫に、また滅度したまふことあり。般涅槃の時、ただ観音・勢至あつて、安楽に住持し、十方を接引す。その仏の滅度、また住世と時節、等同なり。しかるにかの国の衆生は、一切仏を覩見する者あることなし。ただ一向に専ら阿弥陀仏を念じて往生する者のみあり。常に弥陀は現在して、滅したまはずと見たてまつる。これ即ちこれその終益なり」と。<已上> まさに知るべし。念仏はかくの如き等の現当二世、始終の両益あり。まさに知るべし。[p142]
観無量寿経に云く、「仏、阿難に告げたまはく、汝よくこの語を持て。この語を持てとは、即ちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。同経の疏に云く、「仏告阿難汝好持是語といふより以下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上より来、定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。[p142]
私に云く、疏の文を案ずるに二行あり、一には定散、二は念仏。初めに定散と言ふは、また分ちて二とす。一は定善、二は散善。初めに定善について、その十三あり。一には日想観、二は水想観、三は地想観、四は宝樹観、五は宝池観、六は宝楼閣観、七は花座観、八は像想観、九は阿弥陀仏観、十は観音観、十一は勢至観、十二は普往生観、十三は雑想観、つぶさに経説の如し。たとひ余行なしといへども、或いは一、或いは多、その所堪に随つて十三観を修し、往生を得べし。その旨、経に見えたり。敢へて疑慮することなかれ。[p143]
次に散善について二あり。一は三福、二は九品。初めに三福とは、経に曰く、「一は孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二は受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。三は発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者」と。<已上経文> 孝養父母とは、これについて二あり。一は世間の孝養、二は出世の孝養。世間の孝養とは、孝経等の説の如し。出世の孝養とは、律の中に生縁奉事の法の如し。奉事師長とは、これについてまた二あり。一は世間の師長、二は出世の師長。世間の師とは仁・義・礼・智・信等を教ふる師なり。出世の師は、聖道・浄土の二門等を教ふる師なり。たとひ余行なしといへども、孝養奉事をもつて、往生の業とするなり。慈心不殺、修十善業とは、これについて二義あり。一は初めに慈心不殺とは、これ四無量心の中の初めの慈無量なり。即ち初めの一を挙げて、後の三を摂するなり。たとひ余行なしといへども、四無量心をもつて、往生の業とするなり。次に修十善業は、一は不殺生、二は不偸盗、三は不邪婬、四は不妄語、五は不綺語、六は不悪口、七は不両舌、八は不貪、九は不瞋、十は不邪見、なり。二は慈心不殺、修十善業の二句を合して一句とす。謂はく初めに慈心不殺とは、これ四無量の中の慈無量にあらず。これ十善の初めの不殺を指す。故に知んぬ、正しくこれ十善の一句なり。たとひ余行なしといへども、十善業をもつて、往生の業とするなり。受持三帰とは、仏法僧に帰依するなり。これについて二あり。一は大乗の三帰、二は小乗の三帰。具足衆戒とは、これに二あり。一は大乗戒、二は小乗戒。不犯威儀は、これにまた二あり。一は大乗、謂はく八万あり。二は小乗、謂はく三千あり。発菩提心とは、諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。つぶさには止観の説の如し。真言には即ち三種の菩提心あり。謂はく行願・勝義・三摩地これなり。つぶさには菩提心論の説の如し。華厳にはまた菩提心あり。かの菩提心義および遊心安楽道等の説の如し。三論・法相に、おのおの菩提心あり。つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども、おのおのその宗に随つて、その義不同なり。しかれば則ち菩提心の一句、広く諸経に亘り、遍く顕密を該ねたり。意気博遠にして、詮測沖]なり。願はくはもろもろの行者、一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人、おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業とするなり。深信因果とは、これについて二あり。一は世間の因果、二は出世の因果。世間の因果は、即ち六道の因果なり。正法念経の説の如し。出世の因果は、即ち四聖の因果なり。もろもろの大小乗経の説の如し。もしこの因果の二法をもつて、遍く諸経を摂せば、諸家不同なり。しばらく天台によらば、謂はく華厳は仏・菩薩二種の因果を説き、阿含は声聞・縁覚の二乗の因果を説き、方等の諸経は四乗の因果を説くなり。般若の諸経は通・別・円の因果を説き、法華は仏因仏果を説き、涅槃はまた四乗の因果を説くなり。しかれば則ち深信因果の言は、遍普く一代を該ね羅ねたり。もろもろの往生を求めむ人、たとひ余行なしといへども、深信因果をもつて、往生の業とすべし。[p143-145]
読誦大乗とは、分ちて二とす。一は読誦、二は大乗。読誦は、即ちこれ五種法師の中に転読・諷誦の二師を挙げて、受持等の三師を顕はす。もし十種法行に約せば、即ちこれ披読・諷誦の二種の法行を挙げて、書写供養等の八種の法行を顕はすなり。大乗は小乗を簡ぶ言なり。別に一経を指すにあらず。通じて一切の諸大乗経を指す。謂はく、一切とは仏意広く一代所説の諸大乗経を指す。しかも一代の所説において、已結集の経あり、未結集の経あり。また已結集の経において、或いは竜宮に隠れて人間に流布せざるの経あり、或いは天竺に留まつて、いまだ漢地に来到せざるの経あり。しかも今、飜訳将来の経について、これを論ぜば、貞元の入蔵の録の中に大般若経六百巻より始めて、法常住経に終るまで、顕密の大乗経、惣べて六百三十七部、二千八百八十三巻なり。皆すべからく読誦大乗の一句に摂すべし。願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随つて、或いは法華を読誦して、もつて往生の業とし、或いは華厳を読誦して、もつて往生の業、或いは遮那・教王および諸尊の法等を受持読誦して、もつて往生の業とし、或いは般若・方等および涅槃経等を解説し書写して、もつて往生の業とせよ。これ則ち浄土宗の観無量寿経の意なり。[p145-146]
問うて曰く、顕密の旨異なり。何ぞ顕の中に密を摂するや。答へて曰く、これは顕密の旨を摂せむと云ふにはあらず。貞元入蔵録の中に、同じくこれを編んで、大乗経の限りに入る。故に読誦大乗の一句に摂するなり。[p146]
問うて曰く、爾前の経の中に、何ぞ法華を摂するや。答へて曰く、今言ふところの「摂す」は、権・実・偏・円等の義を論ずるにはあらず。読誦大乗の言、普く前後の大乗の諸経に通ず。前とは観経已前の諸大乗経これなり。後とは王宮已後の諸大乗経これなり。ただし大乗と云つて、権実を選ぶことなし。しかれば則ち正しく華厳・方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経に当れり。勧進行者は、謂はく定散の諸善および念仏三昧等を勧進するなり。[p146]
次に九品とは、前の三福を開して九品の業とす。謂はく上品上生の中に、慈心不殺と言ふは、即ち上の世福の中の第三の句に当れり。次に具諸戒行とは、即ち上の戒福の中の第二の句の具足衆戒に当れり。次に読誦大乗とは、即ち上の行福の中の第三の句の読誦大乗に当れり。次に修行六念とは、即ち上の第三の福の中の第三の句の意なり。上品中生の中に善解義趣等と言ふは、即ちこれ上の第三の福の中の第二・第三の意なり。上品下生の中に深信因果・発道心等と言ふは、即ちこれ上の第三の福の第一・第二の意なり。中品上生の中に受持五戒等と言ふは、即ち上の第二の福の中の第二の句の意なり。中品中生の中に、或いは一日一夜受持八戒斎等と言ふは、また同じく上の第二の福の意なり。中品下生の中に、孝養父母・行世仁慈等と言ふは、即ち上の初めの福の第一・第二の句の意なり。下品上生は、これ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。下品中生は、これ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞いて、罪滅して生ずることを得。下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に、罪滅して生ずることを得。この三品は尋常の時、ただ悪業を造つて往生を求めずといへども、臨終の時、始めて善知識に遇うて即ち往生を得。もし上の三福に准ぜば、第三福の大乗の意なり。定善・散善、大概かくの如し。文に即ち「上より来、定散両門の益を説くといへども」と云ふ、これなり。[p146-147]
次に念仏は、専ら弥陀仏の名を称する、これなり。念仏の義、常の如し。しかも今、「正明付属、弥陀名号、流通於遐代《正しく弥陀の名号を付属して遐代に流通することを明かす》」と言ふは、およそこの経の中に既に広く定散の諸行を説くといへども、即ち定散をもつて阿難に付属し、後世に流通せしめず。ただ念仏三昧の一行をもつて、即ち阿難に付属し、遐代に流通せしむ。[p147]
問うて曰く、何の故ぞ定散の諸行をもつて、付属流通せざるや。もしそれ業の浅深によつて嫌うて付属せずば、三福業の中に浅あり深あり。その浅業は孝養父母・奉事師長なり。その深業は具足衆戒、発菩提心、深信因果、読誦大乗なり。すべからく浅業を捨てて、深業を付属すべし。もし観の浅深によつて嫌うて付属せずば、十三観の中に浅あり深あり。その浅観といふは日想・水想これなり。その深観とは地観より始めて雑想観に終るまで、惣て十一観これなり。すべからく浅観を捨てて、深観を付属すべし。中について第九観は、これ阿弥陀仏観なり。即ちこれ観仏三昧なり。すべからく十二観を捨てて、観仏三昧を付属すべし。中について同疏の玄義分の中に云く、「この経は観仏三昧を宗とし、または念仏三昧を宗とす」と。既に二行をもつて、一経を宗とす。何ぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。答へて曰く、「仏の本願に望むに、意、衆生をして、一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願にあらず。故にこれを付属せず。またその中において、観仏三昧は殊勝の行なりといへども、仏の本願にあらず。故に付属せず。念仏三昧は、これ仏の本願なるが故に、もつてこれを付属す。「望仏本願」と言ふは、双巻経の四十八願の中の第十八の願を指すなり。「一向専称」と言ふは、同経の三輩の中の一向専念を指すなり。本願の義、つぶさに前に弁ずるが如し。[p147-148]
問うて曰く、もししからば何が故ぞ、直に本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散の諸善を説くや。答へて曰く、本願念仏の行は双巻経の中に、委しく既にこれを説く。故に重ねて説かざるのみ。また定散を説くことは、念仏の余善に超過たることを顕はさむがためなり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀でたることを顕さむや。例するに法華の三説に秀でたるが如し。上、もし三説なくは、何ぞ法華の第一なることを顕はさむ。故に今、定散は廃せむがために説き、念仏三昧は立せむがために説く。[p148-149]
但し定散の諸善、皆もつて測り難し。およそ定善とは、それ依正の観、鏡を懸けて照臨す。往生の願、掌を指して速疾なり。或いは一観の力、よく多劫の罪bを`く。或いは具憶の功、終に三昧の勝利を得。しかれば則ち往生を求めむ人、宜しく定観を修行すべし。中について第九の真身観は、これ観仏三昧の法なり。行もし成就せば、即ち弥陀の身を見たてまつる。弥陀を見たてまつるが故に、諸仏を見たてまつることを得。諸仏を見たてまつるが故に、現前に記を授けらる。この観の利益、最も甚深なり。しかるを今、観経の流通分に至り、釈迦如来、阿難に告命して、往生の要法を付属し流通せしむる因に、観仏の法を嫌うて、なほ阿難に付属せず。念仏の法を選んで、即ちもつて阿難に付属す。観仏三昧の法、なほもつて付属せず。いかにいはんや、日想、水想等の観においてをや。しかれば則ち十三定観は、皆もつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ふて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願に乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者宜しく商量すべし。[p149]
次に散善の中に、大小持戒の行あり。世皆おもへらく、持戒の行者はこれ真要に入るなり。破戒の者は往生すべからずと。また菩提心の行あり。人皆おもへらく、菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は、即ち往生すべからずと。また解第一義の行あり。これはこれ理観なり。人またおもへらく、理はこれ仏の源なり。理を離れば仏土を求むべからず。もし理観なき者は、往生すべからずと。また読誦大乗の行あり。人皆おもへらく、大乗経を読誦して、即ち往生すべし。もし読誦の行なき者は、往生すべからずと。これについて二あり。一は持経、二は持呪。持経は般若・法華等のもろもろの大乗経を持するなり。持呪とは随求・尊勝・光明・阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。およそ散善の十一人、見た貴ぶといへども、しかもその中において、この四箇の行は、当世の人、殊に欲するところの行なり。これらの行をもつて、殆念仏を抑ふ。つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属し流通せず。ただ念仏一行をもつて、即ち後世に付属し流通せしむ。まさに知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、即ちこれ弥陀の本願にあらざるの故なり。また念仏を付属する所以は、即ちこれ弥陀の本願の故なり。今また善導和尚、諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は、即ち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なればなり。故に知んぬ、諸行は機にあらず、時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せむや。まさに知るべし。随他の前には、暫く定散の門を開くといへども、随自の後には、還つて定散の門を閉づ。一たび開いて以後、永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここにあり、行者まさに知るべし。またこの中に遐代とは、双巻経の意によらば、遠く末法万年の後の、百歳の時を指すなり。これ則ち遐きを挙げて、迩きを摂するなり。しかれば法滅の後、なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。末法已にしかり。いかにいはんや正法・像法をや。故に知んぬ。念仏往生の道は正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず。[p150]
阿弥陀経に云く、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。舎利弗、もし善男子・善女人あつて、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持して、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、心を一にして乱らずは、その人、命終の時に臨んで、阿弥陀仏もろもろの聖衆とともに、現にその前に在しまさむ。この人終る時に、心顛倒せずして、即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」と。[p151]
善導この文を釈して云く、「極楽無為涅槃の界には、縁に随ふ雑善は、おそらくは生じがたし。故に如来、要法を選んで、教へて弥陀を念ずしむること専にして、また専ならしむ。七日七夜、心無間に、長時に行を起すもますます皆然なり。終りに臨んで聖衆、花を持つて現じたまふ。身心踊躍して金蓮に坐す。坐する時に、即ち無生忍を得。一念に迎へ将て仏前に至る。法侶衣をもつて競ひ来つて着す。不退を証得して、三賢に入る」と。[p151]
私に云く、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行は、かの国に生じ難し。故に「随縁雑善恐難生」と云ふ。少善根とは、多善根に対するの言なり。しかれば則ち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。故に竜舒の浄土文に云く、「襄陽の石に阿弥陀経を刻れり。乃ち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして、人多く慕ひ玩ぶ。「一心不乱」より下に、「専ら名号を持つ、名を称するをもつての故に諸罪消滅す。即ちこれ多善根福徳の因縁なり」と云ふ。今世の伝へたる本に、この二十一字を脱せり」と。<已上> ただ多少の義あるのみにあらず、また大小の義あり。謂はく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。また勝劣の義あり。謂はく雑善はこれ劣の善根なり、念仏はこれ勝の善根なり。その義まさに知るべし。[p151-152]
善導の観念法門に云く、「また弥陀経に云ふが如く、六方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、皆舌を舒べて遍く三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。もしは仏の在世にもあれ、もしは仏の滅後にもあれ、一切の造罪の凡夫、ただし心を廻して阿弥陀仏を念じ、浄土に生ぜむと願ひて、上百年を尽し、下七日一日、十声・三声・一声等に至つて、命終らむと欲する時、仏、聖衆とともに、自ら来たつて迎接したまうて、即ち往生を得。上の如き六方等の仏、舌を舒べて、定んで凡夫のために証をなしたまふ、罪滅して生ずることを得と。もしこの証によつて生ずることを得ずは、六方諸仏の舒べたまへる舌、一たび口より出でて已後、終に口に還り入らずして、自然に壊爛せむ」と。[p152]
同じく往生礼讃に、阿弥陀経を引いて云く、「東方に恒河沙の如き等の諸仏、南西北方および上下一々の方に恒河沙の如き等の諸仏、おのおの本国にして、その舌相を出だして、遍く三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。汝等衆生、皆まさにこの一切諸仏の所護念経を信ずべし。いかんが護念と名づく。もし衆生あつて、阿弥陀仏を称念すること、もしは一日および七日、下十声ないし一声、一念等に至るまで、必ず往生を得。この事を証誠するが故に、護念経と名づく」と。[p152-153]
また云く、六方の如来、舌を舒べて、専ら名号を称して、西方に至ることを証したまふ。彼に到つて花開いて妙法を聞けば、十地の願行、自然に彰はる」と。[p153]
同じく観経疏に、阿弥陀経を引いて云く、「また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらむことを恐畏して、即ち共に同心同時に、おのおの舌相を出だして、遍く三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少と時節の久近を問はず、ただしよく上百年を尽し、下一日七日に至つて、一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得ること必ず疑ひなきなり」と。[p153]
同じく法事讃に云く、「心々念仏して、疑ひを生ずることなかれ。六方の如来、虚しからずと証し、三業専心に、雑乱せざれば、百宝の蓮華、時に応じて見ゆ」と。[p153]
法照禅師の浄土五会法事讃に云く、「万行の中に、急用たり。迅速なること、浄土門に過ぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方の諸仏、共に伝証したまふ」と。[p153]
私に問うて曰く、何が故ぞ、六方の諸仏の証誠、ただ念仏の一行に局るや。答へて曰く、もし善導の意によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり、故にこれを証誠す。余行はしからず、故にこれなきなり。[p153]
問うて曰く、もし本願によつて念仏を証誠せば、双巻・観経等に念仏を説くの時、何ぞ証誠せざるや。答へて曰く、解するに二義あり。一に解して云く、双巻・観経等の中に本願念仏を説くといへども、兼ねて余行を明かす。故に証誠せず。この経の中に、一向に純ら念仏を説く。故にこれを証誠す。二に解して云く、かの双巻等の中に証誠の言なしといへども、この経已に証誠あり。これに例して此彼を思ふに、彼等の経の中において説くところの念仏、またまさに証誠の義あるべし。文はこの経にありといへども、義はかの経に通ず。故に天台の十疑論に云く、「また阿弥陀経・大無量寿経・鼓音声陀羅尼経等に云く、釈迦仏、経を説きたまふ時に、十方世界におのおの恒河沙の諸仏ましまして、その舌相を舒べて、遍く三千大千世界に覆うて、一切衆生の阿弥陀仏を念じて仏の本願大悲願力に乗るが故に、決定して極楽世界に生ずることを得、と証誠したまふ」と。[p153-154]
観念法門に云く、「また弥陀経に説くが如き、もし男子女人あつて、七日七夜および一生を尽して、一心に専ら阿弥陀仏を念じて、往生を願ずれば、この人は常に六方恒河沙等の仏、共に来たつて護念したまふことを得。故に護念経と名づく。護念の意は、またもろもろの悪鬼神をして便りを得しめず。また横病横死、横に厄難あることなく、一切の災障、自然に消散しぬ。不至心をば除く」と。[p154]
往生礼讃に云く、「もし仏を称して往生する者は、常に六方恒沙等の諸仏のために、護念せらる。故に護念経と名づく。今既にこの増上の誓願あり、憑むべし。もろもろの仏子等[p154]、何ぞ意を励まさざらむや」と。[p154-155]
私に問うて曰く、ただ六方の如来のみあつて、行者を護念したまふはいかんぞ。答へて曰く、六方の如来のみに限らず、弥陀・観音等、また来たつて護念したまふ。故に往生礼讃に云く、「十往生経に云く、もし衆生あつて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏は即ち二十五の菩薩を遣はして、行者を擁護したまふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切の時、一切の処に、悪鬼・悪神をして、その便りを得しめざるなり」と。また観経に云ふが如く、もし阿弥陀仏を称礼念して、かの国に往生せむと願ずれば、かの仏、即ち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。また前の二十五の菩薩等と百重千重に行者を囲遶して、行住坐臥を問はず、一切の時処に、もしは昼、もしは夜、常に行者を離れたまはず。今既にこの勝益あり、憑むべし。願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく至心に往くことを求むべし。[p155]
また観念法門に云く、「また観経の下の文の如く、もし人あつて、心を至して常に阿弥陀仏および二菩薩、観音・勢至を念ずれば、常に行人と勝友・知識となつて随逐影護したまふ」と。また云く、「また般舟三昧経の行品の中に説いて云ふが如し。仏の言はく、もし人専らこの念弥陀仏三昧を行ずれば、常に一切の諸天および四天大王・竜神八部の随逐擁護し、愛楽し相ひ見ることを得て、永くもろもろの悪鬼神、災障・厄難、横に悩乱を加ふることなし。つぶさには護持品の中に説くが如し」と。また云く、「三昧の道場に入るを除いては、日別に弥陀仏を念ずること一万、命を畢るまで相続すれば、即ち弥陀の加念を蒙つて、罪障を除くことを得。また仏、聖衆とともに常に来たつて護念したまふことを蒙る。既に護念を蒙りぬれば、即ち年を延べ寿を転ずることを得」と。[p155-156]
阿弥陀経に云く、「仏、この経を説き已りたまふに、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の人天・阿修羅等、仏の所説を聞いて歓喜し信受して、礼をなして去りぬ」と。[p156]
善導の法事讃に、この文を釈して云く、「世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなむとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は、疑謗多く、道俗相ひ嫌うて、聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては、瞋毒を起して、方便破壊して、競つて怨を生ず。かくの如き生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して、永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。大衆同心に皆、所有の破法罪の因縁を懺悔せよ」と。[p156]
私に云く、およそ三経の意を案ずるに、諸行の中に念仏を選択してもつて旨帰とす先づ双巻経の中に三の選択あり。一には選択本願、二は選択讃歎、三は選択留教。一に選択本願といふは、念仏はこれ法蔵比丘、二百一十億の中において、選択するところの往生の行なり。細しき旨、上に見えたり。故に選択本願と云ふなり。二に選択讃歎は、上の三輩の中に、菩提心等の余行を挙ぐといへども、釈迦即ち余行を讃歎したまはず[p156]、ただ念仏において、しかも讃歎したまひて、無上の功徳と云ふ。故に選択讃歎と云ふなり。三に選択留教とは、また上に余行諸善を挙ぐといへども、釈迦選択して、ただ念仏の一法を留めたまふ。故に選択留教と云ふなり。[p156-157]
次に観経の中に、また三の選択あり。一には選択摂取、二には選択化讃、三に選択付属なり。一に選択摂取といふは、観経の中に定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。故に選択摂取と云ふなり。二に選択化讃は、下品上生の人、聞経と称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故、諸罪消滅、我来迎汝《汝、仏のみ名を称するが故に、諸罪消滅す。我来たりて汝を迎ふ》」と云ふ。故に選択化讃と云ふなり。三に選択付属とは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。故に選択付属と云ふなり。[p157]
次に阿弥陀経の中に、一の選択あり。いはゆる選択証誠なり。已に諸経の中において、多く往生の諸行を説くといへども、六方の諸仏、かの諸行において証誠せず。この経の中に至つて念仏往生を説きたまふときに、六方恒沙の諸仏、おのおの舌を舒べて大千に覆ひ、誠実の語を説いて、これを証誠したまふ。故に選択証誠と云ふなり。しかのみならず般舟三昧経の中に、また一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀自ら説いて、「わが国に来生せむと欲はば、常に我が名を念じて、休息せしむることなかれ」と言はく。故に選択我名と云ふなり。本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。しかれば則ち釈迦・弥陀および十方おのおの恒沙等の諸仏、同心に念仏一行を選択したまふ。余行はしからず。故に知んぬ。三経ともに、念仏を選んで、もつて宗致とするのみ。計みれば、それ速やかに生死を離れむと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲はば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を修せむと欲はば、正助二業の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり。[p157-158]
問うて曰く、華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸師、おのおの浄土法門の章疏を造る。何ぞ彼等の師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。答へて曰く、彼等の諸師、おのおの皆、浄土の章疏を造るといへども、しかも浄土をもつて宗とせず、ただ聖道をもつてその宗とす。故に彼等の諸師によらざるなり。善導和尚は偏に浄土をもつて宗とし、しかも聖道をもつて宗とせず。故に偏に善導一師によるなり。[p158]
問うて曰く、浄土の祖師その数また多し。謂はく弘法寺の迦才、慈愍三蔵等これなり。何ぞ彼等の諸師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。答へて曰く、これらの諸師、浄土を宗とすといへども、いまだ三昧を発さず。善導和尚はこれ三昧発得の人なり。道において既にその証あり。故にしばらくこれを用ゐる。[p158]
問うて曰く、もし三昧発得によらば懐感禅師はこれ三昧発得の人なり。何ぞこれを用ゐざるや。答へて曰く、善導はこれ師なり。懐感はこれ弟子なり。故に師によつて弟子によらざるなり。いはんや師資の釈、その相違甚だ多し。故にこれを用ゐず。[p158-159]
問うて曰く、もし師によつて弟子によらずは、道綽禅師はこれ善導和尚の師なり。そもそもまた浄土の祖師なり。何ぞこれを用ゐざるや。答へて曰く、道綽禅師はこれ師なりといへども、いまだ三昧を発さず。故に自ら往生の得否を知らずして、善導に問うて曰く、「道綽、念仏して往生を得むや否や」と。導、一茎の蓮華を弁ぜしめて、これを仏前に置いて、「行道七日せむに花萎み悴けずは、即ち往生を得」と。これによつて七日、花果然として花萎黄せず。綽、その深詣を歎ず。請によつて定に入つて観ず。まさに生ずることを得べきや否やと。導、即ち定に入つて、須臾に報へて曰く、「師まさに三の罪を懺ずべし。まさに往生すべし。一には師、嘗仏の尊像を安じて、簷[の下に在いて、自らは深房に処せり。二には出家の人を駆使し策役す。三には屋宇を営造して虫の命を損傷す。師、宜しく十方の仏の前において第一の罪を懺じ、四方の僧の前において第二の罪を懺じ、一切衆生の前において第三の罪を懺ずべし」と。綽公、静かに往の咎を思うて、皆虚しからずと曰ふ。ここにおいて心を洗ひ、悔謝し訖つて、導に見ゆ。即ち曰く、「師の罪滅したり。後にまさに白光あつて照燭すべし。これ師の往生の相なり」と。<已上、新修往生伝> ここに知んぬ。善導和尚は、行三昧を発し力め、師の位に堪へたり。解行、凡にあらざること、まさにこれ暁らけし。いはんやまた時の人の諺に曰く、仏法東行してより已来、いまだ禅師のごとくの盛徳あらず。絶倫の誉、得て称すべからざるものか。[p159]
しかのみならず、観経の文疏を条録するの刻に、頗る霊瑞を感ず、しばしば聖化に預かる。既に聖の冥加を蒙つて、しかも経の科文を造る。世を挙つて証定の疏と称す。人これを貴ぶこと、仏経の法の如くす。即ちかの疏の第四巻の奥に云く、「敬つて一切有縁の知識等に白す。余は既にこれ生死の凡夫なり、智慧浅短なり。しかも仏教幽微なり。敢へて輙く異解を生ぜず。遂に即ち心を標し、願を結んで、霊験を請ひ求めて、まさに造心すべし。尽虚空遍法界の一切の三宝、釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・観音・勢至、かの土の諸菩薩大海衆および一切の荘厳相等に南無し帰命したてまつる。某、今この観経に要義を出だして、古今を楷定せむと欲す。もし三世の諸仏・釈迦仏・阿弥陀仏等の大悲の願意に称はば、願はくは夢の中において、上の所願の如きの一切の境界の諸相を見ることを得むと。仏像の前において、願を結び已つて、日別に阿弥陀経三遍を誦し、阿弥陀仏三万遍を念じ、心を至して願を発す。即ち当夜において西方の空中を見るに、上の如きの諸相の境界、ことごとく皆顕現す。雑色の宝山百重千重して、種々の光明、下、地を照らす。地、金色の如し。中に諸仏菩薩あつて、或いは坐し、或いは立し、或いは語し、或いは黙し、或いは身手を動かし、或いは住して動ぜざる者あり。既にこの相を見て、合掌立観す。やや久しくあつて乃ち覚めぬ。覚め已つて欣喜に勝へず。即ち義門を条録す。これより已後、毎夜夢中に、常に一の僧あて、来たつて玄義・科文を指し授く。既に了つて、さらにまた見えず。後の時に、本を脱し竟已りぬ。またさらに心を至し、要ず七日を期して、日別に阿弥陀経十遍を誦し、阿弥陀仏三万遍を念じ、初夜・後夜に、かの仏の国土の荘厳等の相を観想して、誠心に帰命して、一ら上の法の如くす。当夜に即ち三具の磑輪の、道の辺りに独り転ずるを見る。忽ちに一人あつて、白き駱駝に乗じ、前に来たつて見て師に勧む、「まさにゆめゆめ決定して往生すべし。退転をなすことなかれ。この界は穢悪にして苦多し。労しく貪楽せざれ」と。答へて言く、「大きに賢者の好心の視誨を蒙りぬ。某、畢命を期として、敢へて懈慢の心を生ぜず」と云々。第二の夜に見らく、阿弥陀仏の身は真金色にして、七宝樹の下の金蓮華の上にましまして坐したまへり。十僧囲遶して、またおのおの一の宝樹の下に坐せり。仏樹の上に、乃ち天衣ありて挂り遶れり。面を正しくし西に向つて、合掌して坐して観ず。第三の夜に見らく、両の幢杆、大きに高く顕はれて、幡五色を懸けたり。道路縦横に、人観ること礙りなし。既にこの相を得已りて、即便ち休止して七日に至らず。上より来、所有の霊相は、本心、物のためにして己身のためにせず。既にこの相を蒙れり。敢へて隠蔵せず。謹んでもつて義を申べ呈して後に、末代に聞えられむ。願はくは含霊をして、これを聞かしめて信を生ぜしむ。有識の覩む者、西に帰せよ。この功徳をもつて衆生に廻施して、ことごとく菩提心を発して、慈心をもつて相ひ向ひ、仏眼をもつて相ひ看む。菩提の眷属として、真の善知識とならむ。同じく浄国に帰して共に仏道を成ぜむ。この義已に、証を請ひて定め竟んぬ。一句一字も加減すべからず。写さむと欲はば、一ら経法の如くすべし。まさに知るべし」と。<已上>[p160-161]
静かに以みれば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。しかれば則ち西方の行人、必ずすべからく珍敬すべし。なかんづくに、毎夜に夢の中に僧あつて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ弥陀の応現なり。しかれば謂ふべし、この疏はこれ弥陀の伝説なりと。いかにいはんや、大唐に相ひ伝へて云く、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。しかれば謂ふべし、またこの文は、これ弥陀の直説なりと。既に写さむと欲はば、一ら経法の如くせよと云ふ、この言、誠なるか。仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語、往生に疑ひなし。本迹異なりといへども、化道これ一なり。[p161-162]
ここにおいて貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識る。たちどころに余行を舎めて、ここに念仏に帰す。それより已来、今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかる間、希に津を問ふ者には、示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬる者には、誨ふるに念仏の別行をもつてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠なし。まさに知るべし。浄土の教、時機を叩いて、行運に当れり。念仏の行、水月を感じて、昇降を得たり。しかるに今、図らざるに仰せを蒙る。辞謝するに地なし。よつて今憖ひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念仏の要義を述ぶ。ただし命旨を顧みて、不敏を顧みず。これ即ち無慙無愧の甚だしきなり。庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらむがためなり。[p162]