天台首楞厳院沙門源信撰
大文第七に、念仏の利益を明さば、大いに分ちて七あり。一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来の勝利、五には弥陀の別益、六には引例勧信、七には悪趣の利益なり。その文おのおの多し。今略して要を挙げん。[p220]
第一に、滅罪生善とは、観仏経の第二に云く、[p220]
一時の中に於て、分ちて少分となし、少分の中に、能く須臾の間も仏の白毫を念じて、心をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明正住にして、意を注いで、息まず白毫を念ぜん者は、もしは相好を見たてまつり、もしは見たてまつることを得ざらんも、かくの如き等の人は、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却せん。たとひまた人ありて、ただ白毫を聞いて心に驚疑せず、歓喜し信受せんには、この人もまた八十億劫の生死の罪を却かん。[p220]
と。また云く、[p220]
仏、世を去りて後、三昧正受して仏行を想はん者もまた千劫の極重の悪業を除かん。[p221]
と。<仏の行歩の相は、上の助念方法門の如し> また云く、[p221]
仏、阿難に告げたまはく、「汝、今日より如来の語を持ちて、遍く弟子に告げよ。仏の滅度の後は、好き形像を造りて、身相をして足らしめ、また無量の化仏の色像及び通身の色を作り、及び仏跡を画き、微妙の糸及び頗梨珠を以て白毫の処に安め、もろもろの衆生をしてこの相を見ることを得しめよ。ただこの相を見て心に歓喜を生ぜば、この人、百億那由他恒河沙劫の生死の罪を除却せん」と。[p221]
と。また云く、[p221]
老女の、仏を見たてまつりて、邪見にして信ぜざるも、なほ能く八十万億劫の生死の罪を除却せり。いはんや、また善意にして恭敬し礼拝せんをや。[p221]
と。<須達の家の老女の因縁は、かの経に広く説くが如し> また云く、[p221]
もろもろの凡夫及び四部の弟子、方等経を謗り、五逆罪を作り、四重禁を犯し、僧祇物を偸み、比丘尼を婬し、八戒斎を破り、もろもろの悪事、種々の邪見を作さんに、かくの如き等の人、もし能く至心に、一日一夜、念を繋けて、前に在すがごとく仏如来の一の相好を観ぜば、もろもろの悪も罪障も皆悉く尽滅せん。[p221]
と。また云く、[p221]
もしは仏世尊に帰依することある者、もしは名を称する者は、百千劫の煩悩の重障を除く。いかにいはんや、正心に念仏定を修せんをや。[p221]
と。宝積経の第五に云く、[p222]
宝珠あり、種々色と名づく。大海の中にありて、無量衆多のH流の、大海に入るものありといへども、珠火の力を以て、水をして銷滅せしめて盈溢せざらしむるが如く、かくの如く、如来・応・正等覚も菩提を証し已れば、智火の力に由りて、能く衆生の煩悩をして銷滅せしめたまふこと、亦またかくの如し。<乃至> もしまた人ありて、日々の中に於て如来の名号の功徳を称説せば、このもろもろの衆生は、能く黒闇を離れて、漸次に当にもろもろの煩悩を焼くことを得べし。かくの如く南無仏と称念せば、語業空しからず。かくの如き語業をば、大炬を執りて能く煩悩を焼くと名づく。[p222]
と。遺日摩尼経に云く、[p222]
菩薩は、また数千巨億万劫、愛欲の中にありて罪の為に覆はるといへども、もし仏の経を聞いて、一反だにも善を念ぜば、罪即ち消え尽きん。[p222]
と。<已上の諸文は滅罪なり> 大悲経の第二に云く、[p222]
もし三千大千世界の中に満てらん須陀ッ・斯陀含・阿那含・阿羅漢を、もし善男子・善女人ありて、もしは一劫、もしは減一劫、もろもろの種々意に称へる一切の楽具を以て、恭敬し尊重し謙下して供養せん。もしまた人ありて、諸仏の所に於て、ただ一たびも合掌し、一たびも名を称せん。かくの如き福徳に、前の福徳を比べんに、百分にして一にも及ばず、百千億分にして一にも及ばず、迦羅分にして一にも及ばず。何を以ての故に。仏如来はもろもろの福田の中において最無上たるを以てなり。この故に、仏に施したてまつるは大功徳を成ずるなり。[p222-223]
と。<略抄。三千界に満てらん辟支仏を以て校量すともまたしかり> 普曜経の偈に云く、[p223]
一切衆生の、縁覚と成らんに もし億数劫に 飲食と衣服と床臥具と 擣香と雑香と及び名花とを供養することあらんも もし一心に十指を叉へ 専心に自ら一の如来に帰して 口に自ら南無仏と発言することあらば この功徳の福を最上となす[p223]
と。般舟経の、念仏三昧を説く偈に云く、[p223]
たとひ一切をして皆仏となし 聖智清浄にして慧第一たらしめん 皆億劫に於てその数を過ぐるまで 一偈を講説せる功徳において 泥ッに至るまで福を誦詠し 無数億劫にわたり悉く歎誦すとも その功徳を究め尽すことあたはず この三昧の一偈の事に於てせるを 一切の仏国の所有の地 四方・四隅及び上下の 中に満てらん珍宝を以て布施し 用て仏天中天に供養せんも もしこの三昧を聞くことあらんものは その福祐を得ること彼に過ぎん 安諦に諷誦し説講せん者 譬を引くとも功徳喩ふべからず[p223]
と。<一の仏刹を破して塵となし、一々の塵と取りて、また砕いて一の仏刹の塵の数の如くし、この一の塵を以て一の仏刹となし、若干の仏刹の、中に満てらん珍宝もて諸仏に供養す。これを以て比となすなり。已上は生善なり>[p223]
度諸仏境界経に説かく、[p223]
もしもろもろの衆生、如来を縁じて、もろもろの行を生ぜば、無数劫の地獄・畜生・餓鬼・閻魔王の生を断つ。もし衆生ありて、一念も作意して如来を縁ずる者は、得るところの功徳、限極あることなく、称量すべからず。百千万億那由他のもろもろの大菩薩の、悉く不可思議解脱定を得んとも、計校してその辺際を知ることあたはず。[p223-224]
と。観仏経に〔説かく〕、[p224]
仏、阿難に告げたまはく、「我涅槃して後、諸天・世人、もしわが名を称し、及び南無諸仏と称へんには、獲る所の福徳は無量無辺ならん。いはんやまた、念を繋けて諸仏を念ぜん者、しかももろもろの障碍を滅除せざらんや」と。[p224]
と。<已上は滅罪と生善なり。その余は上の正修念仏門の如し>[p224]
第二に、冥得護持とは、護身呪経に云く、[p224]
三十六部の神王に、万億恒沙の鬼神ありて眷属となり、三帰を受けたる者を獲る。[p224]
と。般舟経に云く、[p224]
「劫尽壊焼の時、この三昧を持てる菩薩は、正使この火の中に堕つとも、火即ち為に滅せんこと、譬へば、大いなるiの水の、小火を滅すが如くならん」と。仏、跋陀和に告げたまはく、「わが語る所は異あることなし。この菩薩は、この三昧を持たんには、もしは帝王、もしは賊、もしは火、もしは水、もしは竜、もしは蛇、もしは閲叉・鬼神、もしは猛獣、<乃至> もしは人の禅を壊り、人の念を奪ふものも、たとひこの菩薩を中らんと欲すとも、終に中るあたはず」と。仏言はく、「わが語る所の如きは異あることなし。その宿命をば除く。その余は、能く中る者あることなけん」と。[p224]
と。偈に曰く、[p225]
鬼神・乾陀共に擁護し 諸天・人民もまたかくの如くせん 并に阿須倫・摩ェ勒もこの三昧を行ぜばかくの如くなることを得ん。諸天悉く共にその徳を頌め 天・人・・竜・神・甄陀羅と 諸仏も嗟歎して願の如くならしめたまふ 経を諷誦し説いて人の為にするが故なり 国と国と相伐ちて民荒乱し 飢饉荐に臻りて苦の窮を懐くも 終にその命を中夭せず 能くこの経を誦して人を化すればなり 勇猛にもろもろの魔事を降伏し 心に畏るる所なく 毛竪たず その功徳行は議るべからず この三昧を行ぜばかくの如くなることを得ん[p225]
と。<十住婆沙に、これ等の文を引き已りて云く、「ただ業報の必ず応に受くべき者をば除く」と> 十二仏名経の偈に云く、[p225]
もし人、仏の名を持たば 衆魔及び波旬も 行住坐臥の処にその便を得ることあたはず[p225]
と。[p225]
第三に、現身見仏とは、文殊般若経の下巻に云く、[p225]
仏の云く、「もし善男子・善女人、一行三昧に入らんと欲せば、応に空閑に処してもろもろの乱意を捨て、相貎を取らずして心を一仏にかけ繋け、専ら名字を称へて、仏の方所に随ひ、身を端しくして正しく向ひ、能く一仏に於て念々に相続すべし。即ち念の中に於て、能く過去・未来・現在の諸仏を見たてまつらん」と。[p225-226]
と。導禅師、釈して云く、[p226]
衆生は障重ければ、観成就し難し。ここを以て、大聖悲憐したまひ、ただ専ら名字を称せよと勧めたまふなり。[p226]
と。般舟経に云く、[p226]
「前に聞かざりし所の経巻をば、この菩薩、この三昧を持てる威神もて、夢の中に悉く自らその経巻を得、おのおの悉く見、悉く経の声を聞かん。もし昼日に得ずは、もしは夜、夢の中に於て、悉く仏を見たてまつることを得ん」と。仏、跋陀和に告げたまはく、「もしは一劫、もしは一劫を過ぐるまで、我、この菩薩の、この三昧を持てる者を説き、その功徳を説かんに、尽し竟るべからず。いかにいはんや、能くこの三昧を求め得たる者をや」と。[p226]
と。また同じ経の偈に云く、[p226]
阿弥陀の国の菩薩の 無央数百千の仏を見たてまつるが如く この三昧を得たる菩薩も然なり 当に無央百千の仏を見たてまつるべし <乃至> それこの三昧を誦受することあらば 已に面のあたり百千の仏を見たてまつるとなす たとひ最後の大恐懼にも この三昧を持たば畏るる所なけん[p226]
と。念仏三昧経の第九の偈に云く、[p226]
もしは尽く一切の仏を 現在・未来及び十方に見んと欲ひ 或はまた妙法輪を転ぜんことを求めんには またまづこの三昧を修習せよ[p226-227]
と。十二仏名経の偈に云く、[p227]
もし人、能く心を至して 七日、仏の名を誦すれば 清浄の眼を得て 能く無量の仏を見たてまつらん[p227]
と。[p227]
第四に、当来の勝利とは、華厳の偈に云く、[p227]
もし如来の少かの功徳をも念じ 乃至一念の心だにも専仰したてまつらば もろもろの悪道の怖れ悉く永く除こり 智眼はここに於て能く深く悟る[p227]
と。<智眼天王の頌なり> 般舟経の偈に云く、[p227]
その人終に地獄に堕せず 餓鬼道及び畜生を離れ 世々、生るる所にて宿命を識らん この三昧を学ばばかくの如くなることを得ん[p227]
と。観仏経に云く、[p227]
もし衆生ありて、一たびも仏身の、上の如き功徳と相好と光明とを聞かば、億々千劫にも悪道に堕せず、邪見・雑穢の処にも生ぜず、常に正見を得て、勤修すること息まざらん。ただ仏の名を聞くすら、かくの如き福を獲。いかにいはんや、念を観仏三昧に繋けんをや。[p227]
と。<已上> 〔安楽集に云く、〕[p227]
大集経に云く、「諸仏の世に出でたまふに、四種の法ありて、衆生を度したまふ。何等をか四となす。一には、口に十二部経を説く。即ちこれ、法施もて衆生を度したまふなり。二には、諸仏如来には無量の光明・相好あり。一切の衆生、ただ能く心を繋けて観察すれば、益を獲ずといふことなし。即ちこれ、身業もて衆生を度したまふなり。三には、無量の徳用・神通道力、種々の神変あり。即ちこれ、神通道力もて衆生を度したまふなり。四には、諸仏如来には無量の名号あり。もしは惣、もしは別なり。それ衆生ありて、心を繋けて称念すれば、障を除き、益を獲て、皆仏前に生ぜずといふことなし。即ちこれ、名号もて衆生を度したまふなり」と。[p228]
と云々。〔あるが云く、〕 正法念経にこの文ありと云々。十二仏名経の偈に云く、[p228]
もし人、仏の名を持たば 怯弱の心を生ぜず 智慧ありて諂曲なく 常に諸仏の前にあり もし人、仏の名を持たば 七宝の花の中に生ず その花、千億葉にして 威光の相具足せり[p228]
と。<已上の諸文、永く悪趣を離れて浄土に往生するなり> 観仏経に云く、[p228]
もし能く心を至して、繋念内にあり、端坐正受して、仏の色身を観ぜば、当に知るべし、この人の心は仏の心の如くにして、仏と異ることなけん。煩悩ありといへども、もろもろの悪の為に覆蔽せられず、未来世に於て大法雨を雨らす。[p228]
と。大集念仏三昧経の第七に云く、[p228]
当に知るべし、かくの如き念仏三昧は、則ちエじて一切の諸法を摂すとなす。この故に、かの声聞・縁覚の二乗の境界にあらず。もし人、暫くもこの法を説くを聞かば、この人、当来に決定して仏と成ること、疑あることなきなり。[p228-229]
と。〔同じ経の〕第九に云く、[p229]
ただ能く耳にこの三昧の名を聞かば、仮令読まず誦せず、受けず持たず、修せず習はず、他の為に転ぜず、他の為に説かず、亦また広く分別して、釈することあたはざらんも、しかもかのもろもろの善男子・善女人は、皆当に、次第に阿耨菩提を成就すべし。[p229]
と。同じ経の偈に云く、[p229]
もしもろもろの妙相を円満して もろもろの妙上の荘厳を具足せんと欲し 及び清浄の家に転生せんことを求めんには 必ずまづこの三昧を受持せよ[p229]
と。またある経に言く、[p229]
もし仏の福田に於て 能く少分の善を殖ゑなば 初には勝善趣を獲 後には必ず涅槃を得ん[p229]
と。大般若経に云く、[p229]
仏を敬ひ憶ふに依りて、必ず生死を出でて涅槃に至る。これをば置く。乃至、仏を供養せんが為に一花を以て虚空に散ずるもまたかくの如し。またこれをば置く。もし善男子・善女人等、下は一たびも「南無仏陀大慈悲者」と称するに至らば、この善男子・善女人等は、生死の際を窮むるまで善根尽くることなく、天人の中に於て恒に富楽を受け、乃至、最後には般涅槃を得ん。[p229-230]
と。<略抄。大悲経の第二もこれに同じ> 宝積経に云く、[p230]
もし衆生ありて、如来の所に於て微善を起さば、苦際を尽すまで畢竟して壊せず。[p230]
と。また云く、[p230]
もし菩薩ありて、勝れたる意楽を以て、能くわが所に於て父の想を起さば、かの人、当に如来の数に入ることを得て、わが如く異ることなかるべし。[p230]
と。十二仏名経の偈に云く、[p230]
もし人、仏の名を持たば、世々、所生の処に 身は通によりて虚空に遊び 能く無辺の刹に至り 面のあたり諸仏を覩たてまつりて 能く甚深の義を問はんに <乃至> 為に微妙の法を説き 彼に菩提の記を授けたまはん[p230]
と。法華経の偈に云く、[p230]
もし人、散乱の心もて 塔廟の中に入るも 一たび南無仏と称へんには 皆已に仏道を成ず[p230]
と。大悲経の第三に、仏、阿難に告げたまはく、[p230]
もし衆生ありて、仏の名を聞かん者は、我説かく、この人畢定して、当に般涅槃に入ることを得べし。[p230]
と。華厳経の法幢菩薩の偈に云く、[p230]
もしもろもろの衆生ありて いまだ菩提心を発さざらんも 一たび仏の名を聞くことを得ば 決定して菩提を成ぜん[p230-231]
と。<已上の諸文、菩提を得るなり>[p231]
ただ名号を聞くすら、勝利かくの如し。いはんや暫くも相好・功徳を観念し、或はまた一花・一香を供養せんをや。いはんや一生に勤修せん功徳は終に虚しからず。則ち知る、仏法に値ひ、仏号を聞くことは、これ少縁にあらずといふことを。この故に華厳経の真実慧菩薩の偈に云く、[p231]
むしろ地獄の苦を受くとも 諸仏の名を聞くことを得よ 無量の楽を受くとも 仏の名を聞かざることなかれ[p231]
と。<已上の四門は、惣じて諸仏を念ずる利益を明す。その中、観仏経は釈迦を以て首となし、般舟経は多く弥陀を以て首と為すも、理、実には倶に一切諸仏に通ず。念仏経は三世の仏に通ず>[p231]
問ふ。観仏経に云く、[p231]
この人の心は、仏の心の如くにして仏と異ることなけん。[p231]
と。また観経に云く、[p231]
仏、阿難に告げたまはく、「諸仏〔如来〕はこれ法界身なり、一切衆生の心想の中に入りたまふ。この故に、汝等、心に仏を想ふ時は、この心即ちこれ三十二相・八十随形好なり。この心、作仏す。この心、これ仏なり。諸仏正遍知海は、心想より生ず」と。[p231]
と。<已上> この義、いかん。[p231]
答ふ。往生論の智光の疏に、この文を釈して云く、[p231]
衆生の心に仏を想ふ時に当りて、仏の身相、皆衆生の心中に顕現するなり。譬へば、水清ければ即ち色像現じて、水と像と、一ならず異ならざるが如し。故に「仏の相好身は即ちこれ心想」と言へるなり。「この心、作仏す」とは、心能く仏と作るなり。「この心、これ仏なり」とは、心の外に仏なきなり。譬へば、火は木より出でて、木を離るることを得ず、木を離れざるを以ての故に、即ち能く木を焼き、火の為に焼けし木は、即ちこれ火たるが如し。[p232]
と。<已上> また余の釈あり。学者更に勘へよ。私に云く、大集経日蔵分に云く、[p232]
行者、この念を作さく、これ等の諸仏は従りて来る所なく、去るも至る所なし。ただわが心の作なるのみ。三界の中に於て、この身は因縁にして、ただこれ心の作なり。我、覚観の随に、多を欲すれば多を見、小を欲すれば小を見るなり、諸仏如来も即ちこれわが心なり。何を以ての故に。心の随に見たてまつるが故なり。心は即ちわが身にして、即ちこれ虚空なり。我、覚観に因りて無量の仏を見たてまつる。我、覚心を以て、仏を見、仏を知るなり。心は心を見ず、心は心を知らず。我、法界を観ずるに、性に牢固たることなし。一切の諸仏は皆覚観の因縁より生ず。この故に、法性は即ちこれ虚空にして、虚空の性も亦またこれ空なり。[p232]
と。<已上> この文の意は観経に同じ。光師の釈もまた違ふことなし。[p232]
問ふ。心の、仏と作ることを知らば、何の勝れたる利かあるや。[p232]
答ふ。もしこの理を観ずれば、能く三世の一切の仏法を了り、乃至、一たびも聞かば、即ち三途の苦難を解脱することを得るなり。華厳経の如来林菩薩の偈に云ふが如し。[p232-233]
もし人、三世一切の仏を知らんと欲求せば 応当にかくの如く観ずべし 心、もろもろの如来を造ると[p233]
と。華厳伝に曰く、[p233]
文明元年、京師の人、姓は王、その名を失せり。既に戒行なく、曾て善を修せず。患に因りて死に致る。二人に引かれて地獄の門前に至り、一の僧あるを見る。云く、「これ地蔵菩薩なり」と。乃ち王氏に教へて、この一偈を誦へしめ、これに謂ひて曰く、「この偈を誦へ得ば、能く地獄を排はん」と。王氏遂に入りて、閻羅王に見ゆ。王、この人に問ふ、「功徳ありや」と。答へて云く、「ただ我、一の四句の偈を受持す」と。具さに上の如くに説く。王、遂に放免す。この偈を誦する時に当りて、声の所及の処に苦を受けし人、皆解脱を得たり。王氏、三日にして始めて蘇り、この偈を憶持して、もろもろの沙門に向ひ、これを説く。偈の文を示験するに、方にこれ華厳経の第十二巻、夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品なることを知れり。王氏自ら、空観寺の僧定法師に向ひて、説いて然なりと云へり。[p233]
と。<略抄>[p233]
第五に、弥陀を念ずる別益とは、行者をしてその心を決定せしめんが為の故に、別にこれを明すなり。<滅罪生善と冥得護念と現身見仏と将来の勝利とは、次の如し> 観経に像想観を説いて云く、[p233-234]
この観を作す者は、無量億劫の生死の罪を除き、現身の中に於て念仏三昧を得ん。[p234]
と。また云く、[p234]
ただ仏の像を想ふすら無量の福を得。いはんやまた、仏の具足せる身相を観ぜんをや。[p234]
と。阿弥陀思惟経に云く、[p234]
もし転輪王の千万歳の中、四天下に満てらん七宝もて十方の諸仏に布施すとも、j蒭・j蒭尼・優婆塞・優婆夷等の、一弾指の頃も坐禅し、平等の心を以て、一切の衆生を憐愍して、阿弥陀仏を念ぜん功徳にはしかず。[p234]
と。<已上は、滅罪生善なり> 称讃浄土経に云く、[p234]
或は善男子、或は善女人、無量寿の極楽世界、清浄仏土の功徳荘厳に於て、もしは已に発願し、もしは当に発願すべく、もしは今発願せんに、必ずかくの如く、十方面に住したまふ十恒河沙の諸仏世尊の、摂受したまふ所となる。説の如く行ぜん者は、一切定んで阿耨菩提に於て退転せざることを得、一切定んで無量寿仏の極楽世界に生れん。[p234]
と。観経に云く、[p234]
光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず。[p234]
と。また云く、[p234]
無量寿仏は化身無数にして、観世音・大勢至と、常にこの行人の所に来至したまふ。[p235]
と。十往生経に、釈尊、阿弥陀仏の功徳、国土の荘厳等を説き已りて、云く、[p235]
清信士・清信女、この経を読誦し、この経を流布し、この経を恭敬しこの経を謗らず、この経を信楽し、この経を供養せん。かくの如き人の輩は、この信敬に縁りて、我、今日より常に前の廿五菩薩をしてこの人を護持せしめ、常にこの人をして、病なく悩なく、悪鬼・悪神もまた中り害せず、またこれを悩まさず、また便も得ざらしめん。[p235]
と。<已上。「乃至、睡寤・行住・所至の処、皆悉く安穏ならしめん」と云々> 唐土の諸師の云く、「廿五菩薩は、阿弥陀仏を念じて、往生を願ふ者を擁護したまふ」と。これまた、かの経の意に違はざるなり。<廿五〔菩薩〕とは、観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・師子吼菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩なり> 双観経のかの仏の本願に云く、[p235]
諸天と人民、わが名字を聞いて、五体を地に投じ、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬を致さざることなけん。もししからずは、正覚を取らじ。[p235]
と。<已上は冥得護持なり> 大集経賢護分に云く、[p235]
善男子・善女人、端坐繋念し、心を専らにして、かの阿弥陀如来・応供・等正覚を想ひ、かくの如き相好、かくの如き威儀、かくの如き大衆、かくの如き説法を、聞くが如く繋念し、一心に相続して次第乱れず、或は一日を経、或はまた一夜せん。かくの如くして、或は七日七夜に至るまで、わが聞く所の如く具足して念ずるが故に、この人は必ず阿弥陀如来・応供・等正覚を覩たてまつるなり。もし昼の時に於て見たてまつること能はざる者は、もしは夜分に於て、或は夢の中に、阿弥陀仏は必ず当に現じたまふべし。[p235-236]
と。<已上> 観経に云く、[p236]
眉間の白毫を見たてまつらば、八万四千の相好、自然に当に見ゆべし。無量寿仏を見たてまつる者は、即ち十方の無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るが故に、諸仏は現前に授記したまふ。これを遍く一切の色相を観ずとなす。[p236]
と。<已上は見仏なり> 鼓音声王経に云く、[p236]
十日十夜、六時に念を専らにし、五体を地に投げかの仏を礼敬し、堅固正念にして悉く散乱を除き、もしは能く心に念じ、念々絶えざらしめば、十日の中に、必ずかの阿弥陀仏をみたてまつることを得、并に十方世界の如来、及び所住の処を見たてまつらん。ただ重障・鈍根の人を除く。今の少時に於て、覩るあたはざる所なり。 一切の諸善を皆悉く廻向して、安楽世界に往生することを得んと願はば、終に垂んとするの日、阿弥陀仏は、もろもろの大衆とともに、その人の前に現れて、安愈し称善したまはん。この人、その時、甚だ慶悦を生ぜん。この因縁を以て、その所願の如く、即ち往生することを得ん。[p236]
と。平等覚経に云く、[p237]
仏の言はく、「要ず当に斎戒し、一心清浄にして昼夜に常に念じ、無量清浄仏の国に生れんと欲して、十日十夜、断絶せざるべし。我、皆これを慈愍して、悉く無量清浄仏の国に生れしめん」と。[p237]
と。<乃至、一日一夜もまたかくの如し。或は、この文を以て下の諸行門の中に置くべし> 双観経の偈に云く、[p237]
その仏の本願力もて 名を聞いて往生せんと欲せば 皆悉くかの国に到りて 自ら不退転に致らん[p237]
と。[p237]
観経の、下品上生の人は、命終らんとする時に臨んで、合掌し叉手して南無阿弥陀仏と称せんに、仏の名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除き、化仏の後に従ひて、宝池の中に生る。同じ品の中生の人は、命終らんとする時に臨んで、地獄の猛火、一時に倶に至らんに、弥陀仏の十力の威徳、光明の神力、戒・定・慧解脱・知見を聞かば、八十億劫の生死の罪を除き、地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天花を吹く。花の上には皆化仏・菩薩ありて、この人を迎接し、即ち往生することを得。同じ品の下生の人は、命終らんとする時に臨んで、苦に逼められて仏を念ずることあたはず。善友の教の随に、ただ至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無無量寿仏と称せん。仏の名を称するが故に、念々の中に於て八十億劫の生死の罪を除き、一念の頃の如くに、即ち往生することを得。[p237]
双観経の、かの仏の本願に云く、[p238]
諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞いて、菩薩の無生法忍、もろもろの深エ持を得ずは、正覚を取らじ。他方国土のもろもろの菩薩衆、わが名字を聞いて、即ち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。[p238]
と。観経に云く、[p238]
もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となりたまふ。当に道場に坐し、諸仏の家に生るべし。[p238]
と。<已上は将来の勝利なり。余は上の別時念仏門の如し>[p238]
第六に、引例勧信とは、観仏経の第三に、仏、もろもろの釈子に告げて言はく、[p238]
毘婆尸仏の像法の中に、一の長者あり、名づけて月徳と曰へり。五百の子ありて、同じく重病に遇へり。父、子の前に到りて涕涙合掌し、諸子に語りて言く、「汝等、邪見にして正法を信ぜざりき今、無常の刀、汝が身を截り切るも、何の怙む所とせん。仏世尊まします、毘婆尸と名づけたてまつる。汝、仏と称ふべし」と。諸子、聞き已り、その父を敬ふが故に南無仏と称ふ。父また告げて言く、「汝、法を称ふべし。汝、僧を称ふべし」と。いまだ三たび称ふるに及ばずして、その子、命終り、仏を称ふるを以ての故に四天王の所に生ぜり。天上の寿尽きしとき、前の邪見の業もて大地獄に堕ちたり。獄卒の羅刹は、熱鉄のkを以てその眼を刺し壊れり。この苦を受けし時、父の長者の教誨せし所の事を憶ひて、念仏せしを以ての故に、また人中に生ぜり。尸棄仏の出でたまへるも、ただ仏の名を聞くのみにて、仏の形を覩ざりき。乃至、迦葉仏の時もまたその名を聞きしのみ。六仏の名を聞きし因縁を以ての故に、我とともに同じく生ぜり。このもろもろの比丘前世の時、悪心を以ての故に、仏の正法を謗りたるも、ただ父の為の故に、南無仏と称へしをもて、生々に常に諸仏の名を聞くことを得、乃至、今世にわが出づるに値遇して、もろもろの障除こりしが故に、阿羅漢と成れり。[p238-239]
と。また云く、[p238]
燃燈仏の末法の中に一の羅漢ありき。その千の弟子、羅漢の説を聞いて心に瞋恨を生ぜり。寿の修短に随ひておのおの命終らんとせしとき、羅漢、教へて南無諸仏と称へしむ。既に仏を称へ已りてヒ利天に生ずることを得たり。<乃至> 未来世に於て当に作仏することを得、南無光照と号くべし。[p239]
と。第七巻には、文殊自ら、過去の宝威徳仏に値遇し礼拝せしことを説くに、[p239]
その時、釈迦文仏、讃へて言はく、「善いかな、善いかな。文殊師利は、乃ち昔の時に於て一たび仏を礼せしが故に、爾許の無数の諸仏に値ふことを得たり。いかにいはんや、未来にわがもろもろの弟子の、勤めて仏を観ぜん者をや」と。仏、阿難に勅したまはく、「汝、文殊師利の語を持ちて、遍く大衆及び未来世の衆生に告げよ。もしは能く礼拝せん者、もしは能く念仏せん者、もしは能く仏を観ぜん者、当に知るべし、この人は、文殊師利と等しくして異りあることなけん。身を他世に捨てなば、文殊師利等のもろもろの大菩薩、その和上とならん」と。[p239-240]
と。また云く、[p240]
時に、十方の仏、来りて跏趺坐したまへり。東方の善徳仏、大衆に告げて言はく、「我、過去無量世の時を念ふに、仏の世に出でたまへるあり。宝威徳上王と号けたり。時に比丘あり。九弟子とともに仏塔に往詣して、仏像を礼拝し、一の宝像の厳顕にして観ずべきを見る礼し已りて、諦かに視、偈を説いて讃嘆せり。後の時、命終りしに、悉く東方の宝威徳上王仏の国に生れ、大蓮花の中に結跏趺坐して、忽然として化生せり。これより已後、恒に仏に値ひたてまつることを得、諸仏の所に於て、浄く梵行を修し、念仏三昧を得たり。三昧を得已りしとき、仏為に授記したまひ、十方面に於ておのおの成仏することを得たり。東方の善徳仏とは則ちわが身これなり。東南方の無憂徳仏、南方の栴檀徳仏、西南方の宝施仏、西方の無量明仏、西北方の華徳仏、北方の相徳仏、東北方の三乗行仏、上方の広衆徳仏、下方の明徳仏、かくの如き十仏は、過去に塔を礼し、像を観じ、一偈もて讃嘆せしに由りて、今、十方に於ておのおの成仏を得たり」と。この語を説き已りて、釈迦文仏を問訊したまへり。既に問訊し已りて、大光明を放ち、おのおの本国に還りたまへり。[p240]
と。また云く、[p240]
四仏世尊は、空より下りて釈迦仏の床に坐し、讃へて言はく、「善いかな、善いかな。乃ち能く未来の時の濁悪の衆生の為に、三世の仏の白毫の光相を説いて、もろもろの衆生をして罪咎を滅することを得しめたまふ。所以はいかん。わが昔曾を念ふに、空王仏の所にて出家して道を学べり。時に四の比丘あり。共に道学となりて、仏の正法を習ひしに、煩悩、心を覆ひ、堅く仏法の宝蔵を持つことあたはず、不善の業多くして、当に悪道に堕せんとす。空中に声あり、比丘に語りて言く、「空王如来はまた涅槃したまひ、汝の犯せし所を救ふ者なしと謂ふといへども、汝等、今塔に入りて像を観たてまつるべし。仏の在世と等しくして異りあることなけん」と。我、空の声に従ひて塔に入り、像の眉間の白毫を観て、即ちこの念を作せり、「如来在世の光明色身は、これとなんぞ異らん。仏の大人相、願はくは、わが罪を除きたまへ」と。この語を作し已りて、大山の崩るるが如く五体を地に投げて、もろもろの罪を懺悔せり。これより已後、八十億阿僧祇劫、悪道に堕せず、生々に常に十方の諸仏を見たてまつり、諸仏の所に於て甚深の念仏三昧を受持せり。三昧を得已りしとき、諸仏現前して、我に記別を授けたまへり。東方妙喜国の阿ナ仏は、即ち第一の比丘これなり。南方歓喜国の宝相仏は、即ち第二の比丘これなり。西方極楽国の無量寿仏は、第三の比丘これなり。北方蓮華荘厳国の微妙声仏は、第四の比丘これなり」と。[p240-241]
時に四如来、おのおの右の手を申べて、阿難の頂を摩で、告げて言はく、「汝、仏の語を持ちて、広く未来のもろもろの衆生の為に説け」と。三たびこれを説き已りて、おのおの光明を放ち、本国に還帰したまへり。[p241]
と。また云く、[p242]
財首菩薩、〔仏に〕白して言さく、「世尊。我、過去無量世の時を念ふに、仏世尊おはしまして、また釈迦牟尼と名づく。かの仏の滅後に一の王子あり、名づけて金幢と曰へり。ュ慢邪見にして、正法を信ぜず。知識の比丘あり、定自在と名づけしが、王子に告げて言く「世に仏像あり、衆宝もて厳飾せり。暫く塔に入りて、仏の形像を観たてまつるべし」と。時にかの王子、善友の語に随ひ、塔に入りて像を観たてまつり、像の相好を見て、比丘に白して言さく、「仏の像の端厳なること、なほかくの如し。いはんや仏の真身をや」と。比丘、告げて言く、「汝、今像を見たてまつれり。礼することあたはずは、当に南無仏と称ふべし」と。この時、王子、合掌し恭敬して、南無仏と称へ、宮に還りて、念を繋けて塔中の像を念じたるに、即ち後夜に於て、夢に仏像を見たてまつる。仏像を見たてまつりしが故に、心大いに歓喜し、邪見を捨離して、三宝に帰依したてまつる。寿命の随に終りしも、前に塔に入りて南無仏と称へし因縁の功徳に由りて、九百万億那由他の仏に値ひ、甚深の念仏三昧を逮得せり。三昧力の故に、諸仏現前して、そが為に記を授けたまへり。これより已来、百万阿僧祇劫にわたり、悪道に堕せず、乃至、今日、甚深の首楞厳三昧を獲得せり。その時の王子は、今の我、財首これなり」と。[p242]
と。また云く、[p242]
仏言はく、「我、賢劫のもろもろの菩薩とともに、曾て過去の栴檀窟仏の所に於て、この諸仏の色身・変化の観仏三昧海を聞けり。この因縁の功徳力を以ての故に、九百万億阿僧祇劫の生死の罪を超越して、この賢劫に於て次第に成仏せり。<乃至> かくの如く、十方の無量の諸仏も皆この法に由りて三菩提を成じたまへり」と。[p242-243]
と。迦葉経に云く、[p243]
「昔、過去久遠阿僧祇劫に、仏の世に出でたまへるあり。号して光明と曰へり。涅槃に入りたまひし後、一の菩薩あり。大精進と名づく。年始めて十六、婆羅門種にして、端正なること比なし。一の比丘ありて、白畳の上に於て、仏の形像を画き、持ちて精進に与ふ。精進、像を見て、心大いに歓喜し、かくの如き言を作さく「如来の形像すら妙好なること、乃ちしかり。いはんやまた仏の身をや。願はくは、我も未来にまたかくの如き妙なる身を成就することを得ん」と。言ひ已りて思念すらく、「我もし家にあらば、この身は得るこ轤ゥらん」と。即ち父母に啓して、哀みを求め、出家せんとせしに、父母、答へて言く、「我、今年老いて、ただ汝一子あるのみ。汝もし出家せば、我等当に死すべし」と。子、父母に白さく、「もし我を聴したまはずは、我、今日より飲まず食はず、床座に昇らず、また言説せず」と。この誓を作し已り、一日食はずして、乃ち六日に至る。父母・知識、八万四千のもろもろのl女等、同時に悲泣して、大精進を礼し、尋いで出家を聴せり。既にして出家することを得たれば、像を持ちて山に入り、草を取りて座となし、画像の前にありて結跏趺坐し、一心に諦かに観ずらく、「この画像は如来に異らず。像は覚にあらず知にあらず。一切の諸法も亦またかくの如し。相なく、相を離れ、体性空寂なり」と。この観を作し已り日夜を経て、五通を成就し、四無量を具足し、無碍弁を得、普光三昧を得て、大光明を具せり。浄天眼を以てして、東方の阿僧祇の仏を見、浄天耳を以てして、仏の所説を聞いて、悉く能く聴受せり。七月を満足するまで、智を以て食となし、一切の諸天、花を散らして供養せり。山より出でて村落に来至し、人の為に法を説くに、二万の衆生、菩提心を発し、無量阿僧祇の人、声聞・縁覚の功徳に住し、父母・親眷も皆、不退の無上菩提に住したり」と。[p243-244]
仏、迦葉に告げたまはく、「昔の大精進は、今のわが身これなり。この観像に由りて、今、成仏を得たり。もし人ありて、能くかくの如き観を学ばば、未来には必ず当に無上道を成ずべし」と。[p244]
と。譬喩経の第二に云く、[p244]
昔、比丘あり。その母を度せんと欲せしに、母已に命過れり。便ち道眼を以て、天上・人中・m狩・薜茘の中に求索するに、了にこれを見ず。泥黎を観るに、母の中にあるを見たり。懊nし悲哀して、広く方便を求め、その苦を脱かんと欲す。時に辺境に王あり。父を害して国を奪へり。比丘、この王の命、余すところ七日ありて、罪を受くるの地は、比丘の母と同じく一処にありといふことを知り、夜の安靖なる時、王の寝処に到り、壁を穿ちて半身を現せり。王、怖れて刀を抜いて頭を斫る頭即ち地に落つるに、その処故の如し。これを斫ること数反、化の頭、地に満つれども、比丘は動かず。王の意乃ち解け、その非常なることを知り、叩頭して過を謝せり。比丘言く、「恐るることなかれ、怖るることなかれ。相度せんと欲せしのみ。汝、父を害して国を奪ひしやいなや」と。対へて曰く、「実にしかり。願はくは慈救せられよ」と。比丘曰く、「大功徳を作すとも、恐らくは相及ばざらん。王、当に南無仏と称すべし。七日絶えざれば、便ち罪を免るることを得ん」と。重ねて、これに告げて曰く、「慎みてこの法を忘るることなかれ」と。即便ち飛び去りぬ。王便ち手を叉へて一心に南無仏と称説すること、昼夜懈らず、七日にして命終りぬ。魂神、泥黎の門に向ひて南無仏と称せしに、泥黎の中の人、仏の音声を聞いて、皆一時に南無仏と言ひしかば、泥黎即ち冷めぬ。比丘、為に法を説き、比丘の母と王と、及び泥黎の中の人、皆度脱することを得、後に大いに精進して、須陀ッ道を得たり。[p244-245]
と。<已上、諸文の略抄> 優婆塞戒経に云く、[p245]
善男子、我本往、邪見の家に堕し、惑網自ら我を蓋へり。我、その時に於て、名を広利と曰へり。妻は名女にして、精進勇猛にして度脱せしむること無量、十善もて化導せり。。我、その時に於て、心に殺猟を生じ、酒肉を貪嗜し懶惰懈怠にして精進することあたはず。妻、時に我に語るらく、「その猟殺を止め、戒めて酒肉を断ち、勤めて精進を加へなんには、地獄の苦悩の患を脱れ、天宮に上生して、一処を与にすることを得ん」と。我、その時に於ても殺心止まず。酒肉の美味は割捨することあたはず、精進の心は懶惰にして前まざれば、天宮は意を息めて、地獄の分を受けたり。我、その時に於て、聚落の内に居し、僧伽藍に近かりしかば、しばしばモ鐘を聞けり。妻、我に語りて言く、「事々あたはずは、モ鐘の声を聞くとき、三たび弾指して一たび仏を称へよ。身を斂めて自ら恭み、ュ慢を生ずることなかれ。もしそれ夜半なりとも、この法を廃することなかれ」と。我即ちこれを用ひて、また捨て失ふことなかりき。十二年を経て、妻命終りて、ヒ利天に生れ、却きて後三年にして、我もまた寿尽きたり。断事に経、至りしに、我を判じて罪に入れ、地獄の門に向はしむ。門に入らんとする時に当りて、鐘の三声を聞く。我即ち住立して、心に歓喜を生じ、愛楽して厭はず。法の如く三たび弾指して、長声に仏を唱へたり。声に皆慈悲ありて、梵音朗かに徹る。主事聞き已り、心甚だ愧じ感じて、「これ真の菩薩なり、いかんぞ錯ちて判きしや」と。即ち遣追・還送して、天上に往かしむ。既に往き、到り已りて、五体を地に投げ、わが妻を礼敬して、白して言さく、「大師、幸にして大恩を義けて、如済抜せらる。乃至、菩提まで教勅に違はじ」と。[p245-246]
と。<已上>[p246]
また震旦には、東晋より已来、唐朝に至るまで、阿弥陀仏を念じて浄土に往生せし者、道俗・男女、合せて五十余人ありて、浄土論并に瑞応伝に出でたり<僧廿三人、尼六人、沙弥二人、在家男女合せて二十四人> わが朝にも、往生せる者、またその数あり。具さには慶氏の日本往生記にあり。いかにいはんや、朝市にありて徳を隠し、山林に名を逃れたる者の、独り修して独り去る、誰か知ることを得んや。[p246]
問ふ。下々品の人と五百の釈子とは、臨終に同じく念じたるに、昇沈なんぞ別なるや。[p247]
答ふ。群疑論に会して云く、[p247]
五百の釈子は、ただ父の教に依りて一たび仏を念じたるのみにて、菩提心を発し浄土に生れんことを求めて慇懃に慚愧せざりき。また彼は至心ならず、またただ一念にして十念を具せざるが故なり。[p247]
と。<略抄>[p247]
第七に、悪趣の利益を明さば、大悲経の第二に云く、[p247]
もしまた人ありて、ただ心に仏を念じ、一たびも敬信を生ぜば、我説かく、「この人は、当に涅槃の果を得て、涅槃の際を尽すべし」と。阿難。且く人中の念仏の功徳は置く。もし畜生ありて、仏世尊に於て能く念を生ぜば、我また、「その善根の福報は、当に涅槃を得べし」と説く。[p247]
と。[p247]
問ふ。何等かこれなるや。[p247]
答ふ。同じ経の第三に、仏、阿難に告げたまはく、[p247]
過去に大商主ありき。もろもろの商人を将ゐて大海に入しとき、その船卒に摩竭大魚の為に、来りて呑み噬まれんとす。その時、商主及びもろもろの商人、心驚き毛竪ちて、おのおの皆悲泣せり、「ああ奇しきかな。かの閻浮提の、かくの如く可楽にして、かくの如く希有なるは。世間の人身はかくの如く得難きに、我いま当に父母と離別せんとす。姉妹・婦児・親戚・朋友とも別離して、我更に見ざらん。また仏・法・衆僧をも見たてまつることを得ざらん」と。極めて大いに悲哭す。その時、商主、右の肩を偏袒し、右の膝を地に著けて、船の上に住り、一心に念仏し、合掌礼拝して、高声に唱へて、「諸仏の、大無畏を得たまへる者、大慈悲なる者、一切衆生を憐愍したまふ者に南無したてまつる」と言へり。かくの如く三たび称へし時、もろもろの商人も亦また同時にかくの如く三たび称へたり。時に、摩竭魚、仏の名号と礼拝の音声とを聞いて、大愛敬を生じ、聞いて即ち口を閉ぢたり。その時、商主及びもろもろの商人、皆悉く安穏に、魚の難を免るることを得たり。時に、摩竭魚、仏の音声を聞いて、心に喜楽を生じ、更に余のもろもろの衆生をも食せざりき。これに因りて、命終りて人中に生るることを得、その仏の所に於て、法を聞き、出家して、善知識に近づいて、阿羅漢を得たり。阿難。汝、かの魚を観よ。畜生道に生れながら、仏の名を聞くことを得、〔仏の名を聞き〕已りて、乃至、涅槃せり。いかにいはんや、人ありて、仏の名を聞くことを得、正法を聴聞せんをや。[p247-248]
と。<略抄> また菩提処胎経の八斎品に云く、[p248]
竜の子、金翅鳥の与に、しかも頌を説いて曰く、[p248]
殺あこれ不善の行なり 寿命を減じて中夭す 身は朝露の虫の如し 光を見れば則ち命終ゆ 戒を持ちて仏語を奉ずれば 長寿天に生るることを得 累劫に福徳を積まば 畜生道に堕せず 今身は竜の身たるも 戒徳清明に行じ 六畜の中に堕せりといへども 必ず自ら済度せんことを望まん[p248-249]
と。この時、竜の子、この頌を説きし時、竜子・竜女、、心意開解せり。寿終りし後には、皆当に阿弥陀仏の国に生るべし。[p249]
と。<已上は、八斎戒の竜子なり> 余の趣も、仏語を信ぜんには、浄土に生るること、これに准ぜよ。地獄の利益は、前の国王の因縁、并に下の麁心の妙果の如し。もろもろの余の利益は、下の念仏の功徳の如し。[p249]
大文第八に、念仏の証拠とは、問ふ、一切の善業は、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故に、ただ念仏の一門のみを勧むるや。[p250]
答ふ。今、念仏を勧むるは、これ余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず。ただこれ、男女・貴賎、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願ひ求むるに、その便宜を得ること、念仏にしかざればなり。故に木経に云く、[p250]
難陀国の波瑠璃王、使を遣して、仏に白して言さく、「ただ願はくは、世尊、特に慈愍を垂れて、我に要法を賜ひ、我をして日夜に修行するを得易く、未来世の中にもろもろの苦を遠離せしめたまへ」と。仏、告げて言はく、「大王、もし煩悩障・報障を滅せんと欲はば、当に木子一百八を貫いて、以て常に自ら随ふべし。もしは行、もしは坐、もしは臥、恒に当に心を至して意を分散することなく、仏陀・達磨・僧伽の名を称へて乃ち一の木子を過るべし。かくの如くして、もしは十、もしは廿、もしは百、もしは千、乃至、百千万せよ。もし能く廿万遍を満すまで、身心乱れず、もろもろの諂曲なくは、命を捨ててのち、第三の炎魔天に生るることを得、衣食自然にして、常に安楽を受けん。もしまた能く一百万遍を満さば、当に百八の結業を除き断つことを得て、生死の流に背き、涅槃の道に趣いて、無上の果を獲べし」と。[p250]
と。<略抄。感禅師もまたこれに同じ> いはんやまた、もろもろの聖教の中には、多く念仏を以て往生の業となす。その文、甚だ多し。略して十の文を出さん。[p250-251]
一に、占察経の下巻に云く、[p251]
もし人、他方の現在の浄国に生れんと欲はば、応当にかの世界の仏の名字に随ひ、意を専らにして誦念すべし。一心不乱にして、上の如く観察せば、決定してかの仏の浄国に生るることを得、善根増長して、速かに不退を成ぜん。[p251]
と。<「上の如く観察す」とは、地蔵菩薩の法身及び諸仏の法身と、己が自身と平等無二なれば、不生不滅・常楽我浄にして、功徳円満なりと観ずるなり。また己身は無常にして、幻の如く厭ふべし等と観ずるなり>[p251]
二に、双観経の三輩の業には浅深ありといへども、しかも通じて皆、「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と云へり。[p251]
三に、四十八願の中に、念仏門に於て別して一願を発して云く、「乃至、十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」と。[p251]
四に、観経に〔云く、〕[p251]
極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得。[p251]
と。五に、同じ経に云く、[p251]
もし至心に西方に生れんと欲せん者は、まづ当に一の丈六の像の、池水の上に在しますを観ずべし。[p251]
と。六に同じ経に云く、[p251]
光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず。[p251]
と。七に、阿弥陀経に云く、[p252]
少善根・福徳の因縁を以て、かの国に生るることを得べからず。もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持すること、もしは一日<乃至>もしは七日、一心にして乱れずは、その人の命終の時に臨んで、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とともに現じて、その前に在しまさん。この人終る時、心、顛倒せずして即ち往生することを得ん。[p252]
と。八に、般舟経に云く、[p252]
阿弥陀仏の言はく、「わが国に来生せんと欲はば、常に我を念ぜよ。しばしば、当に専念して休息あることなかるべし。かくの如くせば、わが国に来生することを得ん」と。[p252]
と。九に、鼓音声経に云く、[p252]
もし四衆ありて、能く正しくかの仏の名号を受持せば、この功徳を以て、終らんとする時に臨んで、阿弥陀仏、即ち大衆とともにこの人の所に往き、それをして見ることを得しめたまふに、見已りて尋いで生る。[p252]
と。十に、往生論には、かの仏の依正の功徳を観念することを以て、往生の業となす。<已上>[p252]
この中、観経の下々品と阿弥陀経と鼓音声経とは、ただ名号を念ずるを以て往生の業となせり。いかにいはんや、相好・功徳を観念せんをや。[p252]
問ふ。余の行、いづくんぞ勧信の文なからんや。[p252]
答ふ。その余の行法は、かの法の種々の功能を明せるに因みて、その中に自ら往生の事を説けるなり。直ちに往生の要を弁じて、多く仏を念ぜよと云へるが如きにはあらず。いかにいはんや、仏自ら既に「当に我を念ずべし」と言ひたまへるをや。また、仏の光明は余の行人を摂取すとは云はざるなり。これ等の文、分明なり。なんぞ重ねて疑を生ぜんや。[p252-253]
問ふ。諸経の所説は機に随ひて万品なり。なんぞ管見を以て一文を執するや。[p253]
答ふ。馬鳴菩薩の大乗起信論に云く、[p253]
また次に、衆生の、初めてこの法を学ばんとするに、その心怯弱にして、信心の成就すべきこと難きを懼畏して、意退せんと欲する者は、当に知るべし、如来に勝方便ありて信心を摂護したまふことを。謂く、専心に念仏する因縁を以て、願の随に他方の仏土に往生することを得るなり。修多羅に、「もし人、専ら西方の阿弥陀仏を念じて、作る所の善業もて廻向して、かの世界に生れんと願ひ求むれば、即ち往生することを得」と説くが如し。[p253]
と。<已上> 明かに知んぬ、契経には、多く念仏を以て往生の要とせることを。もししからずは、四依の菩薩は即ち理尽にはあらざらん。[p253]
大文第九に、往生の諸行を明さば、謂く、極楽を求むる者は、必ずしも念仏を専らにせず。すべからく余行を明しておのおのの楽欲に任すべし。これにまた二あり。初に、別して諸経の文を明し、次に、惣じて諸業を結ぶ。[p254]
第一に、諸経を明さば、四十華厳経の普賢願・三千仏名経・無字宝篋経・法華経等のもろもろの大乗経、随求・尊勝・無垢浄光・如意輪・阿o力迦・不空羂索・光明・阿弥陀、及び竜樹所感の往生浄土等の呪なり。これ等の顕密の諸大乗の中に、皆受持・読誦等を以て、往生極楽の業とするなり。[p254]
大阿弥陀経に云く、[p254]
当に斎戒し、一心清浄にして昼夜念ずるに当りては、阿弥陀仏の国に生れんと欲すべし。十日十夜、断絶せざれば、我皆これを慈愍して悉く阿弥陀仏の国に往生せしめん。殊にもししかすることあたはずは、自ら思惟してつらつら校計せよ。身を度脱せんと欲はん者は、当に念を絶つべからず。愛を去り、家事を念ふことなかれ。婦女と床を同じくすることなかれ。自ら身心を端正にして、愛欲を断ち、一心に斎戒清浄にして、意を至して阿弥陀仏の国に生れんと念じ、一日一夜、断絶せざれば、寿終りて皆その国に往生し、七宝の浴池の蓮花の中にありて化生せん。[p254]
と。<この経は持戒を以て首となす> 十往生〔阿〕弥陀仏国経に云く、[p254]
吾今、汝が為に説かん。十の往生あり。いかんが十の往生なる。[p255]
一には、身を観じ、正念にして、常に歓喜を懐き、飲食・衣服を以て仏及び僧に施さば、阿弥陀仏の国に往生す。二には、正念にして、世の妙なる良薬もて一の病める比丘及以び一切の衆生に施さば、阿弥陀仏の国に往生す。三には、正念にして、一の生命をも害せず、一切に慈悲せば、阿弥陀仏の国に往生す。四には、正念にして、師の所に従ひ、戒を受けて、浄慧もて梵行を修し、心に常に喜を懐かば、阿弥陀仏の国に往生す。五には、正念にして、父母に孝順し師長を敬重して、ュ慢の心を懐かずは、阿弥陀仏の国に往生す。六には、正念にして、僧坊に往詣し塔寺を恭敬して、法を聞いて一義をも解らば、阿弥陀仏の国に往生す。七には、正念にして、一日一宿の中、八戒斎を受持し、一日一宿の中、受持して一をも破らずは、阿弥陀仏の国に往生す。八には、正念にして、もし能く斎月・斎日の中、房舎を遠離し、常に善き師に詣づれば、阿弥陀仏の国に往生す。九には、正念にして、常に能く浄戒を持ち、勤修して禅定を楽ひ、法を護りて悪口せず、もし能くかくの如く行ぜば、阿弥陀仏の国に往生す。十には、正念にして、もし無上道に於て誹謗の心を起さず、精進して浄戒を持ち、また無智の者を教へてこの経法を流布し、無量の衆〔生〕を教化せんに、かくの如きもろもろの人等は悉く皆、阿弥陀仏の国に往生することを得。[p255]
と。弥勒問経に云く、[p255]
仏の説きたまふ所の如く、阿弥陀仏の功徳・利益を願ひ、もし能く十念相続して不断に仏を念ずる者は、即ち往生することを得。当にいかんが念ずべきや。仏の言はく、「およそ十念あり。何等をか十となす。一には、もろもろの衆生に於て、常に慈心を生じてその行を毀らず。もしその行を毀らば終に往生せず。二には、もろもろの衆生に於て、常に悲心を起して残害の意を除く。三には、護法の心を発して身命を惜まず、一切の法に於て誹謗を生ぜず。四には、忍辱の中に於て決定の心を生ず。五には、深心清浄にして利養に染まず。六には、一切智の心を発して日々に常に念じ、廃忘あることなし。七には、もろもろの衆生に於て、尊重の心を起し、我慢の心を除き、謙下して言説す。八には、世の談話に於て味著を生ぜず。九には、覚意に近づき、深く種々の善根の因縁を起して、閙・散乱の心を遠離す。十には、正念にして仏を観じ、もろもろの想を除去す」と。[p255-256]
と。宝積経の第九十二に、仏またこの十心を以て弥勒の問に答へたまへり。その中の第六の心に云く、「仏の種智を求め、一切の時に於て忘失する心なし」と。その余の九種は、文少しく異るといへども、意は前の経に同じ。ただ結びの文に云く、「もし人、この十種の心の中に於て、一心をも成ずるに随せて、かの仏の世界に往生せんと楽欲せんに、もし生るることを得ずといはば、この処あることなけん」と云々。明らけし、必ずしも十を具して、往生の業となすにはあらざるなり。[p256]
観経に云く、[p256]
かの国に生れんと欲する者は、当に三福を修すべし。一には、父母に孝養し、師長に奉持し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二には、三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三には、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくの如き三事を名づけて浄業となす。仏、韋提希に告げたまはく、「汝、今知るやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在の三世の、諸仏の浄業の正因なり」と。[p256-257]
と。また云く、[p257]
上品上生とは、もし衆生ありて、かの国に生れんと願はん者は、三種の心を発して即便ち往生す。何等をか三となす。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生る。また三種の衆生ありて、当に往生を得べし。何等をか三となす。一には、慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二には、大乗方等経典を読誦す。三には、六念を修行し、廻向発願してかの国に生れんと願ふ。[p257]
この功徳を具すること、一日乃至七日にして、即ち往生を得。[p257]
上品中生とは、必ずしも方等経典を受持せざれども、善く義趣を解り、第一義に於て心驚動せず、深く因果を信じて大乗を謗らず。この功徳を以て、廻向して極楽国に生れんと願求す。[p257]
上品下生とは、また因果を信じ大乗を謗らず。ただ無上道心を発して、この功徳を以て、廻向して極楽に生れんと願求す。[p257]
中品上生とは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、もろもろの戒を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからん。この善根を以て、廻向して願求す。中品中生とは、もし衆生ありて、もしは一日一夜、八戒斎を受け、もしは一日一夜、沙弥戒を持ち、〔もしは〕一日一夜、具足戒を持ち、威儀欠くることなし。この功徳を以て、廻向して願求す。[p257-268]
中品下生とは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ふ。[p258]
下品上生とは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せずといへども、かくの如き愚人、多くもろもろの悪法を造りて慚愧ることなけん。臨終に十二部経の首題の名字を聞き、及び合掌して南無阿弥陀仏と称ふ。[p258]
下品中生とは、或は衆生ありて、五戒・八戒及び具足戒を毀り犯さん。かくの如き愚人、命終らんとする時、地獄の衆火、一時に倶に至らん。善知識の、大慈悲を以て、為に阿弥陀仏の十力・威徳を説き、広くかの仏の光明の神力を説き、また戒・定・慧解脱・知見を讃ふるに遇はん。この人、聞き已りて、八十億劫の生死の罪を除く。[p258]
下品下生とは、或は衆生ありて、不善業を作り五逆・十悪、もろもろの不善を具せん。かくの如き悪人、悪業を以ての故に、応に悪道に堕すべし。命終の時に臨みて、善知識に遇ひ、仏を念ずることあたはずといへども、ただ至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無無量寿仏と称へん。仏の名を称ふるが故に、念々の中に於て八十億劫の生死の罪を除く。[p258]
と。双観経の三輩の業もまたこれを出でず。また観経には、十六観を以て往生の因となせり。宝積経には、仏前の蓮華に化生するに、四の因縁あることを説く。偈に云く、[p258-259]
花香をば仏及び支提に散ずると 他を害せざると、并に像を造ると 大菩提に於て深く信解するとは 蓮華に処して仏前に生るることを得ん。[p259]
と。<已上> 余は、繁く出さず。[p259]
第二に、惣じて諸業を結ぶとは、慧遠法師の、浄土の因要を出せるに、四あり。[p259]
一には、観を修して往生す。十六観の如し。二には、業を修して往生す。三福業の如し。三には、心を修して往生す。至誠等の三心なり。四には、帰向して往生す。浄土の事を聞いて帰向し、称念し、讃歎する等なり。[p259]
と。[p259]
今、私に云く、諸経の行業は、惣じてこれを言はば、梵網の戒品を出でず、別してこれを論ぜば、六度を出でざるも、細しくその相を明さば、それ十三あり。一には財・法等の施、二には三帰・五戒・八戒・十戒等の多少の戒行、三には忍辱、四には精進、五には禅定、六には般若<第一義を信ずる等、これなり>、七には菩提心を発す、八には六念を修行す<仏・法・僧・施・戒・天を念ずるを、これを六念と謂ふ。十六想観もまたこれを出でず>、九には大乗を読誦す、十には仏法を守護す、十一には父母に孝順し師長に奉事す、十二にはュ慢を生ぜず、十三には利養に染まざるなり。[p259]
大集月蔵分の偈に云く、[p259]
樹の菓繁るときは速かに自ら害るるが如く 竹・蘆の実を結ぶもまたかくの如し 騾の懐妊せば自ら身を喪ふが如く 無智にして利を求むるも亦また然り もし比丘ありて供養を得 利養を楽ひ求めて堅く著せば 世に於て更にかくの如きの悪なし 故に解脱の道をば得ざらしむ かくの如く利養を貪求する者は 既に道を得已らんもまたまた失はん[p260]
と。また仏蔵経に、迦葉仏の記して云く、[p260]
釈迦牟尼仏は多く供養を受くるが故に、法は当に疾く滅すべし。[p260]
と云々。如来にしてなほしかり。いかにいはんや凡夫をや。大象の窓を出づるに、遂に一尾の為に碍へられ、行人の家を出づるに、遂に名利の為に縛らると。則ち知んぬ、出離の最後の怨は、名利より大なるものなきことを。ただ浄名大士は、身は家にあれども心は家を出で、薬王の本事は、塵寰を避けて雪山に居めり。今の世の行人もまた応にかくの如くなるべし。自ら根性を料りて、これに進止せよ。もしその心を制することあたはずは、なほすべからくその地を避くべし。麻中の蓬と屠辺の厩と、好悪いづれにか由るや。<仏蔵経を見て是非を知るべきなり>[p260]
大文第十に、問答料簡とは、略して十事あり。一には極楽の依正、二には往生の階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、六には麁心の妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、十には助道の人法なり。[p261]
第一に、極楽の依正とは、問ふ、阿弥陀仏の極楽浄土は、これいかなる身、いかなる土なるや。[p261]
答ふ。天台の云く、[p261]
応身の仏、同居の土なり。[p261]
と。遠法師の云く、[p261]
これ応身・応土なり。[p261]
と。綽法師の云く、[p261]
これ報仏にして報土なり。古旧当、相伝へて、皆「化土・化身なり」と云へるは、これ大いなる失となす。大乗同性経に依るに、云く、「浄土の中の成仏は悉くこれ報身なり。穢土の中の成仏は悉くこれ化身なり」と。またかの経に云く、「阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来等の、もろもろの如来の清浄なる仏刹にありて、現に道を得し者、当に道を得べき者、かくの如きの一切は皆これ報身の仏なり。何者か如来の化身なる。由し今日の踊歩健如来・魔恐怖如来等の如し」と。[p261]
と。<已上、安楽集>[p262]
問ふ。かの仏の成道したまひて、已に久しとせんや、いかん。[p262]
答ふ。諸経には多く「十劫」と云ひ、大阿弥陀経には「十小劫」と云ひ、平等覚経には「十八劫」と云ひ、称讃浄土経には「十大劫」と云ふ。邪正、知り難し。ただし双観経の、興師の疏には平等経を会して云く、「十八劫とは、それ小の字の、その中の点を闕きしならん」と。[p262]
問ふ。未来の寿はいくばくぞや。[p262]
答ふ。小経に云く、[p262]
無量無辺阿僧祇劫なり。[p262]
と。観音授記経に云く、[p262]
阿弥陀仏の寿命は、無量百千億劫にして、当に終極あるべし。仏涅槃の後、正法の世に住まること、仏の寿命に等しからん。善男子・阿弥陀仏の正法滅して後、中夜分を過ぎて明相出づる時、観世音菩薩、菩提樹の下に於て等正覚を成じ、普光功徳山王如来と号けん。その仏の国土には、声聞・縁覚の名あることなし。その仏の国土をば、衆宝普集荘厳と号くべし。普光功徳如来の涅槃したまひ、正法の滅して後、大勢至菩薩、即ちその国に於て成仏し、善住功徳宝王如来と号けん。国土・光明・寿命、乃至、法の住まること、等しくして異りあることなけん。[p262]
と。[p262]
問ふ。同性経には「報身」と云ひ、授記経には「入滅」と云ふ。二経の相違、諸師いかんが会するや。[p263]
答ふ。綽禅師、授記経を会して云く、[p263]
これはこれ報身の、穏没の相を現したまふにして、滅度にはあらざるなり。[p263]
と。迦才、同性経を会して云く、[p263]
浄土の中の成仏を判じて報となすは、これ受用の事身にして、実の報身にはあらざるなり。[p263]
と。[p263]
問ふ。いづれをか正とするや。[p263]
答ふ。迦才の云く、[p263]
衆生の起行に既に千殊あれば、往生して土を見るにもまた万別あるなり。もしこの解を作さば、もろもろの経論の中に、或は判じて報となし、或は判じて化となすこと、皆妨難なきなり。ただし、諸仏の修行は、具さに報・化の二土を感ずることを知るべし。摂論に「加行は化を感じ、正体は報を感ず」といへるが如し。もしは報、もしは化、皆衆生を成就せんと欲するなり。これ則ち、土は虚しく設けず、行は空しく修せざれば、ただ仏語を信じて、経に依りて専ら念ずれば、即ち往生することを得。またすべからく報と化と図度すべからざるなり。[p263]
と。<已上> この釈、善し。すべからく専ら称念すべし。労はしく分別することなかれ。[p263]
問ふ。かの仏の相好、何を以てか同じからざる。[p264]
答ふ。観仏経に、諸仏の相好を説いて云く、[p264]
人の相に同ずるが故に三十二と説き、諸天に勝るが故に八十好と説く。もろもろの菩薩の為には、八万四千のもろもろの妙相好と説く。[p264]
と。<已上> かの仏もこれに准ぜよ。[p264]
問ふ。双観経に云く、[p264]
かの仏の道樹は高さ四百万里なり。[p264]
と。宝積経に云く、[p264]
道樹の高さ十六億由旬なり。[p264]
と。十往生経に云く、[p264]
道樹の高さ四十万由旬にして、樹下に師子座あり、高さ五百由旬なり。[p264]
と。観経に云く、[p264]
仏の身量は六十万億那由他恒河沙由旬なり。[p264]
と云々。樹・座と仏身と、なんぞ相称はざるや。[p264]
答ふ。異解不同なり。或は釈すらく、「仏の境界は大小相碍へず」と。或は釈すらく、「応仏に寄せて樹量を説き、真仏に寄せて身量を説く」と。また多くの釈あり。具さに述ぶべからず。[p264]
問ふ。華厳経に云く、[p264]
娑婆世界の一劫を極楽国の一日一夜となす、等。[p265]
と云々。これに由りて当に知るべし、上品中生の宿を逕て花開くは、この間の半劫に当り、乃至、下々生の十二劫は、この間の恒沙塵数劫に当れり。なんぞ極楽と名づけん。[p265]
答ふ。たとひ恒劫を経るまで蓮花開かざらんも、既に微苦なし。あに極楽にあらざらん。双観経に云ふが如し。[p265]
その胎生の者の処する所の宮殿、或は百由旬、或は五百由旬にして、おのおのその中に於てもろもろの快楽を受くること、ヒ利天の如し。[p265]
と。<已上> ある師の云く、[p265]
胎生は、これ中品と下品となり。[p265]
と。ある師の云く、[p265]
九品には摂せざる所なり。[p265]
と。異説ありといへども快楽は別ならず。いかにいはんや、かの九品に逕る所の日時を判ずること、諸師不同なるをや。懐感・智憬等の諸師、かの国土の日夜を劫数と許すは、誠に責むる所に当れり。[p265]
ある師の云く、[p265]
仏は、この土の日夜を以て、これを説いて、衆生をして知らしめたまふなり。[p265]
と云々。今謂く、後の釈、失なし。且く四例を以て助成せん。[p265]
一には、「かの仏の身量、若干由旬」といふは、かの仏の指分を以て、畳ねてかの由旬となせるにはあらず。もししからずは、応に須弥山の如き長大の人、一の毛端を以て、その指節とするに似たるべし。故に知んぬ、仏の指の量を以て、仏の身を長短を説きしにはあらざることを。なんぞ必ずしも、浄土の時剋を以て花の開く遅速を説かんや。[p265-266]
二には、尊勝陀羅尼経に説くが如し。[p266]
ヒ利天上の善住天子、空の声の告ぐるを聞くに、「汝、当に七日にして死すべし」と。時に天帝釈、仏の教勅を承けて、かの天子をして七日勤修せしむるに、七日を過ぎて後、寿命延ぶることを得たり。[p266]
と。<取意> これはこれ、人中の日夜もて説けるなり。もし天上の七日に拠らば、人中の七百歳に当り、仏世の八十年の中にて、その事を決了すべからず。九品の日夜もまたこれに同じかるべし。[p266]
三には、法護所訳の経に云く、[p266]
胎生の人は、五百歳を過ぎて仏を見たてまつることを得。[p266]
と。平等覚経に云く、[p266]
蓮華の中に化生して、城の中にあり。この間の五百歳に於て、出づること得るあたはず。[p266]
と。<取意> 憬興等の師は、この文を以て、この方の五百歳なりと証せり。今云く、かの胎生の歳数、既にこの間に依りて説けりとせば、九品の時剋、何の別義ありてか、彼に同ぜざらんや。[p266]
四には、もしかの界に拠りて九品を説けりとせば、上品中生の一宿、上品下生の一日夜は、即ちこの界の半劫と一劫とに当らん。もししかりと許さば、胎生の疑心はなほ娑婆の五百歳を逕て、しかも速かに仏を見たてまつることを得んに、上品の信行者、あに半劫・一劫を過ぎて、しかも遅く蓮華を開かんや。この理あるが故に、後の釈は失なし。[p267]
問ふ。もしこの界の日夜の時剋を以てかの相を説けりとせば、かの上々品は、かの国に生れ已りて、応に即に無生法忍を悟るべからず。しかる所以は、この界の少時の修行を勝となし、かの国の多時の善根を劣となせばなり。既にしからば、上々品の人、この世界に於て、一日より七日に至るまで、三福業を具足してなほ無生法忍を証することあたはざるに、いかんぞ、かしこに生れて、法を聞いて即に悟らん。故に知んぬ、かの国土の長遠の時剋を経て、無生忍を悟るといふことを。しかれば、かしこに約して、即に悟ると名づくるも、ここに望むれば、即ち億千歳なり。或はいふべし、上々人は、必ずこれ方便後心の行、円満せる者なりと。もししからずは、諸文桙楯せん。[p267]
答ふ。いまだ知らず、かの国の多善は劣り、この界の少善は勝るといふことを。[p267]
問ふ。双観経に説かく、[p267]
ここに於て、広く徳本を植ゑ、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・・智慧にして、転た相教化し、善を立て意を正しくして、斎戒清浄なること、一日一夜すれば、無量寿仏国にありて、善をなすこと百歳するに勝れり。所以はいかん。かの仏の国土は、無為自然にして皆衆善を積み、毛髪ほどの悪もなければなり。ここに於て、善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国中に於て、善をなすこと千歳するに勝れり。[p267-268]
と。<已上> これその勝劣なり。[p268]
答ふ。二界の善根は、剋対せばしかるべし。しかれども、仏に値ひたてまつる縁は勝れたれば、速かに悟るに失なし。或はこの経は、ただ修行の難易を顕はせるものにして、善根の勝劣を顕はせるにはあらず。譬へば、貧賎の一銭を施すは称美すえしといへども、しかも衆事を弁ぜざるに、富貴の千金を捨つるは称むべからずといへども、しかも能く万事を弁ずるが如し。二界の修行も亦またかくの如し。金剛般若経に云ふが如し。[p268]
仏世に信解するは、いまだ勝れたりとなすに足らず。滅後をば勝れたりとなす。[p268]
と。或は余の義あり。委曲することあたはず。[p268]
問ふ。娑婆の行因に随ひて、極楽の階位に別あるが如く、所感の福報もまた別ありや。[p268]
答ふ。大都は別なきも、細分は差あり。陀羅尼集経の第二に云ふが如し。[p268]
もし人、香花・衣食等を以て供養せざれば、かの浄土に生るといへども、しかも香花・衣食等の種々の供養の報を得ず。[p268]
と。<この文、かの仏の本願に違ふ。更にこれを思択せよ> また玄一師と因法師とは同じく云く、[p268]
実に約して論ずれば、また勝劣あり。しかもその状相似たるが故に好醜なしと説く。[p268]
と。[p268]
問ふ。極楽世界は、ここを去ること幾ばくの処なるや。[p268]
答ふ。経に云く、[p269]
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽世界あり。[p269]
と。ある経に云く、[p269]
これより西方、この世界を去ること百千倶胝那由多の仏土を過ぎて仏世界あり。名づけて極楽と曰ふ。[p269]
と。[p269]
問ふ。二経、何が故に同じからざるや。[p269]
答ふ。論の智光の疏の意に云く、[p269]
倶胝と言ふは、ここには億となすなり。那由多とは、この間のpの数に当るなり。世俗に言く、十千を万と曰ひ、十万を億と曰ひ、十億を兆と曰ひ、十兆を経と曰ひ、十経をpと曰ふと。pは、なほこれ大数なり。百千倶胝とは、即ち十万億なり。億に四位あり。一には十万、二には百万、三には千万、四には万々なり。今億と言へるは即ちこれ万々なり。この義を顕さんが為に那由多を挙ぐるなり。[p269]
と。<已上> この釈、思ふべし。[p269]
問ふ。かの仏の化したまふ所はただ極楽のみとせんや、また余ありとせんや。[p269]
答ふ。大論に云く、[p269]
阿弥陀仏にもまた厳浄と不厳浄との土あること、釈迦牟尼の如し。[p269]
と。[p269]
問ふ。何等かこれなるや。[p270]
答ふ。極楽世界は即ちこれ浄土なり。しかれども、その穢土はいまだいづれの処なるかを知らず。ただ道綽等の諸師は、鼓音声経に説く所の国土を以てかの穢土となせり。かの経に云ふが如し。[p270]
阿弥陀仏は、声聞と倶なり。その国を号して清泰と曰ふ。聖王の住む所にして、その城の縦広十千由旬、中に刹利の種を充満せり。阿弥陀如来・応・正遍知の父を月上転輪聖王と名づけ、その母を名づけて殊勝妙顔と曰ひ、子を月明と名づけ、奉事の弟子を無垢称と名づけ、智慧の弟子を名づけて攬光と曰ひ、神足の精勤を名づけて大化と曰ふ。その時の魔王を名づけて無勝と曰ひ、提婆達多ありて、名づけて寂〔静〕と曰ふ。阿弥陀仏は、大比丘六万人と倶なり。[p270]
と。<已上>[p270]
問ふ。かの仏の化したまふ所は、ただ極楽・清泰の二国なりとするや。[p270]
答ふ。教文は、縁に随ひて且く一隅を挙ぐるのみ。その実処を論ずれば不可思議なり。華厳経の偈に云ふが如し。[p270]
菩薩はもろもろの願海を修行して 普く衆生の心の欲ふ所に随ふ 衆生の心行、広くして無辺なれば 菩薩の国土も十方に遍し[p270]
と。また云く、[p270]
如来は出現して十方に遍し 一々の塵の中に無量の土あり その中の境界もまた無量なり 悉く無辺無尽劫に住る[p270-271]
と。[p271]
問ふ。如来の化を施したまふは、事孤り起らず、要ず機縁に対す。何ぞ十方に遍ずるや。[p271]
答ふ。広劫に修行して無量の衆を成就したまふ。故にかの機縁もまた十方界に遍し。華厳の偈に云ふが如し。[p271]
往昔に勤修すること多劫海にして 能く衆生の深重の障を転ず 故に能く身を分けて十方に遍じ 悉く菩提樹王の下に現じたまふ[p271]
と。[p271]
第二に、往生の階位とは、問ふ、瑜伽論に、「三地の菩薩は方に浄土に生る」と云へるに、今、地前の凡夫・声聞を勧むるは何の意かあるや。[p271]
答ふ。浄土に差別あり。故に過あることなし。感師の釈して云へるが如し。[p271]
もろもろの経論の文に、浄土に生るることを説くは、おのおの一義に拠る。浄土には既に麁妙・勝劣あれば、生るるを得るにもまた上下階降あり。[p271]
と。<已上> また道暹律徳の云く、[p271]
三地の菩薩にして始めて報仏の浄土を見る。[p271]
と。[p271]
問ふ。たとひ報土にあらざらんも、惑業重き者、あに浄土を得んや。[p271]
答ふ。天台の云く、[p272]
無量寿仏の国は果報殊勝なりといへども、臨終の時、懺悔して念仏すれば、業障便ち転じて、即ち往生することを得。惑染を具すといへども、願力もて心を持たば、また居することを得るなり。[p272]
と。[p272]
問ふ。もし凡夫もまた往生することを得と許さば、弥勒問経をいかんが通会せん。経に云く、[p272]
仏を念ずるは凡愚の念にあらず。結使を雑へずして、弥陀仏の国に生るることを得。[p272]
と。<已上>[p272]
答ふ。西方要決に釈して云く、[p272]
娑婆の苦を知りて永く染界を辞せんとするは、薄浅にあらず。およそ当来に作仏して、意専ら広く、法界の衆生を度せんとす。この勝解あるが故に、愚にはあらざるなり。正念の時、結使眠伏するが故に、結使の念を雑へずと言ふなり。[p272]
と。<略抄> 意は、凡夫の行人の、この徳を具するを云ふなり。[p272]
問ふ。かの国の衆生は皆退転せずと。明かに知んぬ、これ凡夫の生るる処にあらざることを。[p272]
答ふ。言ふ所の不退とは必ずしもこれ聖の徳にあらず。要決に云ふが如し。[p272]
今、不退を明さば、その四種あり。十住毘婆沙に云く、「一には位不退。即ち因を修すること万劫なれば、また悪律儀の行に退堕するも生死に流転せず。二には行不退。已に初地を得れば利他の行退かず。三には念不退。八地已去は無功用にして、意に自在を得るが故に。四には処不退。文証なしといへども、理に約して以て成ず。いかんとなれば、天の中に果を得れば即ち不退を得るが如く、浄土もまたしかり。命長くして病なく、勝れたる侶と提携し、純正にして邪なく、ただ浄にして染なく、恒に聖尊に事ふ。この五の縁に由りて、その処には退くことなし」と。[p272-273]
と。<已上、略抄>[p273]
問ふ。九品の階位、異解不同なり。[p273]
遠法師は、「上々の生は、四・五・六地、上中の生は初・二・三地、上下の生は地前の三十心なり」と云ひ、力法師は、「上々は行・向、上中は十解、上下は十信」と云ひ、基師は、「上々は十回向、上中は解・行、上下は十信」と云ひ、あるは、「上々は十住の初心、上中は十信の後心、上下は十信の初位」と云ひ、あるは、「上々は十信及び以前の、能く三心を発して、能く三行を修する者なり。上中と上下とは、ただ十信以前の、菩提心を発して、善を修する凡夫を取る。起行の浅深により以て二品を分つなり」と云ふが如し。諸師の所判の不同なる所以は、無生忍の位の不同なるを以てなり。故に、仁王経には、無生忍は七・八・九地にあり、諸論には、初地にあり、或は忍位なり、本業瓔珞経には十住にあり、華厳経には十信にあり、占察経には、一行三昧を修して相似の無生法忍を得る者を説くなり。故に諸師おのおの一義に拠るなり。[p273]
中品の三生には、遠は、「中上はこれ前の三果、中々はこれ七方便、中下はこれ解脱分の善を種ゑたる人なり」と云ひ、力法師もこれに同じ。基は、「中上は四善根、中々は三賢、中下は方便の前の人なり」と云ひ、あるは、「次の如く、忍・頂なり」と云ひ、あるは、「三生は並にこれ解脱分の善根を種ゑたる人なり」と云ふ。<已上六品にもまた余の釈あり。感禅師の論、竜興の記等を見よ>[p274]
下品の三生には別の階位なし。ただこれ具縛造悪の人なり。[p274]
明らけし、往生の人はその位に限あることを。いづくんぞ、なほこれわれ等が分なりといふことを知らんや。[p274]
答ふ。上品の人は、階位たとひ深くとも、下品の三生、あに我等が分にあらざらんや。いはんや、かの後の釈には、既に十信以前の凡夫を取りて上品の三とせるをや。また観経の善導禅師の玄義には、大小乗の方便以前の凡夫を以て九品の位に判じ、諸師の所判の深高なるを許さず。また経・論は、多くは文に依りて義を判ずるものなり。今、経に説く所の上三品の業、なんぞ必ずしも執して深位の行とせんや。[p274]
問ふ。もししからば、かしこに生れて、早く無生法忍を悟るべからず。[p274]
答ふ。天台に二の無生忍の位あり。もし別教の人ならば、歴劫に修行して無生忍を悟り、もし円教の人ならば、乃至、悪趣の身にてもまた頓証する者あり。穢土にしてなほしかり、いかにいはんや浄土をや。かの土の諸事は、余処に例することなかれ。いづれの処か、一切の凡夫、いまだその位に至らずして、終に退堕することなく、いづれの処か、一切の凡夫、悉く五神通を得て、妙用無碍ならんや。証果の遅速、例してまた然るべし。[p274-275]
問ふ。上品生の人の、得益の早晩は一向にしかるや。[p275]
答ふ。経の中には且く一類を挙げしのみ。故に慧遠和尚の観経義記に云く、[p275]
九品の人の、かの国に生れ已りて、益を得る劫数は、勝れたるものに依りて説きしなり。理はまたこれに過ぎたる者あるべし。[p275]
と。<取意> 今謂く、汎く九品を論ぜば、或はまた少分はこれより速かなる者あるべし。[p275]
問ふ。双観経の中にもまた弥勒等の如きもろもろの大菩薩ありて、当に極楽の生ずべしといへり。故に知んぬ、経の中の九品の得益は劣れるものに依りて説けることを。なんぞ、「勝れたるものに依りて」と言へるや。[p275]
答ふ。かの国に生れて始めて無生を悟る、前後・早晩に約して、これを「勝れたるものに依りて」と謂ひしなり。更にかの上位の大士を論ぜるにあらず。しかれども、かの大士を九品の中に摂すると摂せざるとは、別に思択すべし。[p275]
問ふ。もし凡下の輩もまた往生することを得ば、いかんぞ、近代、かの国土を求むる者は千万なるに、得たるものは一二もなきや。[p275]
答ふ。綽和尚の云く、[p275]
信心深からず、もしは存し、もしは亡するが故に。信心一ならず、決定せざるが故に。信心相続せず、余念間つるが故に。この三、相応せざれば、往生することあたはず。もし三心を具して往生せずといはば、この処あることなし。[p275]
と。導和尚の云く、[p276]
もし能く上の如く念々相続して畢命を期とする者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。[p276]
と。<「上の如く」と言ふは、礼・讃等の五念門と、至誠等の三心と、長時等の四修を指すなり>[p276]
問ふ。もし必ず畢命を期となすとせば、いかんぞ、感和尚は、「長時も短時も、多修も少修も、皆往生を得」と云へるや。[p276]
答ふ。業類は一にあらず。故に二師倶に過なし。しかれども、畢命を期となし、勤修して怠ることなくは、業をして決定せしむるにはこれを張本となす。[p276]
問ふ。菩薩処胎経の第二に説かく、[p276]
西方に、この閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界あり。国土快楽にして、倡・伎・楽を作す。衣被・服飾・香花もて荘厳せり。七宝の転開する床ありて、目を挙げて東を視んとすれば、宝床随ひて転じ、北を視、西を視、南を視るもまたかくの如く転ず。前後して意を発せる衆生の、阿弥陀仏の国に生れんと欲する者も皆深く懈慢国土に著して、前に進んで、阿弥陀仏の国に生るることあたはず。億千万の衆に、時に一人ありて能く阿弥陀仏の国に生る。[p276]
と。<已上> この経を以て准ずるに、生るることを得べきこと難からん。[p276]
答ふ。群疑論に、善導和尚の前の文を引いて、この難を釈し、また自ら助成して云く、[p276]
この経の下の文に言く、「何を以ての故に。皆懈慢にして、執心牢固ならざるに由る」と。ここに知んぬ、雑修の者は執心不牢の人となすことを。故に懈慢国に生るるなり。もし雑修せずして、専らこの業を行ぜば、これ即ち執心牢固にして、定んで極楽国に生れん。<乃至> また報の浄土に生るる者は極めて少く、化の浄土の中に生るる者は少からず。故に経には別に説けり。実には相違せざるなり。[p277]
と。<已上>[p277]
問ふ。たとひ三心を具せずといへども、畢命を期せずといへども、かの一たび名を聞くすらなほ成仏することを得といふ。いはんや暫くも称念する、なんぞ唐捐ならんや。[p277]
答ふ。暫くは唐捐なるに似たれども、終には虚説にあらず。華厳の偈に、経を聞ける者の、転生の時の益を説いて云ふが如し。[p277]
もし人、聞くに堪忍せるものは 大海 及び劫尽の火の中にありといへども 必ずこの経を聞くことを得ん[p277]
と。<「大海」とは、これ竜界なり> 釈に云く、[p277]
余の業に由るが故にかの難処に生れ、前の信に由るが故にこの根器を成ず。[p277]
と云々。華厳を信ずる者にして、既にかくの如し。念仏を信ぜん者、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作れるもの、臨終に善友に遇ひ、纔かに十たび念仏して、即ち往生することを得。かくの如き等の類、多くはこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜし者の、宿善内に熟して今開発するのみ。故に十疑に云く、[p277]
臨終に善知識に遇ひて十念成就する者は、並これ宿善強く、善知識を得て十念成就するなり。[p278]
と云々。感師の意もまたこれに同じ。[p278]
問ふ。下々品の生、もし宿善に依らば、十念生の本願は即ち有名無実ならん。[p278]
答ふ。たとひ宿善ありとも、もし十念することなくは、定んで無間に堕ち、苦を受くること窮りなからん。明らけし、臨終の十念はこれ往生の勝縁なり。[p278]
第三に、往生の多少とは、双観経に云く、[p278]
仏、弥勒に告げたまはく、「この世界に於て、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、已に曾て無数の諸仏を供養し、次で弥勒の如し。もろもろの小行の菩薩、及び少功徳を修する者、称計すべからず。皆当に往生すべし。他方の仏土も亦またかくの如し。その遠照仏の国の百八十億の菩薩、宝蔵仏の国の九十億の菩薩、無量音仏の国の二百廿億の菩薩、甘露味仏の国の二百五十億の菩薩、竜勝仏の国の十四億の菩薩、勝力仏の国の万四千の菩薩、師子仏の国の五百の菩薩、離垢光仏の国の八十億の菩薩、徳首仏の国の六十億の菩薩、妙徳山仏の国の六十億の菩薩、人王仏の国の十億の菩薩、無上花仏の国の無数不可称計の不退のもろもろの菩薩は、智慧勇猛にして、已に曾て無量の諸仏を供養し、七日の中に於て、即ち能く百千億劫の大士の修する所の、堅固の法を摂取せり。無畏仏の国の七百九十億の大菩薩衆と、もろもろの小菩薩及び比丘等は、称計すべからず。皆当に往生すべし。ただこの十四の仏国の中のもろもろの菩薩等の、往生すべきのみにあらず。十方世界の無量の仏国より、その往生の者も亦またかくの如く、甚だ多く無数なり。我、ただ十方諸仏の名号、及び菩薩と比丘のかの国に生ぜん者を説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ竟ることあたはず」と。[p278-279]
と。<已上、略抄> このもろもろの仏土の中に、今娑婆世界に少善を修して、当に往生すべき者あり。我等、幸に釈尊の遺法に遇ひたてまつり、億劫の時に一たび少善往生の流に預れり。応に務めて勤修すべし。時を失ふことなかれ。[p279]
問ふ。もし少善根もまた往生することを得ば、いかんぞ経に、「少善根・福徳の因縁を以て、かの国に生るることを得べからず」と云へるや。[p279]
答ふ。これには異解あるも、繁く出すことあたはず。今私に案じて云く、大小は定めなし、相待して名を得。大菩薩に望むればこれを少善と名づけんも、輪廻の業に望むればこれを名づけて大となす。この故に、二経の義、違ひ害はず。[p279]
第四に、尋常の念相を明さば、これに多種あり。大いに分ちて四となす。一には定業。謂く、坐禅入定して仏を観ずるなり。二には散業。謂く、行住坐臥に、散心にして念仏するなり。三には有相業。謂く、或は相好を観じ、或は名号を念じて、偏に穢土を厭ひ、専ら浄土を求むるなり。四には無相業。謂く、仏を称念し浄土を欣求すといへども、しかも身土は即ち畢竟空にして、幻の如く夢の如く、体に即して空なり、空なりといへども、しかも有なり、有にあらず空にあらずと観じて、この無二に通達し、真に第一義に入るなり。これを無相業と名づく。これ最上の三昧なり。故に双観経に、阿弥陀仏は、[p279-280]
諸法の性は 一切空・無我なりと通達すれども 専ら浄き仏土を求め 必ずかくの如き刹を成ぜん[p280]
と言へるなり。また止観の常行三昧の中に三段の文あり。具さには上の別行の中に引くが如し。[p280]
問ふ。定・散の念仏は倶に往生するや。[p280]
答ふ。慇重の心もて念ずれば往生せずといふことなし。故に感師、念仏の差別を説いて云く、[p280]
或は深く或は浅く、定に通じ散に通ず。定は即ち凡夫より十地に終る。善財童子の、功徳雲比丘の所に於て念仏三昧を請け学びしが如し。これ即ち甚深の法なり。散は即ち一切衆生の、もしは行もしは坐、一切の時処に皆念仏することを得て、諸務を妨げず。乃至、命終にもまたその行を成ず。[p280]
と。<已上>[p280]
問ふ。有相と無相との業は倶に往生することを得るや。[p280]
答ふ。綽和尚の云く、[p280]
もし始学の者ならば、いまだ相を破することあたはざるも、ただ能く相に依りて専至せば往生せずといふことなし。疑ふべからざるなり。[p280-281]
と。また感和尚の云く、[p281]
往生に既に品類ありて差殊なれば、修因にもまた浅深ありて、おのおの別なり。ただし、ただ無所得を修するもののみ往生することを得るも、有所得の心にては生るることを得ずとは言ふべからざるなり。[p281]
と。[p281]
問ふ。もししからば、いかんぞ、仏蔵経には、[p281]
もし比丘ありて、余の比丘を教へて、「汝、当に仏を念じ、、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、施を念じ、天を念ずべし。かくの如き等の思惟もて、涅槃の安楽・寂滅なるを観じ、ただ涅槃の畢竟清浄なるを愛せよ」と。かくの如く教ふる者を名づけて邪教となし、悪知識と名づく。この人を名づけて、我を誹謗し外道を助くとなす。かくの如き悪人には、我乃ち一飲の水をも受くることを聴さず。[p281]
と説き、また、[p281]
むしろ五逆重悪を成就すとも、我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見等をば成就せざれ。[p281]
と言へるや。<已上、略抄>[p281]
答ふ。感師の釈して云く、[p281]
聖教ありてまた言く、「むしろ我見を起すこと須弥山の如くすとも、空見を起すこと芥子計りの如くもせざれ」と。かくの如き等のもろもろの大乗経には、有を訶し空を訶し、大を讃め小を讃むること、並乃ち機に逗まりて同じからざるなり。またある経に言く、「今、阿弥陀如来・応・正等覚は、具にかくの如き三十二相・八十随形好あり。身色・光明は聚金の融けたるが如し。かくの如くして、乃至、かの如来を念ぜず、またかの如来を得ざれ。已にかくの如くして次第に空三昧を得ん」と。また観仏三昧経に云く、「如来にまた法身・十力・無畏・三昧解脱のもろもろの神通の事あり。かくの如き妙処は汝凡夫の覚する所の境界にあらず。ただ当に深き心に随喜の想を起すべし。この想を起し已らば、当にまた念を繋けて仏の功徳を念ずべし」と。故に知んぬ、初学の輩はかの色身を観じ、後学の徒は法身を念ずるなりと。故に、「かくの如くして次第に空三昧を得ん」と言へり。当にすべからく善く経の意を会して、毀讃の心を生ずることなかれ。妙く知る、大聖は巧みに根機に逗まりたまふものなることを。[p281-282]
と。<已上は、観仏経の第九に、仏の一毛を観じて、乃至、具足の色身を観ずることを説き已りて、引く所の十力・無畏・三昧等の文にあり>[p282]
問ふ。念仏の行は、九品の中に於て、これいづれの品の摂なるや。[p282]
答ふ。もし説の如く行ぜば、理として上々に当れり。かくの如く、その勝劣に随ひて、応に九品に分つべし。しかれども経に説く所の九品の行業は、これ一端を示せるのみ。理、実には無量なり。[p282]
問ふ。もし定・散倶に往生することを得とせば、また現身に倶に仏を見たてまつるとせんや。[p282-283]
答ふ。経・論に、多く、三昧成就して即ち仏を見たてまつることを得と説けば、明かに知んぬ、散業は見ることを得べからざるを。ただ別縁をば除く。[p283]
問ふ。有相と無相との観は、倶に仏を見たてまつることを得るや。[p283]
答ふ。無相の、仏を見たてまつることは、理疑はざるにあり。その有相の観も、或はまた仏を見たてまつる。故に観経等には色相を観ずることを勧めたり。[p283]
問ふ。もし有相の観もまた仏を見たてまつるとせば、いかんぞ、華厳経の偈には、[p283]
凡夫の諸法を見るは ただ相に随ひて転じ 法の無相を了らず これを以て仏を見たてまつらざるなり 見ることあれば則ち垢となる これ則ちいまだ見るとなさず 諸見を遠離して かくの如くして乃ち仏を見たてまつる[p283]
と云ひ、また、[p283]
一切法を 自性ある所なしと了知して かくの如く法性を解れば 即ち盧遮那を見たてまつる[p283]
と云ひ、金剛経には、[p283]
もし色を以て我を見 音声を以て我を求めば この人は邪道を行じて 如来を見たてまつることあたはず[p283]
と云へるや。[p283]
答ふ。要決に通じて云く、[p283]
大師の説教は義は多門あり。おのおの時機に称ひ、等しくして差異なし。般若経は自らこれ一門にして、弥陀等の経もまた一理となす。いかんとなれば、一切の諸仏には並三身ありて、法仏には形体なく色・声もなし。良に二乗及び小菩薩の、三身は異らずと説くを聞いて、即ち同じく色・声ありと謂ひ、ただ化身の色相のみを見て、遂に法身もまたしかりと執するが為なり。故に説いて邪となす。弥陀経等に、仏の名を念じ、相を観じて、浄土に生るることを求めよと勧むるは、ただ凡夫は障重きを以て、法身の幽微にして、法体の縁じ難ければ、且く仏を念じ、形を観じて、礼讃せよと教へたるのみ。[p284]
と<略抄>。[p284]
問ふ。凡夫の行者は、勤めて修習すといへども心純浄ならず。何ぞ輒く仏を見たてまつらん。[p284]
答ふ。衆縁合して見たてまつるなり。ただ自力のみにあらず。般舟経に三縁あり。上の九十日の行に引きし所の止観の文の如し。[p284]
問ふ。幾ばくの因縁を以てか、かの国に生るることを得る。[p284]
答ふ。経に依りてこれを案ずるに、四の因縁を具す。一には自らの善根の因力、二には自らの願求の因力、三には弥陀の本願の縁、四には衆聖の助念の縁なり。<釈迦の護助は平等覚経に出で、六方の仏の護念は小経に出で、山海慧菩薩等の護持は、十往生経に出でたりと云々>[p284]
第五に、臨終の念相を明さば、問ふ、下々品の人も、臨終に十念せば即ち往生することを得といふ。言ふ所の十念とは何等の念ぞや。[p285]
答ふ。綽和尚の云く、[p285]
ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは惣相、もしは別相、、所縁に随ひて観じて、十念を逕て、他の念想の間雑することなきを、これを十念と名づく。また十念相続と云ふは、これ聖者の一の数の名のみ。ただ能く念を積み、思を凝して、他事を縁ぜざれば、便ち業道成弁す。またいまだ労しくこれが頭数を記さざるなり。また云く、もし久行の人の念ならば、多くこれに依るべきも、もし始行の人の念は、数を記すもまた好し。これまた聖教に依る。[p285]
と<已上>。あるが云く、[p285]
一心に南無阿弥陀仏と称念する、この六字を逕るの頃を一念と名づくるなり。[p285]
と云々。[p285]
問ふ。弥勒所問経の十念往生は、かの一々の念、深広なり。いかんぞ、今十声の念仏もて往生することを得といふや。[p285]
答ふ。諸師の釈する所、同じからず。寂法師の云く、[p285]
これ、専心に仏の名を称する時、自然にかくの如き十を具足すと説くなり。必ずしも一々、別に慈等を縁ずるにはあらず。またかの慈等を数へて十とせるにもあらず。いかんぞ、別に縁せざるに、しかも十を具足するとならば、戒を受けんと欲して三帰を称ふる時、別に離殺等の事を縁ぜずといへども、しかも能く具さに離殺等の戒を得るが如し。当に知るべし、この中の道理もまたしかり。また十念を具足して南無阿弥陀仏と称すべしといふは、能く慈等の十念を具足して南無仏と称ふることを謂ふなり。もし能くかくの如くならば、称念する所に随ひて、もしは一称、もしは多称、皆往生することを得。[p285-286]
と。感法師の云く、[p286]
おのおの、これ聖教にして、互に往生浄土の法門を説き、皆浄業を成ず。何に因りてか、かれを将て是となし、これを斥けて非と言はん。ただ自ら経を解らず、また乃ちもろもろの学者を惑はすなり。[p286]
と。迦才師の云く、[p286]
この十念は、現在の時に作すなり。観経の中の十念は、命終の時に臨んで作すなり。[p286]
と。<已上> 意は感師に同じ。[p286]
問ふ。双観経には、「乃至一念せば往生することを得」と云ふ。これと十念と、いかんが乖角するや。[p286]
答ふ。感師の云く、[p286]
極悪業の者は十を満して生ずることを得、余の者は、乃至一念にてもまた生る。[p286]
と。[p286]
問ふ。生れてよりこのかた、もろもろの悪を作りて一善をも修せざる者、命終の時に臨み、纔かに十声念ずるのみにて、なんぞ能く罪を滅し、永く三界を出でて、即ち浄土に生れん。[p286-287]
答ふ。那先比丘問仏経に言ふが如し。[p287]
時に弥蘭王あり、羅漢那先比丘に問ひて言く、「人、世間にありて悪を作り、百歳に至らんに、死の時に臨んで念仏せば、死後、天に生るといふも、我この説を信ぜず」と。また言く、「一の生命を殺さば、死して即ち泥梨の中に入るといふも、我また信ぜざるなり」と。比丘、王に問ふ、「もし人、小石を持ちて水中に置在かば、石は浮ぶや没むや」と。王言く、「石は没むなり」と。那先言く、「もし今、百丈の大石を持ちて船の上に置在くに、没むやいなや」と。王言く、「没まず」と。那先言く、「船の中の百丈の大石は、船に因りて没むことを得ざるなり。人、本の悪ありといへども、一時、仏を念ずれば、泥梨に没ますして便ち天上に生るること、なんぞ信ぜざらんや。その小石の没むは、人の悪を作り、経法を知らずして、死後便ち泥梨に入るが如し。なんぞ信ぜざらんや」と。王言く、「善いかな、善いかな」と。比丘に言く、「両人倶に死して、一人は第七の梵天に生れ、一人q賓国に生るとせんに、この二人は、遠近異りといへども、死せしときは則ち一時に到りしが如し。一双の飛鳥ありて、一は高き樹の上に止り、一は卑き樹の上に止らんに、両鳥一時に倶に飛ばんには、その影倶に到らんが如きのみ。愚人、悪を作れば殃を得ること大きく、智人、悪を作るも殃を得ること少きが如し。焼けたる鉄の、地にあらんに、一人は焼けたりと知り、一人は知らずして、両人倶に取らば、しかも知らざる者は手爛るること大きく、知る者は少しく壊れんが如し。悪を作るもまたしかり。愚者は、自ら悔ゆることあたはざるが故に殃を得ること大きく、智者は、悪を作りて不当なるを知るが故に、日に自ら悔ゆることをなす。故にその罪少し」と。[p287-288]
と。<已上> 十念にもろもろの罪を滅し、仏の悲願の船に乗りて、須臾にして往生することを得るも、その理また然るべし。また十疑に釈して云く、[p288]
今、三種の道理を以て校量するに、軽重不定なり。時節の久近・多少にはあらず。いかんが三とする。一には心にあり、二には縁にあり、三には決定にあり。[p288]
心にありとは、罪を造る時は自らの虚妄顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、善知識に従ひて阿弥陀仏の真実功徳の名号を説くを聞く心より生ず。一は虚にして一は実なり。あに相比ぶることを得んや。譬へば、万年の暗室に日光暫くも至らば、暗頓に除こるが如し。あに、久来の暗なればとて、滅することを肯んぜざることあらんや。[p288]
縁にありとは、罪を造る時は、虚妄痴暗の心の、虚妄の境界を縁ずる顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、仏の清浄真実の功徳の名号を聞いて、無上菩提を縁ずる心より生ず。一は真にして一は偽なり。あに相比ぶることを得んや。譬へば、人ありて、毒の箭に中てられんに、箭は深く、毒はrしく、肌を傷つけ、骨に致らんも、一たび滅除薬の鼓の声を聞かば、即ち毒の箭除こるが如し。あに深き毒なるを以て、出づることを肯んぜざることあらんや。[p288]
決定にありとは、罪を造る時は有間心・有後心を以てす。仏を念ずる時は無間心・無後心を以てし、遂に即ち命を捨つるまで善心猛利なり。ここを以て即ち生ず譬へば、十囲の索は千夫も制せざれども、童子剣を揮はば須臾に両段するが如し。また千年の積草も、大豆ばかりの火を以てこれを焚かば、時に即ち尽くるが如し。また人ありて、一生より已来、十善業を修して天に生るることを得べきに、臨終の時、一念決定の邪見を起さば、即ち阿鼻地獄に堕するが如し。[p289]
悪業の虚妄なるすら猛利なるを以ての故に、なほ能く一生の善業を排ひて悪道に堕せしむ。あにいはんや、臨終に猛利の心もて念仏する、真実の無間の善業をや。無始の悪業を排ふことあたはずして、浄土に生るることを得ずといはば、この処あることなけん。[p289]
と。<已上> また安楽集には、七喩を以てこの義を顕す。[p289]
一には、少火の喩。前の如し。二には、躄たる者も他の船に寄載すれば、風帆の勢に因り、一日にして千里に至る。三には、貧人、一の瑞物を獲て以て王に貢つるに、王慶びて重く賞でて、斯須の頃に富貴となり、望を盈たす。四には、劣夫も、もし輪王の行に従はば、便ち虚空に乗じて飛騰すること自在なり。五には、十囲の索の喩。前の如し。六には、鴆鳥、水に入れば、魚・蚌ここに斃れて皆〔死し〕、犀角もてこれに触るれば、死せる者また活く。七には、黄鵠、子安を喚ぶに、子安また活く。あに、墳の下に千齢なるものも、決して甦るべきことなしと言ふことを得べけんや。一切の万法は皆自力・他力、自摂・他摂ありて、千開・万閉なること無量無辺なり。あに、有碍の識を以て、かの無碍の法を疑ふことを得んや。また五の不思議の中には、仏法最も不可思議なり。あに、三界の繋業を以て重しとなし、かの少時の念法を疑ひて軽しとせんや。[p289-290]
と。<已上、略抄>[p290]
今、これに加へて云く。一には、栴檀の樹出成する時は、能く三十由旬の伊蘭の林を変じて、普く皆香美ならしむ。二には、師子の筋を用ひて、以て琴の絃とするに、音声一たび奏すれば、一切の余の絃、悉く皆断壊す。三には、一斤の石汁、能く千斤の銅を変じて金となす。四には、金剛は、堅固なりといへども、s羊の角を以てこれを扣けば、則ち潅然として氷のごとくtく。<已上は滅罪の譬> 五には、雪山に草あり、名づけて忍辱となす。牛もし食すれば、即ち醍醐を得。六には、沙訶薬に於てただ見ることある者は寿無量なることを得、乃至、念ずる者は宿命智を得。七には、孔雀、雷の声を聞くときは即ち身ることあることを得。八には、尸利沙、昴星を見れば則ち菓実を出生す。<已上は生善の譬> 九には、住水宝を以てその身に瓔珞とすれば、深き水の中に入るとも、しかも没溺せず。十には、沙礫は小なりといへどもなほ浮ぶことあたはず。磐石は大なりといへども、船に寄すれば能く浮ぶ。<已上は惣喩>[p290]
諸法の力用、思ひ難きことかくの如し。念仏の功力も、これに准じて疑ふことなかれ。[p290]
問ふ。臨終の心念、その力、幾許なればか、能く大事を成ずるや。[p290]
答ふ。その力、百年の業にも勝る。故に大論に云く、[p291]
この心は時の頃少しといへども、しかも心力猛利なること、火の如く毒の如くなれば、少しといへども能く大事を成す。これ死に垂んとする時の心、決定して勇健なるが故に、百歳の行力に勝れり。この後心を名づけて大心となす。身及び諸根を捨つる事急なるを以ての故なり。人の、陣に入りて身命を惜まざるを、名づけて勇健となすが如し。阿羅漢の如きは、この身を著を捨つるが故に阿羅漢道を得。[p291]
と。<已上> これに由りて、安楽集に云く、[p291]
一切衆生は、臨終の時、刀風形を解き、死苦来り逼るに、大なる怖畏を生じ、乃至、便ち往生を得。[p291]
と。[p291]
問ふ。深き観念の力の、罪を滅することは然るべし。いかんぞ、仏号を称念するに無量の罪を滅するや。もししからば、指を以て月を指すに、この指、応に能く闇を破すべし。[p291]
答ふ。綽和尚、釈して云く、[p291]
諸法は万差なり。一概すべからず。自ら名の、法に即せるあり。自ら名の、法に異れるあり。名の、法に即せりとは、諸仏・菩薩の名号、禁呪の音辞、修多羅の章句等の如き、これなり。禁呪の辞に、「日出でて、東方乍ち赤く乍ち黄なり」と曰はんに、仮令酉亥に禁を行ふも、患へる者また愈ゆるが如し。また人ありて、狗の所噛を被らんに、虎の骨を炙りてこれを熨ふれば、患へる者即ち愈ゆるも、或は時に骨なくは、好く掌をuげてこれを磨り、口の中に喚びて、「虎来れ、虎来れ」と言はば、患へる者また愈ゆるが如し。或はまた人ありて、脚の転筋を患はんに、木瓜の杖を炙りてこれを熨ふれば、患へる者即ち愈ゆるも、或は木瓜なきときは、手を炙りてこれを磨り、口に「木瓜」と喚ばんに、患へる者また愈ゆるなり。名の法に異るとは、指を以て月を指すが如き、これなり。[p291-292]
と。<已上> 要決に云く、[p292]
諸仏は、願・行もてこの果名を成じたまへば、ただ能く号を念ぜば、具さにもろもろの徳を包む。故に大善と成る。[p292]
と。<已上。かの文には浄名と成実との文を引けり。具さには上の助念の方法の如し>[p292]
問ふ。もし下々品の、五逆罪を造れるも、十たび仏を念ずるに由りて往生することを得といはば、いかんぞ、仏蔵経の第三に、[p292]
大荘厳仏の滅後に、四の悪比丘ありき。第一義・無所有・畢竟空の法を捨てて、外道尼モ子の論を貪楽せり。この人、命終りて阿鼻獄に堕ち、仰臥・伏臥、左脇臥・右脇臥なること、おのおの九百万億歳、熱鉄の上に於て焼燃しコ爛して死し已り、更に灰地獄・大灰地獄・活地獄・黒縄地獄に生れ、皆上の如き歳数にわたり苦を受けたり。黒縄より死してまた阿鼻獄に生れたり。かの、家と出家にして親近せしもの、并にもろもろの檀越、およそ六百四万億の人は、この四師と倶に生れ倶に死し、大地獄にありてもろもろの焼煮を受けたり。劫尽きしとき他方の地獄に転生し、劫成りてまたこの間の地獄に生れたり。久々にして地獄を免れ人中に生れたるも、五百世のあひだ、生るるより盲なりき。後に一切明王仏に値ひたてまつりて出家し、十万億歳、勤修精進すること頭燃を救ふが如くせしも、順忍すら得ざりき。いはんや、道果を得んことをや。命終りてまた阿鼻地獄に生れたり。後に於て九十九億の仏に値ひたてまつりしも、順忍すら得ざりき。何を以ての故に。仏の、深法を説きたまひしとき、この人、信ぜずして破壊し違逆し、賢聖・持戒の比丘を破毀して、その過悪を出せる破法の因縁により、法として当にしかるべきなり。[p292-293]
と云へるや。<已上、略抄。「四の比丘とは苦岸比丘・薩和多比丘・将去比丘・跋難陀比丘なり> 十万億歳、頭燃を救ふが如くせしもなほ罪を滅せずして、また地獄に生れたりといふ。いかんぞ、念仏すること一声・十声して即ち罪を滅し、浄土に往生することを得んや。[p293]
答ふ。感師、釈して云く、[p293]
念仏は、五の縁に由るが故に罪を滅す。一には、大乗の心を発すの縁。二には、浄土を願生するの縁。小乗の人は、十方の仏のあるを信ぜざるが故に。三には、阿弥陀仏の本願の縁。四には、念仏の功徳の縁。かの比丘は、ただ四念処観を作すのみなるが故に。五には、仏の威力もて加持したまふの縁。この故に、罪を滅して浄土に生るることを得。かの小乗の人は、しからざるが故に罪を滅することあたはず。[p293]
と。<略抄>[p293]
問ふ。もししからば、いかんぞ、双観経に十念往生を説いて、「ただ五逆と、正法を誹謗するとをば除く」といへるや。[p293-294]
答ふ。智憬等の諸師の云く、[p294]
もしただ逆を造るのみならば、十念に由るが故に生るることを得。もし逆罪を造り、また法を謗りし者は、往生することを得ず。[p294]
と。あるが云く、[p294]
五逆の不定業を造れるものは往生することを得るも、五逆の定業を造れるものは往生せず。[p294]
と。かくの如く十五家の釈あり。感法師は、諸師の釈を用ひずして、自ら云く、[p294]
もし逆を造らざる人は、念の多少を論ぜず、一声・十声、倶に浄土に生る。もし逆を造れる人は必ず十を満すべし。一をも闕かば生れず。故に「除く」と言へるなり。[p294]
と。<已上>[p294]
今、試みに釈を加へば、余処には遍く往生の種類を顕せども、本願にはただ定生の人のみを挙げしなり。故に、「しからずは、正覚を取らじ」と云へり。余人の十念は定んで往生することを得、逆者の一念は定んで生るることあたはず。逆の十と余の一とは、皆これ不定なり。故に、願にはただ余人の十念を挙げ、余処には、兼ねて逆の十と余の一とを取れり。この義、いまだ決せず。別して思択すべし。[p294]
問ふ。逆者の十念は何が故に不定なるや。[p294]
答ふ。宿善の有無に由りて念力別なるが故に。また、臨終と尋常と、念ずる時別なるが故に。[p294-295]
問ふ。五逆はこれ順生業なり。報と時と、倶に定まれり。いかんぞ滅することを得んや。[p295]
答ふ。感師、これを釈して云く、[p295]
九部の不了教の中に、もろもろの、業果を信ぜざる凡夫の為に、密意により、説いて「定報の業あり」と言へり。もろもろの大乗了義教の中に於ては、「一切の業は悉く皆不定なり」と説く。涅槃経の第十九巻に云ふが如し。耆婆、阿闍世王の為に、懺悔の法を説いて、「罪は滅することを得」と。また云く、「臣、仏の説を聞くに「一の善心を修むれば百種の悪を破す」と。少かの毒薬の、能く衆生を害するが如し。小善もまたしかり。能く大悪を破す」と。また三十一に云く、「善男子、もろもろの衆生ありて、、業縁の中に於て心軽んじて信ぜざらんには、彼を度せんが為の故にかくの如き説を作す。善男子、一切の作業に軽あり重あり。軽重の二業にまたおのおの二あり。一には決定、二には不決定なり」と。また言く、「或は重業の、軽と作し得べきものあり、或は軽業の、重と作し得べきものあり。有智の人は、智慧の力を以て、能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしむるも、愚痴の人は、現世の軽業を地獄に重く受く」と。阿闍世王は罪を懺悔し已りて地獄に入らず。鴦堀摩羅は阿羅漢を得たり。瑜伽論に説かく、「いまだ解脱を得ざるを、決定業と説き、已に解脱を得たるを、不定業と名づく」と。かくの如き等の、もろもろの大乗の経・論に五逆罪等を皆不定と名づけ、悉く消滅することを得と説けり。[p295]
と。<重きを転じて軽く受くるの相は、具さには放鉢経に出でたり>[p296]
問ふ。引ける所の文に云く、「智者は重きを転じて軽く受く」と。下品生の人の、ただ十念し已りて即ち浄土に生るるは、いづれの処にして軽く受くるや。[p296]
答ふ。双観経にかの土の胎生の者を説いて云く、[p296]
五百歳の中、三宝を見たてまつらず、供養してもろもろの善本を修することを得ず。しかもこれを以て苦となし、余の楽ありといへどもなほかの処を楽はず。[p296]
と。<已上> これに准ずるに、応に七々日・六劫・十二劫にわたり、仏を見たてまつらず、法を聞かざる等を以て、軽く苦を受くとなすべきのみ。[p296]
問ふ。為如し臨終に一たび仏の名を念じて、能く八十億劫の衆罪を滅すとせば、尋常の行者もまた然るべきや。[p296]
答ふ。臨終の心は、力強ければ能く無量の罪を滅す。尋常に名を称ふるも、彼が如くなるべからず。しかれども、もし観念成ずればまた無量の罪を滅す。もしただ名を称ふるのみならば、心の浅深の随にその利益を得ること、応に差別あるべし。具さには前の利益門の如し。[p296]
問ふ。何を以てか、浅心の念仏にもまた利益ありと知ることを得るや。[p296]
答ふ。首楞厳三昧経に云く、[p296]
大薬王あり、名づけて滅除と曰ふ。もし闘戦の時、以用て鼓に塗るに、もろもろのもの、箭に射られ刀・矛に傷つけられんも、鼓の声を聞くを得ば、箭出でて毒除こるが如し。かくの如く、菩薩の首楞厳三昧に住せる時、名を聞くことある者は、貪・恚・痴の箭、自然に抜け出でて、もろもろの邪見の毒、皆悉く滅除し、一切の煩悩、また動発せず。[p296-297]
と。<已上。諸法の真如・実相を観見し、凡夫法と仏法との不二を見る、これを首楞厳三昧を修習すと名づく> 菩薩既にしかり。いかにいはんや、仏をや。名を聞くこと既にしかり。いかにいはんや、念ぜんをや。応に知るべし、浅心に念ずるも利益また虚しからざるを。[p297]
第六に、麁心の妙果とは、問ふ、もし菩提の為に、仏に於て善を作さば、妙果を証得すること、理必ず然るべし。もし人天の果の為に善根を修せば、いかん。[p297]
答ふ。或は染にあれ、或は浄にあれ、仏に於て善を修せば、遠近ありといへども必ず涅槃に至る。故に大悲経の第三に、仏は阿難に告げて言へり。[p297]
もし衆生ありて、生死三有の愛果に楽著して、仏の福田に於て善根を種ゑたらん者、かくの如きの言を作さん、「この善根を以て、願はくは我に般涅槃なからんことを」と。阿難、この人を、もし涅槃せずとせば、この処あることなけん。阿難、この人、涅槃を楽求せずといへども、しかも仏の所に於てもろもろの善根を種ゑたれば、我は説く、この人は必ず涅槃を得と。[p297]
と。[p297]
問ふ。所作の業は願の随に果を感ず。なんぞ、世報を楽ひて出世の果を得るや。[p297]
答ふ。業果の理、必ずしも一同ならず。もろもろの善業を以て仏道に廻向するは、これ即ち作業なれば、心の随に転ず。鶏狗の業を以て天の楽を楽ひ求むるは、これ即ち悪見なれば、業をして転ぜしめず。この故に、仏に於てもろもろの善業を修せば、意楽異りといへども、必ず涅槃に至る。故に、かの経に譬を挙げて言く、[p298]
譬へば、長者の、時に依りて種を良田の中に下し、時に随ひて漑潅して、常に善く護持せんに、もしこの長者、余の時の中に於て、かの田所に到りてかくの如きの言を作さん、「咄なるかな、種子。汝、種と作ることなかれ、生ずることなかれ、長ずることなかれ」と。しかれども、彼、種を種ゑつれば必ず応に果を作るべく、果実なきことあらざるが如し。[p298]
と。<取意、略抄>[p298]
問ふ。彼、いづれの時にか般涅槃を得るや。[p298]
答ふ。たとひ、久々に生死に輪廻すといへども、善根亡びずして必ず涅槃を得。故にかの経に云く、[p298]
仏、阿難に告げたまはく、「捕魚師、魚を得んが為の故に、大いなる池水にありて、鉤に餌を安置し、魚をして呑み食はしめんに、魚呑み食ひ已らば、池の中にありといへども、久しからずして当に出づべきが如し。<乃至> 阿難。一切の衆生、諸仏の所に於て、敬信を生ずることを得て、もろもろの善根を種ゑ、布施を修行し、乃至、発心して、一念の信をも得たらんには、また余の悪・不善業の為に覆障せられて、地獄・畜生・餓鬼に堕在すといへども、<乃至> 諸仏世尊は、仏眼を以て、この衆生の発心の勝れたるを観見したまふが故に、地獄よりこれを抜きて出でしむ。既に抜き出し已らば、涅槃の岸に置きたまふ。[p298-299]
と。[p299]
問ふ。この経の意の如くは、敬信を以ての故に、遂に涅槃を得るなり。もししからば、ただ一たび聞かんは、涅槃の因にあらざるべし。既にしからば、いかんぞ、華厳の偈に、[p299]
もしもろもろの衆生ありて いまだ菩提心を発さざらんも 一たび仏の名を聞くことを得んには 決定して菩提を成ぜん[p299]
と云へるや。[p299]
答ふ。諸法の因縁は不可思議なり。譬へば、孔雀の、雷震の声を聞いて即ち身ることあるを得、また尸利沙果の、先には形質なかりしに、昴星を見る時、果則ち出生して、長さ五寸に足るが如し。仏の名号に依りて、即ち仏因を結ぶことも亦またかくの如し。この微因より遂に大果を著す。かの尼狗陀樹の、芥子許りの種より枝葉を生じて、遍く五百両の車を覆ふが如し。浅近の世法すらなほ思議し難し。いかにいはんや、出世の甚深の因果をや。ただ応に信仰すべし。疑念すべからず。[p299]
問ふ。染心を以て如来を縁ずる者もまた益ありや。[p299]
答ふ。宝積経の第八に、密迹力士、寂意菩薩に告げて云く、[p299]
耆域医王、もろもろの薬を合せ集め、以て薬草を取りて童子の形を作れり。端正殊好にして、世に希有なり。所作安諦にして所有究竟し、殊異なること比なかりき。往来・周旋・住立・安坐・臥寐・経行、欠漏する所なく、顕変する所の業あり。或は大豪の国王・太子・大臣・百官・貴姓・長者ありて、耆域医王の所に来到し、薬童子を視て、与共に歌ひ戯れんに、その顔色を相れば病皆除こることを得、便ち安穏寂静にして無欲なることを致せり。寂意、且く観ぜよ。その耆域医王の、世間を療治するは、その余の医師の及びあたはざる所なり。かくの如く、寂意、もし菩薩ありて、法身を奉行せば、仮使衆生の、婬・怒・痴盛んなるもの、男女・大小、欲想もて慕ひ楽ひ、即ち共に相娯しまんも、貪欲の塵労は悉く休息することを得ん。[p299-300]
と。<陰種諸入なしと信解し観察すれば、則ち「法身を奉行す」と名づくるなり> 法身を奉行する菩薩にしてなほしかり。いかにいはんや、法身を証得せる仏をや。[p300]
問ふ。欲想もて縁ずるに、この利益あるが如く、誹謗し悪み厭ふもまた益ありや。[p300]
答ふ。既に婬・怒・痴と云へり。明らけし、ただ欲想のみにあらず。また如来秘密蔵経の下巻に云く、[p300]
むしろ如来に於て不善の業を起すとも、外道・邪見の者の所に於て供養を施作することあらざれ。何を以ての故に。もし如来の所に於て不善の業を起さば、当に悔ゆる心ありて、究竟して必ず涅槃に至ることを得べきも、外道の見に随はば、当に地獄・餓鬼・畜生に堕つべければなり。[p300]
と。[p300]
問ふ。この文は、便ち因果の道理に違ひ、亦また衆生の妄心を増さん。いかんぞ、悪心を以て大涅槃の楽を得んや。[p301]
答ふ。悪心を以ての故に三悪道に堕ち、一たび如来を縁ずるを以ての故に必ず涅槃に至る。この故に、因果の道理に違はざるなり。謂く、「かの衆生、地獄に堕つる時、仏に於て信を生じ、追悔の心を生ず。これに由りて、展転して必ず涅槃に至る」と。<大悲経に見ゆ> 染心に如来を縁ずる利益すらなほかくの如し。いかにいはんや、浄心に一念・一称せんをや。仏の大恩徳はこれを以て知るべし。[p301]
問ふ。諸文に説く所の菩提・涅槃は、三乗の中に於てはこれいづれの果なりや。[p301]
答ふ。初には機に随ひて三乗の果を得といへども、究竟して必ず無上仏果に至る。法華経に云ふが如し。[p301]
十方仏土の中には ただ一乗の法のみありて 二もなくまた三もなし 仏の方便の説を除く[p301]
と。また大経に、如来の決定の説義を明して云く、[p301]
一切の衆生には悉く仏性あり。如来は常住にして変易あることなし。[p301]
と。また云く、[p301]
一切の衆生は、定んで阿耨菩提を得べきが故に。この故に我は説く、一切衆生には悉く仏性ありと。[p301]
と。また云く、[p301]
一切衆生には悉く皆心あり。およそ心ある者は、定んで当に阿耨菩提を成ずることを得べし。[p302]
と。[p302]
問ふ。何が故に、諸文に説く所、不同にして、或は一たび仏を聞かば定んで菩提を成ずると説き、或は応に勤修すること、頭燃を救ふが如くすべしと説き、また華厳の偈には、[p302]
人、他の宝を数ふるも 自ら半銭の分なきが如し 法に於て修行せざれば 多聞なるもまたかくの如し[p302]
と云へるや。[p302]
答ふ。もし速かに解脱せんと欲ふも、勤めざれば分なきが如し。もし永劫の因を期さば、一たび聞くもまた虚しからず。この故に、諸文の理、相違せざるなり。[p302]
第七に、諸行の勝劣とは、問ふ、往生の業の中にありては、念仏を最となさんも、余業の中に於てもまた最となさんや。[p302]
答ふ。余の行法の中にても、これまた最勝なり。故に観仏三昧経には六種の譬あり。一に云く、[p302]
仏、阿難に告げたまはく、「譬へば、長者の、まさに死せんとして久しからざるとき、もろもろの庫蔵を以てその子に委付す。その子、得已りて、意の随に遊戯するに、忽ち一時に於て、王難あるに値ひ、無量の衆賊、競ひて蔵の物を取る。ただ一の金あり。乃ちこれ閻浮檀那紫金にして、重さ十六両、金vの長短もまた十六寸なり。この金一両の価直は、余の宝の百千万両なり。即ち穢物を以て真金を纏ひ裹みて、泥団の中に置く。衆賊、見已りて、これを金と識らず。脚に践みて去る。賊去りて後、財主、金を得て、心大いに歓喜するが如し。念仏三昧も亦またかくの如し。当にこれを密蔵すべし」と。[p303]
と、二に云く、[p303]
譬へば、貧人、王の宝印を執り、逃走して樹に上る。六兵これを追ふに、貧人、見已りて即ち宝印を呑む。兵衆疾く至りて、樹をして倒に僻らしむ。貧人、地に落ち、身体散壊して、ただ金印のみあるが如し。念仏の心印の壊れざることも亦またかくの如し。[p303]
と。三に云く、[p303]
譬へば、長者の、まさに死せんとして久しからざるとき、一の女子に告ぐ。「我に今、宝あり。宝の中に上れたるものなり。汝、この宝を得て、密蔵して堅からしめ、王をして知らしむることなかれ」と。女、父の勅を受け、摩尼珠及びもろもろの珍宝を持ちて、これを糞穢に蔵す。室家の大小、皆また知らず。世の飢饉に値ひ、如意珠を持ちて意の随に、即ち百味の飲食を雨らす。かくの如く、種々に意の随に宝を得るが如し。念仏三昧の堅心不動なることも亦またかくの如し。[p303]
と。四に云く、[p303]
譬へば、大旱にして雨を得ることあたはず。一の仙人ありて呪を誦するに、神通力の故に、天は甘雨を降らし、地は涌泉を出さんが如し。念仏を得る者は、善く呪する人の如し。[p304]
と。五に云く、[p304]
譬へば、力士、しばしば王法を犯して囹圄に幽閉せらるるに、逃れて海辺に到り、髻の明珠を解きて、持ちて船師を雇ひ、彼岸に到りて、安穏にして懼なきが如し。念仏を行ずる者は大力士の如し。心王の鎖を挽れて、かの慧の岸に到る。[p304]
と。六に云く、[p304]
譬へば、劫尽に、大地洞燃するに、ただ金剛山のみ摧破すべからず、還りて本際に住るが如し。念仏三昧も亦またかくの如し。この定を行ずる者は、過去仏の実際の海の中に住す。[p304]
と。<已上、略抄> また般舟経の問事品に、念仏三昧を説いて云く、[p304]
常に当に習ひ持つべし。常に当に守りて、また余の法に随はざるべし。もろもろの功徳の中に最尊第一なり。[p304]
と。<已上>[p304]
また、不退転の位に至るに難易の二道あり。易行道と言ふは即ちこれ念仏なり。故に十住婆沙の第三に云く、[p304]
世間の道に難あり易あり。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩提の道もまたかくの如し。或は勤行精進のものあり、或は信方便の易行を以て、疾く阿惟越致に至るものあり。<乃至>[p304-305]
阿弥陀等の仏 及びもろもろの大菩薩の名を称し一心に念ずるも また不退転を得[p305]
と。<已上> 文の中に、過去・現在の一百余の仏、弥勒・金剛蔵・浄名・無尽意・跋陀婆羅・文殊・妙音・獅子吼・香象・常精進・観音・勢至等の一百余の大菩薩を挙げ、その中に広く弥陀仏を讃めたてまつれるなり。諸行の中に於て、ただ念仏の行のみ修し易くして、上位を証す。知んぬ、これ最勝の行なることを。[p305]
また、宝積経の九十二に云く、[p305]
もし菩薩ありて、多く衆務を営み、七宝の塔を造りて、遍く三千大千世界を満さんに、かくの如き菩薩は、我をして歓喜を生ぜしむることあたはず。また我を供養し恭敬するにもあらず。もし菩薩ありて、波羅蜜相応の法に於て、乃至、一の四句の偈を受持し、読誦し修行して、人の為に演説せん。この人は、乃ち我を供養すとなす。何を以ての故に。諸仏の菩提は、多聞より生じて、衆務より生ずることを得ざればなり。<乃至> もし一閻浮提の、営事の菩薩は、一の、読誦し修行し演説する菩薩の所に於ては、応当に親近し供養し承事すべし。もし一閻浮提の、読誦し修行し演説するもろもろの菩薩等は、一の、禅定を勤修する菩薩に於てもまた当に親近し供養し承事すべし。かくの如き善業を、如来は随喜し、如来は悦可したまふ。もし智慧を勤修する菩薩に於て承事し供養せば、当に無量の福徳の聚を獲べし。何を以ての故に。智慧の業は無上最勝にして、一切の三界の所行を出過すればなり。[p305-306]
と。大集月蔵分の偈に云く、[p306]
もし人、百億の諸仏の所にて 多くの歳数に於て常に供養せんに もし能く七日、蘭若にありて 根を摂めて定を得ば、福は彼よりも多からん <乃至> 閑静無為なるは仏の境界なり かしこに於て能く浄菩提を得 もし人、かの住禅の者を謗らば これをもろもろの如来を毀謗すと名づく もし人、塔を破すること多百千 及以び百千の寺を焚焼せんに もし住禅の者を毀謗することあらばその罪甚だ多くして彼よりも過ぎたり もし住禅の者に供養するに 飲食・衣服及び湯薬もてすることあらば この人は無量の罪を消滅して また三悪道に堕せず この故に我いま普く汝に告ぐ 仏道を成ぜんと欲せば常に禅にあれ もし阿蘭若に住することあたはざれば 応当にかの人を供養すべし[p306]
と。<已上> 汎爾の禅定すら、なほ既にかくの如し。いはんや、念仏三昧はこれ王三昧なるをや。[p306]
問ふ。もし禅定の業にして読誦・解義等よりも勝れたらば、いかんぞ、法華経の分別功徳品に、八十万億那由他劫に修する所の、前の五波羅蜜の功徳を以て、法華経を聞いて一念信解する功徳に校量して、百千万億分の一分なりとする。いかにいはんや、広く他の為に説かんや。[p306]
答ふ。これ等の諸行におのおの浅深あり。謂く、偏円の教に差別あるが故に。もし当教にて論ずれば、勝劣は前の如し。もし諸教を相対すれば、偏教の禅定は円教の読誦の事業にも及ばず。大集・宝積は一教に約して論じ、法華の校量は偏円相望す。この故に、諸文の義、相違せざるなり。念仏三昧も亦またかくの如し。偏教の三昧は当教に勝れたりとなし、円人の三昧は普く諸行に勝れたり。また定に二あり。一には慧相応の定。これを最勝となす。二には、暗禅。いまだ勝となすべからず。念仏三昧は応にこれ初の摂なるべし。[p306-307]
第八に、信毀の因縁とは、般舟経に云く、[p307]
独り一仏の所に於て功徳を作りしのみにあらず。〔もしは〕二、もしは三、もしは十に於てせるにもあらず。悉く百仏の所に於てこの三昧を聞きしかば、却ひて後世の時にもこの三昧を聞くものなり。経巻を書き学び誦持して、最後に守ること一日一夜すれば、その福は計るべからず。自ら阿惟越致に致り、願ふ所のものを得るなり。[p307]
と。[p307]
問ふ。もししからば、聞く者は決定して応に信ずべし。何が故に、聞くといへども、信ずると信ぜざるとありや。[p307]
答ふ。無量清浄覚経に云く、[p307]
善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞き、歓喜し踊躍して、身の毛為に起つこと、抜け出づるが如くなる者は、皆悉く〔宿世の〕宿命に、已に仏事を作せるものなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざる者は、皆悪道の中より来りて、殃悪いまだ尽きざるもの、これいまだ解脱を得ざるなり。[p307-308]
と。<略抄> また大集経の第七に云く、[p308]
もし衆生ありて、已に無量無辺の仏の所に於てもろもろの徳本を殖ゑたるものは、乃ちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得。<乃至> 下劣の人は、かくの如き正法を聞くことを得るあたはず。仮使、聞くことを得とも、いまだ必ずしも信ずることあたはず。[p308]
と。<已上> 当に知るべし、生死の因縁は不可思議なることを。薄徳にして聞くことを得るは、その縁を知り難し。烏豆の聚に一の緑豆あるが如し。ただし彼、聞くといへどもしかも信解せざるは、これ即ち薄徳の致す所なるのみ。[p308]
問ふ。仏、往昔に於て、具に諸度を修せしに、なほ八万歳に於てこの法を聞くことあたはざりき。いかんぞ、薄徳にして輒く聴聞することを得ん。たとひ希有なりとして許すともなほ道理に違はん。[p308]
答ふ。この義、知り難し。試みにこれを案じて云く、衆生の善悪に四位の別ありと。一には、悪用偏へに増す。この位には法を聞くことなし。法華に、「増上慢の人は、二百億劫、常に法を聞かず」と云ふが如し。二には、善用偏へに増す。この位には常に法を聞く。地・住已上の大菩薩等の如きなり。三には、善悪交際す。謂く、凡を捨てて聖に入らんとする時なり。この位の中には、一類の人ありて法を聞くこと甚だ難し。たまたま聞けば即ち悟る。常啼菩薩、須達の老女等の如きなり。或は魔の為に障へられ、或は自らの惑の為に障へられて、聞見することを隔てたりといへども、久しからずして即ち悟る。四には、善悪容やかに預る。この位には、善悪は同じくこれ生死流転の法なるが故に、多く法を聞くこと難し。悪の増すにはあらざるが故に、一向に無聞なるにはあらず。交際するにはあらざるが故に、聞くといへども巨益なし。六趣・四生に蠢々たる類、これなり。故に上人の中にもまた聞き難きものあり、凡愚の中にもまた聞く者あり。これまたいまだ決せず。後賢、取捨せよ。[p308-309]
問ふ。不信の者はいかなる罪報をか得るや。[p309]
答ふ。称揚諸仏功徳経の下巻に云く、[p309]
それ、阿弥陀仏の名号の功徳を讃嘆し称揚することを信ぜずして、謗毀することあらん者は、五劫の中、当に地獄に堕ちて、具さにもろもろの苦を受くべし。[p309]
と。[p309]
問ふ。もし深信なくして疑念を生ずる者は、終に往生せざるや。[p309]
答ふ。もし全く信ぜず、かの業を修せず、願求せざる者は、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修する者は、また往生することを得。双観経に云ふが如し。[p309]
もし衆生ありて、疑惑の心を以てもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願ひ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らず、この諸智に於て疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願はん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、当に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ざるべし。この故に、かの国土に於てはこれを胎生と謂ふ。[p309-310]
と。<已上> 仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当れり。しかも願の随に往生するは、これ仏の悲願の力なり。清浄覚経には、この胎生を以て中輩・下輩の人となせり。しかれども諸師の所釈、繁く出すことあたはず。[p310]
問ふ。仏智等と言ふは、その相いかん。[p310]
答ふ。憬興師は、仏地経の五法を以てせり。今は五智に名づく。謂く、清浄法界を仏智と名づけ、大円鏡等の四を以て、次での如く不思議等の四に当つるなり。玄一師は、仏智は前の如くなるも、後の四智を以て、逆に成事智等の四に対するなり。余の異解あれども、これを煩はしくすべからず。[p310]
第九に、助道の資縁とは、問ふ、凡夫の行人は要ず衣食を須ふ。これ小縁なりといへども、能く大事を弁ず。裸・wにして安からずは、道法いづくんぞあらん。[p310]
答ふ。行者に二あり。謂く、在家と出家となり。その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げんや。木経の瑠璃王の行の如し。その出家の人にまた三類あり。もし上根の者は草座・鹿皮、一菜・一菓なり。雪山大士の如き、これなり。もし中根の者は常に乞食・糞掃衣なり。もし下根の者は檀越の信施なり。ただし少しく所得あらば即便ち足を知る。具さには止観の第四の如し。いはんやまた、もし仏弟子にして、専ら正道を修し、貪求する所なき者、自然に資縁を具す。大論に云ふが如し。[p310-311]
譬へば、比丘の貪求する者は供養を得ず。貪求する所なければ則ち乏短する所なきが如し。心もまたかくの如し。もし分別して相を取れば則ち実法を得ず。[p311]
と。また大集月蔵分の中に、欲界の六天・日月星宿・天竜八部、おのおの仏前に於て誓願を発して言く、[p311]
もし仏の声聞の弟子にして、法に住し、法に順じ、三業相応して、しかも修行せん者をば、我等皆共に護持し養育し、所須を供給して、乏くる所なからしめん。もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚する所なきを護持し養育せん。[p311]
と。また言く、[p311]
もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚に住し、乃至、三業と法との相応せざらん者は、また当に棄捨すべし、また養育せず。[p311]
と。[p311]
問ふ。凡夫は必ずしも三業相応せず。もし欠漏することあらば、応に依怙なかるべし。[p311]
答ふ。かくの如き問難は、これ即ち懈怠にして道心なき者の致す所なり。もし誠に菩提を求め、誠に浄土を欣はん者は、むしろ身命を捨つとも、あに禁戒を破らんや。応に一世の勤労を以て、永劫の妙果を期すべきなり。いはんやまた、たとひ戒を破るといへどもその分なきにあらざるをや。同じ経に、仏の言ひたまへるが如し。[p311-312]
もし衆生ありて、わが為に出家し、鬚髪を剃除して袈裟を被服せんに、たとひ戒は持たずとも、彼等は悉く已に涅槃の印の為に印せられたるなり。もしまた出家して、戒を持たざる者に、非法を以てしかも悩乱を作し、罵辱し毀゙し、手に刀杖を以て打縛し斫截し、もしは衣鉢を奪ひ、及び種々の資生の具を奪ふことあらば、この人は則ち三世諸仏の真実の報身を壊り、則ち一切天人の眼目を挑るなり。この人は、諸仏の所有の正法と三宝の種を穏没せんと欲するが為の故に。もろもろの天人をして、利益を得ずして地獄に堕せしむるが故に。三悪道を増長して、盈満せしむるが為の故に。[p312]
と云々。[p312]
その時また一切の天・竜、乃至、一切の迦富単那・人非人等ありて、皆悉く合掌して、かくの如き言を作さく、「我等、仏の一切の声聞の弟子に於て、乃至、もしはまた禁戒を持たざらんも、鬚髪を剃除して袈裟の片をも著けたらん者をば、師長の想を作して護持し養育し、もろもろの所須を与へて、乏少することなからしめん。もし余の天・竜、乃至、迦富単那等ありて、その悩乱を作し、乃至、悪心にて眼を以てこれを視ば、我等悉く共に、かの天・竜富単那等の所有の諸相をして、欠減して醜陋ならしめん。彼をして、また我等と共に住し共に食することを得ず、亦また処を同じくして戲咲することも得ざらしめん。かくの如く擯罰せん」と。[p312]
と。<已上、取意> また云く、[p312]
その時、世尊、上首弥勒及び賢劫の中の一切の菩薩摩訶薩に告げて言はく、「もろもろの善男子。我、昔菩薩道を行ぜし時、曾て過去の諸仏如来に於てこの供養を作し、この善根を以てわが与に三菩提の因と作せり。我、今もろもろの衆生を憐愍するが故に、この報果を以て分ちて三分と作し、一分は留めて自ら受け、第二の分をば、わが滅後に於て、禅解脱三昧を堅固に相応する声聞に与へて、乏くる所なからしめ、第三の分をば、かの破戒にして、経典を読誦し、声聞に相応して、正法・像法に、頭を剃り、袈裟を著ん者に与へて、乏くる所なからしめん。弥勒。我、今また三業相応のもろもろの声聞衆、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷を以て、汝が手に寄付す。乏少孤独にして終らしむることなかれ。及び、正法・像法に、禁戒を毀破して、袈裟を著ん者を以て、汝が手に寄付す。彼等をして、もろもろの資具に於て、乏少にして終らしむることなかれ。また旋陀羅王の共に相悩害して身心に苦を受くることあらしむることなかれ。我、今またかのもろもろの施主を以て汝が手に寄付す」と。[p313]
と。<已上> 破戒すらなほしかり。いかにいはんや、持戒をや。声聞すらなほしかり。いかにいはんや、大心を発して至誠に念仏せんをや。[p313]
問ふ。もし、破戒の人もまた天竜の為に護念せられなば、いかんぞ、梵網経には、「五千の鬼神、破戒の比丘の跡を払ふ」と云ひ、涅槃経には、「国王・群臣、及び持戒の比丘は、応当に破戒の者を苦治し駈遣し呵嘖すべし」と云へるや。[p313]
答ふ。もし理の如き苦治は即ち仏教に順ずれども、もし理にあらざる悩乱は還りて聖旨に違ふ。故に相違はせざるなり。月蔵分に、仏の言へるが如し。[p313-314]
国王・群臣は、出家の者の、大罪業たる大殺生・大偸盗・大非梵行・大妄語、及び余の不善を作すを見ては、かくの如き等の類を、ただ当に法の如く、国土・城邑・村落より擯出して、寺にあることを聴さざるべし。亦また僧の事行を同じくすることを得ず、利養の分は悉く共に同じくせざるも、鞭打することを得ざれ。もし鞭打せば、理応ぜざる所なり。また亦、口もて罵辱すべからず。一切、その身に罪を加ふべからず。もし故ら法に違して罪をxむれば、この人は便ち解脱に於て退落し、必定して阿鼻地獄に帰趣せん。いかにいはんや、仏の為に出家して、具さに戒を持てる者を鞭打せんをや。[p314]
と。<略抄>[p314]
問ふ。人間の擯治は差別然るべし。非人の行はなほいまだ決了せず。梵網経には一向に跡を払ふも、月蔵経には一向に供給す。なんぞ忽ちに乖角せるや。[p314]
答ふ。罪福の旨を知らんが為には、要ずすべからく人の行を決すべし。必ずしも非人の所行を決すべからず。もしは制、もしは開、おのおの巨益を生ず。或はまた人の意楽の不同なるが如く、非人の願楽もまた不同なるのみ。学者、応に決すべし。[p314]
問ふ。因論生論、かの犯戒の出家の人に於て供養し悩乱せば、幾ばくの罪福を得るや。[p314]
答ふ。十輪経の偈に云く、[p314]
恒河沙の仏の 解脱幢相の衣を被たり これに於て悪心を起さば 定んで無間獄に堕ちなん[p314-315]
と。<袈裟を名づけて解脱幢の衣となす> 月蔵分に云く、[p315]
もし彼を悩乱せば、その罪は万億の仏身の血を出す罪よりも多し。もしこれを供養せば、なほ無量阿僧祇の大福徳聚を得ん。[p315]
と。<取意>[p315]
問ふ。もししからば、一向に応にこれを供養すべし。なんぞこれを治して大罪報を招くべきや。[p315]
答ふ。もしその力ありてこれを苦治せずは、彼もまた罪過を得ん。これ仏法の大いなる怨なり。故に涅槃経の第三に云く、[p315]
持法の比丘は、戒を破り正法を壊する者あるを見ては、即ち応に駆遣し、呵嘖し挙処すべし。もし善比丘、壊法の者を見て、置きて、呵嘖し駆遣し挙処せずは、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵嘖し挙処せば、これわが弟子にして、真の声聞なり。<乃至> もろもろの国王及び四部の衆は、応当にもろもろの学人等を勧励して、増上の戒・定・智慧を得しむべし。もしこの三品の法を学ばず、懈怠破戒にして正法を毀る者あらば、王者・大臣、四部の衆は応当に苦治すべし。[p315]
と。また云く、[p315]
もし比丘ありて、禁戒を持つといへども、利養の為の故に、破戒の者とともに坐起行来し、共に相親附し、その事業を同じくせば、これを破戒と名づく。<乃至> もし比丘ありて、阿蘭若処にあれども諸根利ならず。闇鈍yzにして少欲に乞食し、説戒の日及び自姿の時に於ては、もろもろの弟子に教へて清浄に懺悔せしめ、弟子にあらざるものの、多く禁戒を犯せるを見ては、教へて清浄に懺悔せしむることあたはず。しかも便ち与共に説戒し自姿せば、これを愚痴僧と名づく。[p315-316]
と。<已上、略抄> 明かに知んぬ、もしは過ぎ、もしは及ばざる、皆これ仏勅に違ふことを。その間の消息は都べて意を得るにあり。[p316]
第十に、助道の人法とは、略して三あり。一には、明師の内外の律を善くして、能く妨障を開除するを須ひて、恭敬し承習せよ。故に大論に云く、[p316]
また雨の堕つるに、山の頂に住らずして必ず下き処に帰するが如し。もし人、ュ心もて自ら高くすれば、則ち法水入らず。もし善き師を恭敬すれば、功徳これに帰す。[p316]
と。二には、同行の、共に嶮を渉るが如くするを須ひ、乃至、臨終まで互に相勧励せよ。故に法華に云く、[p316]
善知識はこれ大因縁なり。[p316]
と。また、[p316]
阿難言く、「善知識はこれ半因縁なり」と。仏の言はく、「しからず。これ全因縁なり」と。[p316]
と。三には、念仏相応の教文に於て、常に応に受持し披読し習学すべし。故に般舟経の偈に云く、[p316-317]
この三昧経は真の仏語なり たとひ遠方にこの経ありと聞くとも道法を用ての故に往きて聴受し 一心に諷誦して忘捨せざれ 仮使往きて求めて聞くことを得ざらんも その功徳の福は尽すべからず 能くその徳義を称量するものなし いかにいはんや聞き已りて即ち受持せんをや[p317]
と。<四十里・〔四〕百里・〔四〕千里を以て遠方となすなり>[p317]
問ふ。何等の教文か、念仏に相応するや。[p317]
答ふ。前に引く所の、西方の証拠の如きは皆これその文なり。しかれども、正しく西方の観行、并に九品の行果を明すことは、観無量寿経<一巻、薑良耶舎の訳>にはしかず。弥陀の本願、并に極楽の細相を説くことは、双観無量寿経<二巻、康僧鎧の訳>にはしかず。諸仏の相好、并に観相の滅罪を明すことは、観仏三昧経<十巻或は八巻、覚賢の訳>にはしかず。色身・法身の相、并に三昧の勝利を明すことは、般舟三昧経<三巻或は二巻、支婁迦の訳>・念仏三昧経<六巻或は五巻、功徳直、玄暢と共に訳す>にはしかず。修行の方法を明すことは、上の三経、并に十往生経<一巻>・十住毘婆沙論<十四巻或は十二巻、竜樹の造、羅什の訳>にはしかず。日々の読誦は、小阿弥陀経<一巻五紙、羅什の訳>にはしかず。偈を結びて惣じて説くことは、無量寿経優婆提舎願生偈<或は浄土論と名づけ、或は往生論と名づく。世親の造、菩提留支の訳、一巻>にはしかず。修行の方法は、多く摩訶止観<十巻>、及び善導和尚の観念法門并に六時礼讃<おのおの一巻>にあり。問答料簡は、多く天台の十疑<一巻>、道綽和尚の安楽集<二巻>、慈恩の西方要決<一巻>、懐感和尚の群疑論<七巻>にあり。往生の人を記すことは、多く迦才師の浄土論<三巻>并に瑞応伝<一巻>にあり。その余は多しといへども、要はこれに過ぎず。[p317-318]
問ふ。行人自ら応にかの諸文を学ぶべし。何が故ぞ、今労はしくこの文を著せるや。[p318]
答ふ。あに前に言はずや。予が如き者、広き文を披くこと難きが故に、いささかその要を抄すと。[p318]
問ふ。大集経に云く、[p318]
或は経法を抄写するに、文字を洗脱し、或は他の法を損壊し、或は他の経を闇蔵せり。この業縁に由りて、今盲の報を得。[p318]
と云々。しかるに今、経論を抄するに、或は多くの文を略し、或は前後を乱る。応にこれ生盲の因なるべし。なんぞ自ら害することをなすや。[p318]
答ふ。天竺・震旦の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取れり。故に知んぬ、経旨を錯乱するはこれ盲の因たるも、文字を省略するはもれ盲の因にあらざることを。いはんや、いま抄する所は、多く正文を引き、或はこれ諸師の出せる所の文なり。また繁き文を出すことあたはざるに至りては、注して、或は乃至と云ひ、或は略抄と云ひ、或は取意と云へるなり。これ即ち学者をして本文を勘へ易からしめんと欲してなり。[p318] 問ふ。引く所の正文は誠に信を生ずべし。ただしばしば私の詞を加へたるは、なんぞ人の謗を招かざらんや。[p318]
答ふ。正文にあらずといへども、しかも理を失はず。もしなほ謬あらば、いやしくもこれを執せず。見ん者、取捨して正理に順ぜしめよ。もし偏へに、謗を生ぜば、またあへて辞せず。華厳経の偈に云ふが如し。[p318-319]
もし菩薩の種々の行を修行するを見て 善・不善の心を起すことありとも 菩薩は皆摂取す[p319]
と。当に知るべし、謗を生ずるもまたこれ結縁なり。我もし道を得ば、願はくは彼を引摂せん。彼もし道を得ば、願はくは我を引摂せよ。乃至、菩提まで互に師弟とならん。[p319]
問ふ。因論生論、多日、筆を染めて身心を劬労せし、その功なきにあらず。何事をか期するや。[p319]
答ふ。「このもろもろの功徳に依りて 願はくは命終の時に於て 弥陀仏の無辺の功徳の身を見たてまつることを得ん 我及び余の信者と 既にかの仏を見たてまつり已らば願はくは離垢の眼を得て 無上菩提を証せん」となり。[p319]
往生要集 巻下
永観二年甲申冬十一月、天台山延暦寺首楞厳院に於て、この文を撰集し、明年夏四月、その功を畢れり。一僧ありて夢みらく、毘沙門天、両の}<音串>童を将ゐて、来り告げて云く、「源信、撰する所の往生集は皆これ経・論の文なり。一見・一聞の倫も、無上菩提を証すべし。すべからく一偈を加へて、広く流布せしむべし」と。他日、夢を語る。故に偈を〔作りて〕曰く、[p320]
已に聖教及び正理に依りて衆生を勧進して極楽に生れしむ 乃至展転して一たびも聞かん者 願はくは共に速かに無上覚を証せん[p320]
と。[p320]
仏子源信、暫く本山を離れ、西海道の諸州、名嶽・霊窟に頭陀せるに、たまたま遠客著岸の日、図らざるに会面せり。これ宿因なり。しかれどもなほ方語、いまだ通ぜず。帰朝おのおの促し、更に手礼に封じて、述ぶるに心懐を以てす。[p321]
側かに聞く、法公の本朝には三宝興隆すと。甚だ随喜す。わが国に東流の教も、仏日再び中る。当今、極楽界を剋念し、法華経に帰依する者、熾盛なり。仏子はこれ極楽を念ずるその一なり。本習深きを以ての故に、往生要集三巻を著して、観念に備へたり。それ一天の下、一法の中、皆四部の衆なり。いづれか親しく、いづれか疎からん。故にこの文を以て、あへて帰帆に附す。そもそも、本朝にありてもなほその拙きを慙づ。いはんや他郷に於てをや。しかれども、本より一願を発せしことなれば、たとひ誹謗の者ありとも、たとひ讃歎する者ありとも、併に我と共に往生極楽の縁を結ばん。また先師故慈恵大僧正<諱 良源>観音讃を作り、著作郎慶保胤、十六相讃及び日本往生伝を作り、前の進士為憲、法華経賦を〔作れり〕。同じくまた贈りて、異域の、この志あるものに知らしめんと欲す。[p321]
ああ、一生は{々たり。両岸蒼々たり。後会いかん。泣血するのみ。不宣以状。[p321]
正月十五日 天台楞厳院某申状
大宋国某賓旅下
返報
大宋国台州の弟子周文徳、謹んで啓す。[p322L2]
仲春漸く暖かにして、和風霞散す。伏して惟みれば、法位動きなく、尊体泰きことありや。不審し不審し。悚恐る悚恐る。ただ文徳、入朝の初、まづ方に向ひて禅室に礼拝せり。旧冬の内、便信を喜びて委曲を啓上せり。則ち大府の貫主、豊嶋の才人に書状一封を附して奉上つること先に畢んぬ。計みるに、披覧を経つらんか。欝望の情、朝夕休まず。馳憤の際に便脚に遇ひて、重ねて啓達す。ただ大師撰択の往生要集三巻は、捧持して天台の国清寺に詣り、附入すること既に畢んぬ。則ちその専当の僧、領状を予に請けたり。ここに緇素随喜し、貴賎帰依して、結縁の男女、弟子伍佰余人、おのおの虔心を発し、浄財を投捨し、国清寺に施入して、忽ち五十間の廊屋を飾り造れり。柱壁を彩画し、内外を荘厳し、供養し礼拝し、瞻仰し慶讃せり。仏日、光を重ね、法燈、朗かなるを盛にす。興隆仏法の洪基、往生極楽の因縁、ただここにあり。[p322]
方今、文徳、忝く衰弊の時に遇へども、衣食を取るの難を免れたり。帝皇の恩沢を仰ぎ、いまだ詔勅を隔てず。并日の食、|を重ねて塵を積まんとするも、なんぞ飢饉の惑を避けんや。伏して乞ふ、大師、照鑑を垂れよ。弟子、憤念の至りに勝へず。敬みて礼代の状を表す。不宣謹言。[p322]
二月十一日 大宋国弟子周文徳申状
謹上 天台楞厳院源信大師禅室 法座前