往生要集 巻上    尽第四門半

天台首楞厳院沙門源信撰
 序分
 それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎、、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや。[p010]
 この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披いてこれを修むるに、覚り易く行ひ易からん。惣べて十門あり。分ちて三巻となす。一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽の証拠、四には正修念仏、五には助念の方法、六には別時念仏、七には念仏の利益、八には念仏の証拠、九には往生の諸業、十には問答料簡なり。これを座右に置いて、廃忘に備へん。[p010]

 正宗分
 大文第一に、厭離穢土とは、それ三界は安きことなし、最も厭離すべし。今その相を明さば、惣べて七種あり。一には地獄、二には餓鬼、三には畜生、四には阿修羅、五には人、六には天、七には惣結なり。[p011]

 第一に、地獄にもまた分ちて八となす。一には等活、二には黒縄、三には衆合、四には叫喚、五には大叫喚、六には焦熱、七には大焦熱、八には無間なり。[p011]
 初に等活地獄とは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。縦広一万由旬なり。[p011]
 この中の罪人は、互に常に害心を懐けり。もしたまたま相見れば、猟者の鹿に逢へるが如し。おのおの鉄爪を以て互いにチみ裂く。血肉すでに尽きて、ただ残骨のみあり。或は獄卒、手に鉄杖・鉄棒を執り、頭より足に至るまで、遍く皆打ち築くに、身体破れ砕くること、猶し沙揣の如し。或は極めて利き刀を以て分々に肉を割くこと、厨者の魚肉を屠るが如し。涼風来り吹くに、尋いで活へること故の如し。ツ然としてまた起きて、前の如く苦を受く。或は云く、空中に声ありて云く、「このもろもろの有情、また等しく活へるべし」と。或は云く、獄卒、鉄叉を以て地を打ち、唱へて「活々」と云ふと。かくの如き等の苦、具さに述ぶべからず。<已上は、智度論・瑜伽論・諸経要集に依りて、これを撰ぶ>[p011]
 人間の五十年を以て四天王天の一日一夜となして、その寿五百歳なり。四天王天の寿を以てこの地獄の一日一夜となして、その寿五百歳なり。殺生せる者、この中に堕つ。<已上の寿量は倶舎に依り、業因は正法念経に依る。下の六もまたこれに同じ>優婆塞戒経には、初天の一年を以て初地獄の日夜となす。下去はこれに准ず。[p011-012]
 この地獄の四門の外にまた十六の眷属の別処あり。[p012]
 一には、屎泥処。謂く、極熱の屎泥あり。その味、最も苦し。金剛の嘴の虫、その中に充ち満てり。罪人、中にありてこの熱屎を食ふ。もろもろの虫、聚り集りて、一時に競ひ食ふ。皮を破りて肉をみ、骨を折いて髄をヲふ。昔、鹿を殺し鳥を殺せる者、この中に堕つ。[p012]
 二には、刀輪処。謂く、鉄の壁、周りアりて高さ十由旬なり。猛火熾然にして、常にその中に満てり。人間の火はこれに比ぶるに雪の如し。纔かにその身に触るるに、砕くること芥子の如し。また熱鉄を雨らすこと、猶し盛んなる雨の如し。また刀林あり。その刃、極めて利し。また両刃ありて、雨の如くにして下る。衆苦こもごも至りて堪へ忍ぶべからず。昔、物を貪りて殺生せる者、この中に堕つ。[p012]
 三には瓮熟処。謂く、罪人を執りて鉄の瓮の中に入れ、煎り熟すること豆の如し。昔、殺生して煮て食へる者、この中に堕つ。[p012]
 四には、多苦処。謂く、この地獄には十千億種の無量の楚毒あり。具さに説くべからず。昔、縄を以て人を縛り、杖を以て人を打ち、人を駈りて遠き路に行かしめ、嶮しき処より人を落し、煙を薫べて人を悩まし、小児を怖れしむ。かくの如き等の、種々に人を悩ませる者、皆この中に堕つ。[p012]
 五には、闇冥処。謂く、黒闇の処にありて、常に闇火の為に焼かる。大力の猛風金剛の山を吹き、合せ磨り、合せ砕くこと、猶し沙を散らすが如し。熱風に吹かるること、利き刀の割くが如し。昔、羊の口・鼻を掩ぎ、二のトの中に亀を置きて押し殺せる者、この中に堕つ。[p013]
 六には、不喜処。謂く、大火炎ありて昼夜に焚焼す。熱炎の嘴の鳥・狗犬・野干ありて、その声、極悪にして甚だ怖畏すべし。常に来りて食ひみ、骨肉狼藉たり。金剛の嘴の虫、骨の中に往来して、その髄を食ふ。昔、貝を吹き、鼓を打ち、畏るべき声を作して鳥獣を殺害せる者、この中に堕つ。[p013]
 七には、極苦処。謂く、嶮しき岸の下にありて、常に鉄火の為に焼かる。昔、放逸にして殺生せる者、この中に堕つ。<已上は正法念経に依る。自余の九処は経の中に説かず>[p013]
 二に黒縄地獄とは、等活の下にあり。縦広、前に同じ。[p013]
 獄卒、罪人を執へて熱鉄の地に臥せ、熱鉄の縄を以て縦横に身に絣き、熱鉄の斧を以て縄に随ひて切り割く。或は鋸を以て解け、或は刀を以て屠り、百千段と作して処々に散らし在く。また、熱鉄の縄を懸けて、交へ横たへること無数、罪人を駈りてその中に入らしむるに、悪風暴かに吹いて、その身に交へ絡まり、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極りなし。<已上、瑜伽論・智度論>[p013]
 また、左右に大いなる鉄の山あり。山上におのおの鉄の幢を建て、幢の頭に鉄の縄を張り、縄の下には多く熱きウあり。罪人を駈り、鉄の山を負ひて縄の上より行かしめ、遥かに鉄のウに落して摧き煮ること極りなし。<観仏三昧経>等活地獄及び十六処の、一切の諸苦を十倍して重く受く。[p013-014]
 獄卒、罪人を呵嘖して云く、「心はこれ第一の怨なり。この怨、最も悪となす。この怨、能く人を縛り、送りて閻羅の処に到らしむ。汝、独り地獄に焼かれ、悪業の為に食はる。妻子・兄弟等の親眷も救ふことあたはず」と。<乃至、広く説く>[p014]
 後の五の地獄は、おのおの前々の一切の地獄のあらゆる諸苦を以て十倍して重く受くること、例してこれを知るべし。<已上は正法念経の意>[p014]
 人間の一百歳を以てヒ利天の一日夜となして、その寿一千歳なり。ヒ利天の寿を以て一日夜となして、この地獄の寿一千歳なり。殺生・偸盗せる者、この中に堕つ。
 また異処あり。等喚受苦処と名づく。謂く、嶮しき岸の無量由旬なるに挙げ在き、熱炎の黒縄にて束ね縛り、繋ぎ已りて、しかして後にこれを推して、利き鉄刀の熱地の上に堕す。鉄炎の牙の狗にみ食はれ、一切の身分、分々に分離す。声を唱へて吼え喚へども、救ふ者あることなし。昔、法を説くに悪見の論に依り、一切不実にして一切を顧みず、岸に投げて自殺せる者、ここに堕つ。[p014]
 また異処あり。畏熟処と名づく。謂く、獄卒、杖を怒らせて急に打ち、昼夜に常に走り、手に火炎の鉄刀を執り、弓を挽き、箭を弩へ後に随ひて走り逐ひ、斫り打ちて、これを射る。昔、物を貪るが故に、人を殺し、人を縛りて、食を奪へる者、ここに堕つ。<正法念経の略抄>[p014]
 三に衆合地獄とは、黒縄の下にあり。縦広、前に同じ。[p015]
 多く鉄の山ありて、両々相対す。牛頭・馬頭等のもろもろの獄卒、手に器仗を執り、駈りて山の間に入らしむ。この時、両の山、迫り来りて合せ押すに、身体摧け砕け、血流れて地に満つ。或は鉄の山ありて空より落ち、罪人を打ちて砕くこと沙揣の如し。或は石の上に置き巌を以てこれを押し、或は鉄の臼に入れ鉄の杵を以て擣く。極悪の獄鬼、并に熱鉄の師子・虎・狼等のもろもろの獣、烏・鷲等の鳥、競ひ来りて食ひむ。<瑜伽・大論> また鉄炎の嘴の鷲、その腸を取り已りて樹の頭に掛け在き、これをみ食ふ。[p015]
 かしこに大いなる江あり。中に鉄の鉤ありて皆悉く火に燃ゆ。獄卒、罪人を執りて、かの河の中に擲げ、鉄の鉤の上に堕す。またかの河の中に熱き赤銅の汁ありて、かの罪人をスはす。或は身、日の初めて出づるが如き者あり。身沈没すること重き石の如き者あり。手を挙げ、天に向ひて号び哭く者あり。共に相近づいて号び哭く者あり。久しく大苦を受くれども、主なく、救ふものなし。[p015]
 またふたたび獄卒、地獄の人を取りて刀葉の林に置く。かの樹の頭を見れば、好き端正厳飾の婦女あり。かくの如く見已りて、即ちかの樹に上るに、樹の葉、刀の如くその身の肉を割き、次いでその筋を割く。かくの如く一切の処を劈き割いて、已に樹に上ることを得已りて、かの婦女を見れば、また地にあり。欲の媚びたる眼を以て、上に罪人を看て、かくの如きの言を作す、「汝念ふ因縁もて、我、この処に到れり。汝、いま何が故ぞ、来りて我に近づかざる。なんぞ我を抱かざる」と。罪人見已りて、欲心熾盛にして、次第にまた下るに、刀葉上に向きて利きこと剃刀の如し。前の如く遍く一切の身分を割く。既に地に到り已るに、かの婦女はまた樹の頭にあり。罪人見已りて、また樹に上る。かくの如く無量百千億歳、自心に誑かされて、かの地獄の中に、かくの如く転り行き、かくの如く焼かるること、邪欲を因となす。<乃至、広く説く>獄卒、罪人を呵嘖して、偈を説いて曰く、[p015-016]
異人の作れる悪もて 異人、苦の報を受くるにあらず 自業自得の果なり 衆生皆かくの如し[p016]
と。<正法念経>[p016]
 人間の二百歳を以て夜摩天の一日夜となして、その寿二千歳なり。かの天の寿を以て、この地獄の一日夜となして、その寿二千歳なり。殺生・偸盗・邪婬の者、この中に堕つ。[p016]
 この大地獄にまた十六の別所あり。[p016]
 謂く、一処あり。悪見処と名づく。他の児子を取り、強ひて邪行を逼り、号び哭かしめたる者、ここに堕ちて苦を受く。謂く、罪人、自の児子を見るに、地獄の中にあり。獄卒、もしは鉄杖を以て、もしは鉄錐を以て、その陰中を刺し、もしは鉄鉤を以て、その陰中に釘つ。既に自の子のかくの如きの苦事を見て、愛心悲絶して堪へ忍ぶべからず。この愛心の苦は、火焼の苦においては十六分の中、その一にも及ばず。かの人、かくの如く心の苦に逼られ已りてまた身の苦を受く。謂く、頭面を下に在き、熱き銅の汁を盛りて、その糞門に潅ぎ、その身の内に入れて、その熟蔵・大小の腸等を焼く。次第に焼き已れば、下にありて出づ。具さに身心の二苦を受くること、無量百千年の中に止まず。[p016-017]
 また別所あり。多苦悩と名づく。謂く、男の、男において邪行を行ぜし者、ここに堕ちて苦を受く。謂く、本の男子を見れば、一切の身分、皆悉く熱炎あり。来りてその身を抱くに、一切の身分、皆悉く解け散る。死し已りてまた活へり、極めて怖畏を生じ、走り避けて去るに、嶮しき岸に堕ち、炎の嘴の烏、炎の口の野干ありて、これをみ食ふ。[p017]
 また別所あり。忍苦処と名づく。他の婦女を取れる者、ここに堕ちて苦を受く。謂く、獄卒、これを樹の頭に懸けて、頭面を下に在き、足を上に在き、下に大いなる炎を燃やして、一切の身分を焼く。焼け尽きてまた生く。唱へ喚ばはらんとして口を開けば、火は口より入りて、その心・肺・生熟の蔵等を焼く。余は経に説くが如し。<已上は正法念経の略抄>[p017]
 四に叫喚地獄とは、衆合の下にあり。縦広、前に同じ。
 獄卒の頭、黄なること金の如く、眼の中より火出で、赭色の衣を著たり。手足長大にして疾く走ること風の如く、口より悪声を出して罪人を射る。罪人、惶れ怖れて、頭を叩き、哀れみを求む。「願はくは、慈愍を垂れて、少しく放し捨かれよ」と。この言ありといへども、いよいよ瞋怒を増す。<大論>[p017]
 或は鉄棒を以て頭を打ちて熱鉄の地より走らしめ、或は熱きカに置き反覆してこれを炙り、或は熱きウに擲げこれを煎じ煮る。或は駈りて猛炎の鉄の室に入らしめ、或は鉗を以て口を開いて洋銅を潅ぎ、五蔵を焼き爛らせて下より直ちに出す。<瑜伽論・大論>[p017]
 罪人、偈を説き、閻羅人を傷み恨んで言く、[p018]
汝なんぞ悲心なき またなんぞ寂静ならざる 我はこれ悲心の器 我においてなんぞ悲なきや[p018]
と。時に閻羅人、罪人に答へて曰く、
己、愛羂に誑られて 悪・不善の業を作り 今悪業の報を受く 何が故ぞ我を瞋り恨むる[p018]
と。また云く、
汝、本悪業を作りて 欲痴の為に誑らる かの時なんぞ悔いざる 今悔ゆとも何の及ぶ所ぞ[p018]
と。<正法念経>
 人間の四百歳を以て覩率天の一日夜となして、その寿四千歳なり。都率の寿を以てこの獄の一日夜となして、その寿四千歳なり。殺・盗・婬・飲酒の者、この中に堕つ。[p018]
 また十六の別所あり。その中に一処あり。火末虫と名づく。昔、酒を売るに、水を加へ益せる者、この中に堕ち、四百四病<風を黄と冷と雑と、おのおの百一の病あり。合せて四百四あり>を具す。その一の病の力は、一日夜において能く四大洲の若干の人をして皆死せしむ。また身より虫出でて、その皮・肉・骨・髄を破りて飲み食ふ。[p018]
 また別所あり。雲火霧と名づく。昔、酒を以て人に与へ、酔はしめ已りて、調り戯れ、これを弄び、かれをして羞恥せしめし者、ここに堕ちて苦を受く。謂く、獄火の満ること、厚さ二百肘なり。獄卒、罪人を捉へて火の中に行かしむるに、足より頭に至るまで一切洋き消え、これを挙ればまた生く。かくの如く無量百千歳、苦を与ふること止まず。余は経文の如し。また獄卒、罪人を呵嘖し、偈を説いて云く、[p018-019]
仏の所において痴を生じ 世・出世の事を壊り 解脱を焼くこと火の如くなるは いはゆる酒の一法なり[p019]
と。<正法念経>[p019]
 五に大叫喚地獄とは、叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。[p019]
 苦の相もまた同じ。但し前の四の地獄、及びもろもろの十六の別所の、一切の諸苦を十倍して重く受く。[p019]
 人間の八百歳を以て化楽天の一日夜となして、その寿八千歳なり。かの天の寿を以て、この獄の一日夜となして、その寿八千歳なり。殺・盗・婬・飲酒・妄語の者、この中に堕つ。[p019]
 獄卒、前に罪人を呵嘖し、偈を説いて云く、
妄語は第一の火なり なほ能く大海を焼く いはんや妄語の人を焼くこと 草木の薪を焼くが如し[p019]
と。
 また十六の別所あり。その中の一処を受鋒苦と名づく。熱鉄の利き針にて口舌倶に刺され、啼き哭ぶことあたはず。[p019]
 また別所あり。受無辺苦と名づく。獄卒、熱鉄の鉗を以てその舌を抜き出す。抜き已ればまた生じ、生ずれば則ちまた抜く。眼を抜くこともまた然り。また刀を以てその身を削る。刀の甚だ薄く利きこと、剃頭の刀の如し。かくの如き等の異類の諸苦を受くること、皆これ妄語の果報なり。余は経に説くが如し。<正法念経の略抄>[p020]
 六に焦熱地獄とは、大叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。[p020]
 獄卒、罪人を捉へて熱鉄の地の上に臥せ、或は仰むけ、或は覆せ、頭より足に至るまで、大いなる熱鉄の棒を以て、或は打ち、或は築いて、肉摶の如くならしむ。或は極熱の大いなる鉄カの上に置き、猛き炎にてこれを炙り、左右にこれを転がし、表裏より焼き薄む。或は大いなる鉄の串を以て下よりこれを貫き、頭を徹して出し、反覆してこれを炙り、かの有情の諸根・毛孔、及以び口の中に悉く皆炎を起さしむ。或は熱きウに入れ、或は鉄の楼に置くに、鉄火猛く盛んにして骨髄に徹る。<瑜伽論・大論>[p020]
 もしこの獄の豆許の火を以て閻浮提に置かば、一時に焚け尽さん。いはんや罪人の身は。かなること生蘇の如し。長時に焚焼せば、あに忍ぶべけんや。この地獄に人、前の五の地獄に火を望み見ること、猶し霜雪の如し。<正法念経>[p020]
 人間の千六百歳を以て他化天の一日夜となして、その寿万六千歳なり。他化天の寿を以て日夜となして、この獄の寿もまた然り。殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見の者、この中に堕つ。「p020]
 四門の外にまた十六の別所あり。その中に一処あり。分荼離迦と名づく。謂く、かの罪人の一切の身分に、芥子許も火炎なき処なし。異の地獄の人、かくの如く説いて言く、「汝、疾く速かに来れ。汝、疾く速かに来れ。ここに分荼離迦の池あり。水ありて飲むべく、林に潤へる影あり」と。随ひて走り趣くに、道の上に坑ありて、中に熾なる火満てり。罪人、入り已りて、一切の身分、皆悉く焼け尽く。焼け已ればまた生じ、生じ已ればまた焼く。渇欲息まず。便ち前に進み入る。既にかの処に入れば、分荼離迦の炎の燃ゆること、高さ五百由旬なり。かの火に焼き炙られ、死してまた活へる。もし人、自ら餓死して、天に生るることを得んと望み、また他人に教へて邪見に住まらしめたる者、この中に堕つ。[p021]
 また別所あり。闇火風と名づく。謂く、かの罪人、悪風に吹かれ、虚空の中にありて、所依の処なし。輪の如く疾く転じて、身見るべからず。かくの如く転じ已るに、異る刀風生じて、身を砕くこと沙の如く、十方に分散す。散じ已ればまた生じ、生じ已ればまた散ず。恒常にかくの如し。もし人、かくの如きの見を作さん、「一切の諸法には、常と無常とあり。無常のものは身なり。常のものは四大なり」と。かの邪見の人、かくの如き苦を受く。余は経に説くが如し。<正法念経>[p021]
 七に大焦熱地獄とは、焦熱の下にあり。縦広、前に同じ。[p021]
 苦の相もまた同じ。<大論・瑜伽論> ただし、前の六の地獄の根本と別所との、一切の諸苦を十倍して具さに受く。具さに説くべからず。[p021]
 その寿、半中劫なり。殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見、并に浄戒の尼をヤせる者、この中に堕つ。[p021]
 この悪業の人は、まづ中有において大地獄の相を見るに、閻羅人ありて、面に悪しき状あり。手足極めて熱くして、身を捩じ肱を怒らす。罪人これを見て、極めて大いにネ怖す。その声、雷の吼ゆるが如し。罪人これを聞くに恐怖更に増す。その手に利き刀を執り、腹肚甚だ大にして、黒雲の色の如し。眼の炎は燈の如く、鉤れる牙は鋒のごとく利し。臂・手、皆長く、揺り動かして勢を作すに、一切の身分、皆悉く麁く起つ。かくの如き種々の畏るべき形状にて、堅く罪人の咽を繋へ、かくの如くして将ゐて去るに、六十八百千由旬の地海洲城を過ぎて、海の外辺にあり。また行くこと三十六億由旬にして、漸々に下に向ひて十億由旬なり。[p022]
 一切の風の中には業風を第一とす。かくの如き業風、悪業の人を将ゐ去りて、かの処に到る。既にかしこに到り已れば、閻魔羅王、種々に呵嘖す。呵嘖既に已れば、悪業の羂にて縛られ、出でて地獄に向ふ。遠く大焦熱地獄の普く大炎の燃ゆるを見、また地獄の罪人の啼き哭ぶ声を聞く。悲しみ愁へ、恐るる魄もて、無量の苦を受く。かくの如く無量百千万億無数の年歳のあひだ、啼き哭ぶ声を聞き、十倍して魄を恐れしめ、心驚き怖畏す。閻羅人、これを呵嘖して言く、[p022]
汝、地獄の声を聞いて 已にかくの如く怖畏す いかにいはんや地獄に焼かるること乾ける薪草を焼くが如くなるをや 火の焼くはこれ焼くにあらず 悪業乃ちこれ焼くなり 火の焼くは則ち滅すべし 業の焼くは滅すべからず[p022]
と云々。かくの如く苦に呵嘖し已りて、将ゐて地獄に向ふに、大いなる火聚あり。その聚、挙れる高さ五百由旬なり。その量、寛く広がれること二百由旬なり。炎の燃えて熾盛なるは、かの人の所作の悪業の勢力なり。急にその身を擲げてかの火聚に堕すこと、大いなる山の岸より推して険しき岸に在くが如し。<已上は正法念経の略抄>[p022-023]
 この大焦熱地獄の四門の外に、十六の別所あり。その中の一処は、一切間なく、乃至虚空まで皆悉く炎の燃えて、針の孔許も炎の燃えざる処なし。罪人、火の中にて声を発し、唱へ喚べども、無量億歳、常に焼かるること止まず。清浄の優婆夷を犯せる者、この中に堕つ。[p023]
 また別所あり。普受一切苦悩と名づく。謂く、炎の刀にて一切の身の皮を剥ぎ割いて、その肉を侵さず。既にその皮を剥げば、身と相連ねて熱き地に敷き在き、火を以てこれを焼き、熱鉄の沸けるを以てその身体に潅ぐ。かくの如く無量億千歳、大苦を受くるなり。比丘にして、酒を以て、持戒の婦女を誘ひ誑かし、その心を壊り已りて、しかる後、共に行じ、或は財物を与へたる者、この中に堕つ。余は経に説くが如し。<正法念経の略抄>[p023]
 八に阿鼻地獄とは、大焦熱の下、欲界の最低の処にあり。[p023]
 罪人、かしこに趣き向ふ時、まづ中有の位にして、啼き哭び、偈を説いて言く、
一切はただ火炎なり 空に遍して中間なし 四方及び四維 地界にも空しき処なし 一切の地界の処に 悪人皆遍満せり 我、今帰する所なく 孤独にして同伴なし 悪処の闇の中にありて 大火炎聚に入る 我、虚空の中に於て 日月星を見ざるなり[p023]
と。時に閻羅人、瞋怒の心を以て答へて曰く、[p023]
或は増劫或は減劫に 大火、汝が身を焼く 痴人已に悪を作る 今何を用てか悔を生ずる これ天・修羅・健達婆・竜・鬼のなせるにあらず 業の羅に繋縛せられたるなり 人の能く汝を救ふものなし 大海の中に於て ただ一掬の水を取るが如し この苦は一掬の如し 後の苦は大海の如し[p024]
と。既に呵嘖し已れば将ゐて地獄に向ふ。かれを去ること二万五千由旬にして、かの地獄の啼き哭ぶ声を聞き、十倍に悶絶す。頭面は下にあり、足は上にありて、二千年を逕て、皆下に向ひて行く。<正法念経の略抄>[p024]
 かの阿鼻城は、縦広八万由旬にして、七重の鉄城、七層の鉄網あり。下に十八の隔ありて、刀林周りアる。四の角に四の銅の狗あり、身の長四十由旬なり。眼は電の如く、牙は剣の如く、歯は刀の山の如く、舌は鉄の刺の如し。一切の毛孔より皆猛火を出し、その烟、臭悪にして世間に喩ふるものなし。十八の獄卒あり。頭は羅刹の如く、口は夜叉の如し。六十四の眼ありて鉄丸を迸り散らし、鉤れる牙は上に出でて、高さ四由旬、牙の頭より火流れて阿鼻城に満つ。頭の上には八の牛頭あり。一々の牛頭に十八の角ありて、一々の角の頭より皆猛火を出す。また七重の城の内には七の鉄幢あり。幢の頭より火の踊ること、猶し沸れる泉の如く、その炎、流れ迸りて、また城の内に満つ。四門のヌの上に八十の釜あり。沸れる銅、涌き出でて、また城の内に満つ。一々の隔の間に、八万四千の鉄の蟒・大蛇ありて、毒を吐き、火を吐いて、身城の内に満つ。その蛇の哮び吼ゆること、百千の雷の如く、大いなる鉄丸を雨らして、また城の内に満つ。五百億の虫あり。八万四千の嘴ありて、嘴の頭より火流れ、雨の如く下る。この虫の下る時、獄火いよいよ盛んにして、遍く八万四千由旬を照す。また八万億千の苦の中の苦は、集まりてこの中にあり。<観仏三昧経の略抄>[p024-025]
 瑜伽の第四に云く、[p025]
東方の多百踰繕那、三熱の大鉄地の上より、猛く熾んなる火ありて、焔を騰げて来り、かの有情を刺す。皮を穿ちて肉に入り、筋を断ちて骨を破り、またその髄に徹り、焼くこと脂燭の如し。かくの如く身を挙げて皆猛焔と成る。東方よりするが如く、南・西・北方も亦またかくの如し。この因縁に由りて、かのもろもろの有情、猛焔と和し雑り、ただ火聚の、四方より来るを見るのみ。火焔、和し雑り、間隙あることなく、受くる所の苦痛もまた間隙なし。ただ苦に逼られて号き叫ぶ声を聞くのみにて、衆生あるを知る。また鉄の箕を以て、三熱の鉄・炭を盛り満たしてこれを簸り揃へ、また熱鉄の地の上に置いて、大いなる熱鉄の山に登らしむ。上りてはまた下り、下りてはまた上る。その口中よりその舌を抜き出し、百の鉄釘を以て、しかもこれを張り、皺シなからしむること、牛の皮を張るが如し。また更に熱鉄の地の上に仰ぎ臥せ、熱鉄の鉗を以て口を鉗みて開かしめ、三熱の鉄丸を以てその口中に置くに、即ちその口及以び咽喉を焼き、府蔵を徹りて下より出づ。また洋銅を以てその口に潅ぐに、喉及び口を焼き、府蔵を徹りて下より流れ出づ。[p025]
と。<已上。瑜伽に三熱と言ふは、焼燃・極焼燃・遍極焼燃なり>[p025]
 七大地獄と并及に別所の一切の諸苦を、以て一分とせんに、阿鼻地獄は一千倍して勝れり。かくの如くなれば、阿鼻地獄の人は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見るが如し。四天下の処、欲界の六天も、地獄の気を聞がば即ち皆消え尽きなん。何を以ての故に。地獄の人は極めて大だ臭きを以ての故に。地獄の臭気、何が故に来らずとならば、二の大山ありて、一を出山と名づけ、二を没山と名づけ、かの臭気を遮ればなり。もし人、一切の地獄の所有の苦悩を聞かば、皆悉く堪へざらん。これを聞かば則ち死せん。かくの如くなれば、阿鼻大地獄の処は、千分の中に於て一分をも説かず。何を以ての故に。説き尽すべからず、聴くことを得べからず、譬喩すべからざればなり。もし人ありて説き、もし人ありて聴かば、かくの如き人は血を吐いて死せん。<正法念経の略抄>[p026]
 この無間地獄は寿一中劫なり。<倶舎論> 五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯し、虚しく信施を食へる者、この中に堕つ。<観仏三昧経に依る>[p026]
 この無間地獄の四門の外にもまた十六の眷属の別所あり。その中の一処を鉄野干食処と名づく。謂く、罪人の身の上に火の燃ゆること十由旬量なり。もろもろの地獄の中に、この苦最も勝れり。また鉄のトを雨らすこと盛夏の雨の如く、身体の破れ砕くること猶し乾脯の如し。炎の牙ある野干、常に来りて食ひみ、一切の時に於て苦を受くること止まず。昔、仏像を焼き、僧房を焼き、僧の臥具を焼きし者、この中に堕つ。[p026]
 また別処あり。黒肚処と名づく。謂く、飢渇身を焼き、自らその肉を食ふ。食ひ已ればまた生じ、生じ已ればまた食ふ。黒き肚の蛇ありて、かの罪人に繞ひ、始め足の甲より漸々に齧み食ふ。或は猛火に入れて焚焼し、或は鉄のウに在いて煎り煮る。無量億歳、かくの如き苦を受く。昔、仏の財物を取りて食ひ用ひたる者、この中に堕つ。[p026-027]
 また別所あり。雨山聚処と名づく。謂く、一由旬量の鉄山、上より下りて、かの罪人を打ち、砕くること沙揣の如し。砕け已ればまた生じ、生じ已ればまた砕く。また十一の炎あり、周り遍りて身を焼く。また獄卒、刀を以て遍く身分を割き、極熱の白鑞の汁をその割けたる処に入る。四百四病、具足して常にあり。長久に苦を受けて年歳あることなし。昔、辟支仏の食を取り、自ら食ひて与へざりし者、ここに堕つ。[p027]
 また別所あり。閻婆度処と名づく。悪鳥あり、身の大きさ象の如し。名づけて閻婆と曰ふ。嘴利くして炎を出す。罪人を執りて遥かに空中に上り、東西に遊行し、しかる後これを放つに、石の地に堕つるが如く、砕けて百分となる。砕け已ればまた合し、合し已ればまた執る。また利き刃、道に満ちて、その足脚を割く。或は炎の歯ある狗あり、来りてその身を齧む。長久の時に於て大いなる苦悩を受く。昔、人の用ふる〔河を〕決断して、人をして渇死せしめたる者、ここに堕つ。余は経に説くが如し。<已上、正法念経>[p027]
 瑜伽の第四に、通じて八大地獄の近辺の別所を説いて云く、[p027]
謂く、かの一切のもろもろの大那落迦には、皆、四方に四の岸と四の門ありて、鉄墻囲ひ遶る。その四方の四の門より出で已れば、その一々の門の外に四の出園を置く。謂く、ケサありて膝に斉し。かのもろもろの有情、出でて舎宅を求めんが為に遊行してここに至る。足を下す時、皮肉及び血、並に即ち消け爛る。足を挙ぐればまた生ず。[p027-028]
次にこのケサより間なくして即ち死屍糞泥あり。このもろもろの有情、舎宅を求めんが為に、かしこより出で已りて、漸々に遊行し、その中に陥ち入るに、首足倶に没す。また屍糞泥の内に、多くもろもろの虫あり。嬢矩と名づく。皮を穿ちて肉に入り、筋を断ちて骨を破り、髄を取りて食ふ。[p028]
次に屍糞泥より間なくして、利き刀剣の、刃を仰けて路となすあり。かのもろもろの有情、舎宅を求めんが為に、かしこより出で已りて、遊行してここに至る。足を下す時、皮肉筋血、悉く皆消け爛る。足を挙ぐる時、また復すること故の如し。[p028]
次に刀剣の刃の路より間なくして刃の葉の林あり。かのもろもろの有情、舎宅を求めんが為に、かしこより出で已りて、往いてかの陰に趣き、纔にその下に坐るに、微風逐ひ起りて刃の葉堕落し、その身の一切の支節を斫り截つに、便即ち地にャる。黒ィの狗あり、背・胎をOみ掣いて、これをみ食ふ。[p028]
この刃の葉の林より間なくして鉄設柆末梨の林あり。かのもろもろの有情、舎宅を求めんが為に、便ちここに来り趣き、遂にその上に登る。これに登る時に当つて、一切の刺鋒、悉く廻りて下に向き、これを下らんと欲する時、一切の刺鋒、また廻りて上に向く。この因縁に由りて、その身を貫き刺すこと、もろもろの支節に遍し。その時、便ち鉄のクある大いなる烏ありて、かの頭上に上り、或はそのキに上り、眼精を探り啄んで、これをみ食ふ。[p028]
鉄設柆末梨の林より間なくして広大なる河あり。沸れる熱き灰水、その中に弥ち満つ。かのもろもろの有情、舎宅を尋ね求めて、かしこより出で已りて、来りてこの中に堕つ。猶し豆を以てこれを大いなるウに置き、猛く熾んなる火を燃いて、これを煎り煮るが如し。湯の騰り湧くに随ひて、周旋して廻り復る。河の両岸に於て、もろもろの獄卒あり。手に杖索及以び大網を執りて、行列して往ち、かの有情を遮りて、出づることを得しめず。或は索を以て羂け、或は網を以て漉ふ。また広大なる熱鉄の地の上に置き、かの有情を仰けて、これに問うて言ふ、「汝等、いま何の須む所をか欲するや」と。かくの如く答へて言ふ、「我等いま竟に覚知することなし。しかも種々の飢苦の為に逼らる」と。時にかの獄卒、即ち鉄の鉗を以て、口を鉗んで開けしめ、便ち極熱の焼け燃えたる鉄丸を以てその口中に置く。余は前に説けるが如し。もし彼答へて、「我今、ただ渇苦の為に逼らる」と言はば、その時、獄卒、便即ち洋銅を以てその口に潅ぐ。この因縁に由りて長時に苦を受く。乃至、先世に造る所の一切の〔悪業〕、能く那落迦を感じ、悪・不善の業いまだ尽きざれば、いまだこの中を出でず。もしは刀剣・刃路、もしは刃葉の林、もしは鉄設柆末梨の林、これをべて一となす。故に四の園あるなり。[p029]
と。<已上は瑜伽并に倶舎の意なり。一々の地獄の四の門の外におのおの四の園あり。合して十六となす。正法念経の、八大地獄の十六の別処の名相の、おのおの別なるに同じからず> またァ部陀等の八寒地獄あり。具さには経論の如し。これを述ぶるに遑あらず。[p029]
 第二に、餓鬼道を明さば、往処に二あり。一は地の下五百由旬にあり。閻魔王界なり。二は人・天の間にあり。[p030]
 その相、甚だ多し。いま少分を明さば、或は鬼あり。ウ身と名づく。その身の長大にして、人に過ぐること両倍、面・目あることなく、手足は猶しウの脚の如し。熱き火中に満ちて、その身を焚焼す。昔、財を貪り、屠り殺せし者、この報を受く。
 或は鬼あり。食吐と名づく。その身広大にして長半由旬なり。常に嘔吐を求むるに、困んで得ることあたはず。昔、或は丈夫、自ら美食をひて妻子に与へず、或は婦人、自ら食ひて夫・子に与へざりしもの、この報を受く。[p030]
 或は鬼あり。食気と名づく。世人の、病に依りて、水の辺、林の中に祭を設くるに、この香気を嗅ぎて、以て自ら活命す。昔、妻子等の前に於て独り美食をへる者、この報を受く。[p030]
 或は鬼あり。食法と名づく。嶮難の処に於て馳け走りて食を求む。色は黒雲の如く、涙の流るること雨の如し。もし僧寺に至りて、人の呪願し説法することある時は、これに因りて力を得て活命す。昔、名利を貪らんが為に不浄に説法せし者、この報を受く。[p030]
 或は鬼あり。食水と名づく。飢渇身を焼き、周惶して水を求むるに、困んで得ることあたはず。長き髪面を覆ひ、目見る所なく、河の辺に走り趣いて、もし人河を渡りて、脚足の下より遺し落せる余水あれば、速かに疾く接し取りて、以て自ら活命す。或は人の、水を掬びてなき父母に施すことあらば、則ち少分を得て、命存立することを得。もし自ら水を取らんとすれば、水を守るもろもろの鬼、杖を以てニち打つ。昔、酒を沽るに水を加へ、或は蚓・蛾を沈めて、善法を修めざりし者、この報を受く。[p030-031]
 或は鬼あり。莓]と名づく。世人の、亡き父母の為に祀を設くる時、得てこれを食ふ。余は悉く食することあたはず。昔、人の労して少しく物を得たるを、誑かし惑はしてこれを取り用ひし者、この報を受く。[p031]
 或は鬼あり。海の渚の中に生る。樹林・河水あることなく、その処甚だ熱し。かの冬の日を以て人間の夏に比ぶるに、過ぎ踰ゆること千倍なり。ただ朝露を以て自ら活命す。海の渚に住むといへども、海は枯竭せりと見る。昔、路を行く人、病苦に疲れ極れるに、その賣を欺き取りて、直を与ふること薄少なりし者、この報を受く。[p031]
 或は鬼あり。常に塚の間に至りて、屍を焼ける火をふに、なほ足ることあたはず。昔、刑獄を典主して人の飲食を取りし者、この報を受く。[p031]
 或は餓鬼あり。生れて樹の中にあり。逼セして身を押さるること賊木虫の如く、大いなる苦悩を受く。昔、陰涼しき樹を伐り、及び衆僧の園林を伐りし者、この報を受く。<正法念経>[p031]
 或はまた鬼あり。頭髪垂れ下りて、遍く身体に纏はり、その髪、刀の如くその身を刺し切る。或は変じて火と作り、周りアりて焚焼す。[p031]
 或は鬼あり。昼夜におのおの五子を生むに、生むに随ひてこれを食へども、なほ常に飢ゑて乏し。<六波羅蜜経>[p031-032]
 また鬼あり。一切の食、皆ふことあたはず。ただ自ら頭を破り脳を取りて食ふ。或は鬼あり。火を口より出し、飛べる蛾の、火に投ずるを以て飲食となす。或は鬼あり。糞・涕・膿血、洗ひし器の遺余を食ふ。<大論>[p032]
 また外の障に依りて食を得ざる鬼あり。謂く、飢渇常に急にして、身体枯竭す。たまたま清流を望み、走り向ひてかしこに趣けば、大力の鬼ありて、杖を以て逆に打つ。或は変じて火と作り、或は悉く枯れ涸く。或は内の障に依りて食を得ざる鬼あり。謂く、口は針の孔の如く、腹は大いなる山の如くして、たとひ飲食に逢ふとも、これをふに由なし。或は内外の障なけれども、用ふることあたはざる鬼あり。謂く、たまたま少かの食に逢ひて食ひめば、変じて猛焔となり、身を焼いて出づ。<瑜伽論>[p032]
 人間の一月を以て一日夜となして、月・年を成し、寿五百歳なり。正法念経に云く、[p032]
慳貪と嫉妬の者、飢餓道に堕つ。[p032]
と。[p032]

 第三に、畜生道を明さば、その住処に二あり。根本は大海に住し、支末は人・天に雑はる。別して論ずれば、三十四億の種類あれども、惣じて論ずれば三を出でず。一には禽類、二には獣類、三には虫類なり。[p032]
 かくの如き等の類、強弱相害す。もしは飲み、もしは食ひ、いまだ曾て暫くも安らかならず。昼夜の中に、常に怖懼を懐けり。いはんやまた、もろもろの水性の属は漁者の為に害せられ、もろもろの陸行の類は猟の為に害せらる。もしは象・馬・牛・驢・駱駝・騾等の如きは、或は鉄の鉤にてその脳を~られ、或は鼻の中を穿たれ、或は轡を首に繋ぎ、身に常に重きを負ひて、もろもろの杖捶を加へらる。ただ水・草を念ひて、余は知る所なし。また蚰蜒・鼠狼等は、闇の中に生れて闇の中に死す。ソ蝨・蚤等は、人の身に依りて生じ、また人に依りて死す。またもろもろの竜の衆は、三熱の苦を受けて昼夜に休むことなし。或はまた蟒蛇は、その身長大なれども聾蛯ノして足なく、宛転として腹行し、もろもろの小虫の為にヲひ食はる。[p032ー033]
 かくの如きもろもろの畜生、或は一中劫を経て無量の苦を受く。或はもろもろの違縁に遇ひて、しばしば残害せらる。これ等のもろもろの苦、勝げて計ふべからず。愚痴・無慚・にして、徒らに信施を受けて、他の物もて償はざりし者、この報を受く。[p033]

 第四に、阿修羅道を明さば二あり。根本の勝れたる者は、須弥山の北、巨海の底に住し、支流の劣れる者は、四大州の間、山巌の中にあり。雲雷もし鳴れば、これ天の鼓なりと謂ひて怖畏周章し、心大いに戦き悼む。また常に諸天の為に侵害せられ、或は身体を破り、或はその命を夭す。また日々三時に、苦具自ら来りて逼り害し、種々に憂ひ苦しむこと、勝げて説くべからず。[p033]

 第五に、人道を明さば、略して三の相あり。審かに観察すべし。一には不浄の相、二には苦の相、三には無常の相なり。[p034]
 一に不浄とは、およそ人の身の中には三百六十の骨ありて、節と節と相ふ。謂く、指の骨は足の骨をへ、足の骨は踝の骨をへ、踝の骨はタの骨をへ、タの骨は膝の骨をへ、膝の骨はフの骨をへ、フの骨はノの骨をへ、ノの骨は腰の骨をへ、腰の骨は脊の骨をへ、脊の骨は肋の骨をへ、また脊の骨は項の骨をへ、項の骨は頷の骨をへ、頷の骨は牙歯をへ、上に髑髏あり。また項の骨は肩の骨をへ、肩の骨は臂の骨をへ、臂の骨は腕の骨をへ、腕の骨は掌の骨をへ、掌の骨は指の骨をへ、かくの如く展転して次第に鎖のごとく成れり。<大経> 三百六十の骨の、聚りて成ずる所にして、朽ち壊れたる舎の如し。[p034]
 もろもろの節にて支へ持ち、四の細き脈を以て周りアり、弥く布く。五百分の肉は猶し泥塗の如く、六の脈相繋ぎ、五百の筋纏へり。七百の細き脈は以て編絡をなし、十六の麁き脈は鉤り帯り相連ぬ。二の肉の縄ありて、長さ三尋半、内に於て纏ひ結ぶ。十六の腸・胃は生熟の蔵を繞る。二十五の気脈は猶し窓隙の如く、一百七の関は宛ら破れたる器の如し。八万の毛孔は乱れたる草の覆へるが如く、五根・七竅は不浄にて盈ち満てり。七重の皮に裹み、六味にて長養すること、猶し祠火の、呑受して厭くことなきが如し。かくの如き身は、一切臭く穢れて、自性よりヘれ爛れり。誰か当にここに於て愛重しュ慢すべけんや。<宝積経の九十六>[p034]
 或は云く、九百の臠、その上を覆ひ、九百の筋、その間を連ぬ。三万六千の脈ありて、三升の血、中にありて流れ注ぐ。九十九万の毛孔ありて、もろもろの汗常に出づ。九十九重の皮、しかもその上を裹む、と。<已上は身中の骨肉等なり>[p035]
 また腹の中に五蔵あり。葉々相覆ひ、靡々として下に向ふこと、状は蓮華の如し。孔竅は空疎にして内外に相通じ、おのおの九十重あり。肺の蔵は上にありて、その色白く、肝の蔵はその色青し。心の蔵は中央にありて、その色赤く、脾の蔵はその色黄なり。腎の蔵は下にありて、その色黒し。[p035]
 また六府あり。謂く、大腸を伝送の府となす。また肺の府たり。長さ三尋半、その色白し。胆を清浄の府となす。また肝の府たり。その色青し。小腸を受盛の府となす。また心の府たり。長さ十六尋、その色赤し。胃を五穀の府となす。また脾の府たり。三升の糞、中にありて、その色黄なり。膀胱を津液の府となす。また腎の府たり。一斗の尿、中にありて、その色黒し。三ミを中涜の府となす。かくの如き等の物、縦横に分布せり。大小の二腸は、赤白、色を交へて、十八に周転せること、毒蛇の蟠るが如し。<已上は腹の中の府・蔵なり>[p035]
 また頂より趺に至り、髄より膚に至るまで、八万戸の虫あり。四の頭、四の口、九十九の尾ありて、形相一にあらず。一々の戸にまた九万の細虫ありて、秋毫よりも小し。<禅経・次第禅門等> 宝積経に云く、[p035]
初めて胎を出づる時、七日を経て、八万戸の虫、身より生じ、縦横に食ひむ。二戸の虫あり。名づけて舐髪となす。髪の根に依りて住し、常にその髪を食ふ。二戸の虫あり、繞眼と名づく。眼に依りて住し、常に眼を食ふ。四戸の虫あり、脳に依りて脳を食ふ。一戸を稲葉と名づく。耳に依りて耳を食ふ。一戸を蔵口と名づく。鼻に依りて鼻を食ふ。二戸あり、一を遥擲と名づけ、二を遍擲と名づく。唇に依りて唇を食ふ。一戸を針口と名づく。舌に依りて舌を食ふ。五百戸は左辺に依りて左辺を食ふ。右辺もまた然なり。四戸は生蔵を食ひ、二戸は熟蔵を食ふ。四戸は小便道に依り、尿を食ひて住し、四戸は大便道に依り、糞を食ひて住す。乃至、一戸を黒頭と名づく。脚に依りて脚を食ふ。[p035-036]
かくの如き八万、この身に依止して、昼夜に食ひみ、身をして熱脳せしむ。心に憂愁あれば衆病現前し、良医も能く為に除き療すことあることなし。[p036]
と。<第五十〔五と〕七に出でたり。略抄> 僧伽経に説かく、[p036]
人のまさに死なんとする時、もろもろの虫、怖畏し、互に相み食ふに、もろもろの苦痛を受け、男女眷属、大悲悩を生ず。もろもろの虫、相食ひ、ただ二の虫のみありて、七日闘ひ諍ひ、七日を過ぎ已りて、一の虫は命尽くれども、一の虫はなほ存す。[p360]
と。<已上は虫蛆なり>[p036]#
またたとひ上ォの衆味を食へども、宿を逕るの間に皆不浄となる。譬へば糞穢の大小、倶に臭きが如し。この身もまたしかなり。少かきより老に至るまで、ただこれ不浄なり。海水を傾けて洗ふとも、浄潔ならしむべからず。外には端厳の相を施すといへども、内にはただもろもろの不浄を裹むこと、猶し画ける瓶に糞穢を盛れるが如し。<大論・止観等の意> 故に禅経の偈に云く、[p036-037]
身は臭く不浄なりと知れども 愚者は故に愛惜す 外に好き顔色を視て 内の不浄をば観ず[p037]
と。<已上は体の不浄を挙ぐ>[p037]
 いはんやまた命終の後は、塚の間に捐捨すれば、一二日乃至七日経るに、その身メれ脹れ、色は青テに変じて、臭く爛れ、皮穿けて、膿血流れ出づ。「・鷲・鵄・梟・野干・狗等、種々の禽獣、、み掣いて食ひむ。禽獣食ひ已りて、不浄潰れ爛るれば、無量種の虫蛆ありて、臭き処に雑はり出づ。悪むべきこと、死せる狗よりも過ぎたり。乃至、白骨と成り已れば、支節分散し、手足・髑髏、おのおの異なる処にあり。風吹き、日曝し、雨潅ぎ、霜封み、積むこと歳年あれば、色相変異し、遂に腐れ朽ち、砕末となりて塵土と相和す。<已上は究竟の不浄なり。大般若・止観等に見ゆ>[p037]
 当に知るべし、この身は始終不浄なることを。愛する所の男女も皆またかくの如し。誰か智ある者、更に楽著を生ぜん。故に止観に云く、[p037]
いまだこの相を見ざるときは愛染甚だ強けれども、もしこれを見已れば欲心都て罷み、懸かに忍び耐へざること、糞を見ざればなほ能く飯をへども、忽ち臭気を聞がば即便ち嘔吐するが如し。[p037]
と。また云く、[p037]#
もしこの相を証らば、また高き眉、翠き眼、皓き歯、丹き唇といへども、一聚の屎に、粉もてその上を覆へるが如く、また爛れたる屍に、仮に繪彩を著せたるが如し。なほ眼に見るをえず、いはんや身をもて近づくべけんや。鹿杖を雇ひて自害せるものあり。いはんやム抱して婬楽せんをや。かくの如く想ふは、これ婬欲の病の大黄湯なり。[p038]
と。<已上>
 二に苦とは、この身は、初めて生れし時より常に苦悩を受く。宝積経に説くが如し。
もしは男、もしは女、たまたま生れて地に堕つるに、或は手を以て捧げ、或は衣をもて承け接るも、或は冬夏の時、冷熱の風触るれば大苦悩を受くること、牛を生剥ぎて、墻壁に触れしむるが如し。[p038]
と。<取意> 長大の後もまた苦悩多し。同じ経に説かく、
この身を受くるに、二種の苦あり。いはゆる眼・耳・鼻・舌・咽喉・牙歯・胸・腹・手・足にもろもろの病生ずることあり。かくの如く、四百四病、その身に逼切するを、名づけて内苦となす。また外苦あり。いはゆる、或は牢獄ありて、ニ打楚撻せられ、或は耳鼻をリがれ、及び手足を削らるるなり。もろもろの悪鬼神はしかもその便を得、また蚊・虻・等の毒虫の為にヲひ食はる。寒熱・飢渇・風雨、並に至りて、種々の苦悩、その身に逼切す。この五陰の身は、一々の威儀、行住坐臥、皆苦ならざることなし。もしは長時に行て、暫くも休息せざれば、これを名づけて外苦となす。住及び坐臥も亦また皆苦なり。[p038-039]
と。<略抄> もろもろの余の苦相は眼前に見るべし。説くことを俟つべからず。
 三に無常とは、涅槃経に云く、
人の命の停まらざること、山の水よりも過ぎたり。今日存すといへども、明くればまた保ち難し。いかんぞ心を縦にして、悪法に住せしめん。[p039]
と。出曜経に云く、
この日已に過ぎぬれば 命即ち減少す 小水の魚の如し これ何の楽かあらん
と。摩耶経の偈に云く、
譬へば、栴陀羅の牛を駈りて屠所に至るに 歩々死地に近づくが如し 人の命もまたかくの如し
と。<已上>
 たとひ長寿の業ありといへども、終に無常を免れずたとひ富貴の報を感ずといへども、必ず衰患の期あり。大経の偈に云ふが如し。
一切のもろもろの世間に 生ける者は皆死に帰す 寿命、無量なりといへども 要必ず終尽することあり それ盛んなれば必ず衰ふることあり 合ひ会へば、別離あり 壮年も久しく停まらず盛んなる色も病に侵さる 命は死の為に呑まれ 法として常なる者あることなし[p039]
と。また、罪業応報経の偈に云く、
水流るれば常に満たず 火盛んなれば久しくは燃えず 日出づれば須臾にして没し 月満ち已ればまた欠く 尊栄高貴なる者も 無常の速かなることこれに過ぎたり 当に念じ勤め精進して 無上尊を頂礼すべし[p040]
と。<已上>
ただもろもろの凡下のみ、この怖畏あるにあらず。仙に登り、通を得たる者も亦またかくの如し。法句譬喩経の偈に云ふが如し。
空にもあらず海の中にもあらず 山石の間に入るにもあらず 地の方処として 脱れ止まりて死を受けざるものあることなし
と。<空に騰り、海に入り、巌に隠れし三人の因縁は、経に広く説くが如し>
 当に知るべし、もろもろの余の苦患は、或は免るる者あらんも、無常の一事は、終に避くる処なきを。すべからく、説の如く修行して常楽の果を欣求すべし。止観に云ふが如し。
無常の殺鬼は豪賢を択ばず。危脆にして堅からず、恃怙すべきこと難し。いかんぞ安然として百歳を規望し、四方に馳求して、貯へ積み聚め斂らん。聚め斂ることいまだ足らざるに、溘然として長く往かば、所有の産貨は徒らに他の有となり、冥々として独り逝く。誰か是非を訪ねん。もし無常の、暴水・猛風・掣電よりも過ぎたることを覚らんも、山に海に、空に市に、脱れ避くる処なし。かくの如く観じ已らば、心大いに怖畏し、眠れども席に安んぜず、食へども哺むに甘からず。頭燃を救ふが如くして、以て出要を求めよ。[p040]
と。また云く。
譬へば、野干の、耳と尾と牙とを失はんに、詐り眠りて逃れんと望めども、忽ち頭を断たんといふを聞いて、心大いに驚き怖るるが如し。生・老・病に遭ひて、なほ急がはしくせざらんも、死の事は奢るべからず。なんぞ怖れざるを得んや。怖るる心起る時は湯・火を履むが如し。五塵・六欲も貪染するに暇あらず。[p041]
と。<已上は取意なり> 人道かくの如し。実に厭離すべし。

 第六に、天道を明さば三あり。一には欲界、二には色界、三には無色界なり。その相既に広くして、具さには述ぶべきこと難し。
 且く一処を挙げて、以てその余を例せば、かのヒ利天の如きは、快楽極りなしといへども、命終に臨む時は五衰の相現ず。一には頭の上の花鬘忽ちに萎み、二には天衣、塵垢に著され、三には脇の下より汗出で、四には両の目しばしば」き、五には本居を楽しまざるなり。この相現ずる時、天女・眷属、皆悉く遠離して、これを棄つること草の如し。林の間に偃れ臥、悲しみ泣いて歎じて曰く、「このもろもろの天女をば我常に憐愍せしに、いかんぞ一旦に我を棄つること草の如くする。我いま依るところなく怙むところなし。誰か我を救ふ者あらん。善見の宮城は今まさに絶らんとす。帝釈の宝座は朝謁するに由なし。殊勝殿の中には永く瞻望を断ち、釈天の宝象には、いづれの日か同に乗らん。衆車苑の中にはまた能く見ることなく、麁渋苑の内には介冑長く辞す。雑林苑の中には宴会するに日なく、歓喜苑の中には遊止するに期なし。劫波樹の下、白玉の。かなる石には更に坐る時なく、曼陀枳尼の殊勝の池水には沐浴するに由なし。四種の甘露も卒に食すること得難く、五妙の音楽は頓に聴聞を絶つ。悲しいかな、この身独りこの苦を嬰く。願はくは慈愍を垂れてわが寿命を救ひ、更に少かの日を延ばしめば、また楽しからずや。かお馬頭山・沃焦海に堕さしむることなかれ」と。この言を作すといへども、あへて救ふ者なし。<六波羅蜜経>[p041-042]
 当に知るべし、この苦は地獄よりも甚だしきことを。故に正法念経の偈に云く、
天上より退かんと欲する時 心に大苦悩を生ず 地獄のもろもろの苦毒も 十六の一に及ばず
と。<已上> また大徳の天、既に生れたる後は、旧の天の眷属は、捨てて彼に従ふ。或は威徳の天ありて、心に順はざる時は、駈りて宮より出し、住することを得ることあたはざらしむ。<瑜伽>
 余の五の欲天にも悉くこの苦あり。上の二界の中にはかくの如き事なしといへども、終には退没の苦あり。乃至、非想も阿鼻を免れず。当に知るべし、天上もまた楽ふべからざることを。<已上は天道なり>[p042]
 第七に、惣じて厭相を結ぶとは、謂く、一篋は偏に苦なり。耽荒すべきにあらず。四の山合せ来りて避け遁るる所なし。しかるにもろもろの衆生は貪愛を以て自ら蔽ひ、深く五欲に著す。常にあらざるを常と謂ひ、楽にあらざるを楽と謂ふ。かの、癰を洗ひ、睫を置くものの如し。なほなんぞ厭はざらん。いはんやまた刀山・火湯・漸くまさに至らんとす。誰か智あらん者、この身を宝玩せんや。故に正法念経の偈に云く、[p042-043]
智者の常に憂を懐くこと 獄中に囚はるるに如似たり 愚人の常に歓楽すること 猶し光音天の如し
と。宝積経の偈に云く、
種々の悪業もて財物を求め 妻子を養育して歓娯すと謂へども 命終の時に臨んで、苦、身に逼り 妻子も能く相救ふ者なし かの三途の怖畏の中に於ては 妻子及び親識を見ず 車馬・財宝も他の人に属し 苦を受くるに誰か能く共に分つ者あらん 父母・兄弟及び妻子も 朋友・僮僕并に珍財も 死し去らんには一として来り相親しむものなし ただ黒業のみありて常に随逐す <乃至> 閻羅常にかの罪人に告ぐ 少かの罪も我能く加ふることあることなし 汝自ら罪を作りていま自ら来る 業報自ら招いて代る者なし 父母・妻子も能く救ふものなし ただ当に出離の因を勤修すべし この故に応に枷鎖の業を捨て 善く遠離を知りて安楽を求むべし[p043]
と。また大集経の偈に云く、[p043]
妻子も珍宝も及び王位も 命終の時に臨んでは随ふ者なし ただ戒と及び施と不放逸とは 今世と後世の伴侶となる[p043]
と。かくの如く展転して、悪を作り苦を受け、徒に生れ徒に死して、輪転して際なし。経の偈に云ふが如し。[p043-044]
一人の一劫の中に 受くる所のもろもろの身の骨 常に積みて腐敗せずは 毘布羅山の如くならん[p044]
と。一劫すらなほしかり、いはんや無量劫をや。[p044]
 我等、いまだ曾て道を修せざりしが故に、徒に無辺劫を歴たり。今もし勤修せずは未来もまた然るべし。かくの如く無量生死の中に、人身を得ること甚だ難し。たとひ人身を得とも、諸根を具することまた難し。たとひ諸根を具すとも、仏教に遇ふことまた難し。たとひ仏教に遇ふとも、信心を生ずることまた難し。故に大経に云く、[p044]
人趣に生るる者は爪の上の土の如し。三塗に堕つる者は十方の土の如し。[p044]
と。法華経の偈に云く、[p044]
無量無数劫にも この法を聞くことまた難し 能くこの法を聴く者あらば この人も亦また難し[p044]
と。しかるに今、たまたまこれ等の縁を具せり。当に知るべし、苦海を離れて浄土に往生すべきは、ただ今生のみにあることを。しかるに我等、頭には霜雪を戴き、心俗塵に染みて、一生は尽くといへども希望は尽きず。遂に白日の下を辞して、独り黄泉の底に入らんとする時、多百踰繕那の洞然たつ猛火の中に堕ちて、天に呼ばはり地を扣くといへども、更に何の益かあらんや。願はくはもろもろの行者、疾く厭離の心を生じて、速かに出要の路に随へ。宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。[p044]
 問ふ。何等の相を以て厭心を生ずべきや。[p045]
 答ふ。もし広く観ぜんと欲せば、前の所説の如き六道の因果・不浄・苦等なり。或はまた竜樹菩薩の禅陀迦王を勧発せる偈に云く、
この身は不浄、九の孔より流れて 窮まり已むのあることなきこと河海のごとし 薄き皮覆ひ蔽して清浄なるに似たれども 猶し瓔珞を仮りて自ら荘厳せるがごとし もろもろの智える人は乃ち分別して その虚誑なるを知りて便ち棄捨す 譬へば疥者の猛焔に近づかんに 初めは暫く悦ぶといへども後には苦を増すが如し 貪欲の想も亦また然り 始め楽著すといへども終には患多し 身の実相は皆不浄なりと見る 即ちこれ空・無我を観ずるなり もし能くこの観を修習する者は 利益の中に於て最も無上なり 色と族と及び多聞とありといへども もし戒と智となくは禽獣のごとし 醜賎に処して聞見すること少しといへども 能く戒と智とを修むれば勝上と名づく 利・衰の八法は能く免るるものなし もし除断することあらば真に匹なし 諸有の沙門・婆羅門 父母・妻子及び眷属の かの意の為にその言を受けて 広く不善・非法の行を造ることなかれ たとひこれ等の為にもろもろの過を起すことあらんも 未来の大苦はただ身に受けん それ衆悪を造れども即に報いず 刀剣のこもごも傷ひ割くが如くにはあらざれども 臨終に罪相始めて倶に現れ 後に地獄に入りてもろもろの苦を嬰かん 信と戒と施と聞と慧と慙と愧と かくの如き七法をば聖財と名づく 真実にして比なき牟尼の説きたまふなり 世間のもろもろの珍宝に超越せり[p045]
足ることを知らば貧といへども富と名づくべし 財ありとも欲多ければこれを貧と名づく もし財業に豊なればもろもろの苦を増すこと 竜の首多きもの酸毒を益が如し 当に美味は毒薬の如しと観じて 智慧の水を以て灑いで浄からしむべし この身を存たんが為に食すべしといへども 色味を貪りてュ慢を長ふことなかれ もろもろの欲染に於て当に厭を生じ 勤めて無上涅槃の道を求むべし この身を調和して安穏ならしめ しかる後に宜しく斎戒を修すべし 一夜を分別するに五時あり 二時の中にては当に眠り息むべきも 初・中・後夜には生死を観じ 宜しく勤めて度を求め空しく過ぐることなかれ 譬へば少かの塩を恒河に置くも 水をして鹹味あらしむることあたはざるが如く 微細の悪の衆善に遇ひて 消滅・散壊することまたかくの如し 梵天の離欲の娯を受くといへども また無間の熾然の苦に堕ちん 天宮に居して光明を具すといへども 後には地獄の黒闇の中に入らん いはゆる黒縄・活地獄の 焼・割・剥・刺と及び無間と この八地獄の常に熾んに燃ゆること 皆これ衆生の悪業の報なり もしは図に画けるを見、他の言を聞き 或は経書に随ひて自ら憶念し かくの如くして知る時すら以て忍び難し いはんやまた己が身に自ら逕歴せんをや もしまた人ありて一日の中に 三百の矛を以てその体を鑽らんも 阿鼻獄の一念の苦に比ぶれば 百千万分の一に及ばず 畜生の中に於ても苦は無量なり 或は繋ぎ縛られ及び鞭撻たるるものあり 或は明珠と羽と角と牙と 骨と毛と皮と肉との為に残害せらる 餓鬼道の中の苦もまた然り もろもろの須むる所の欲意に随はず 飢渇に逼られ寒熱に困しみ[p046]
疲乏等の苦甚だ無量なり 尿屎・糞穢のもろもろの不浄すら 百千万劫に能く得ることなし たとひまた推求して少分を得んも 更に相に劫め奪ひ尋いで散失す 清涼の秋の月にも焔熱を患へ 温和の春の日にも転た寒え苦しむ もし園林に趣けば衆菓尽き 清流に至れば変かに枯竭す 罪業の縁の故に寿長遠にして 逕ること一万五千歳あり もろもろの楚毒を受けて空しく欠くることなきは 皆これ餓鬼の果報なり 煩悩のH河、衆生を漂はし 深き怖畏、熾然の苦となる かくの如きもろもろの塵労を滅せんと欲はば 応に真実解脱の諦を修すべし もろもろの世間の仮名の法を離るれば 則ち清浄不動の処を得るなり[p047]
と。<已上、百十行の偈あり。いまこれを略抄す> もし略を存たば、馬鳴菩薩の頼和羅の伎声に唱へて云ふが如し。
有為の諸法は 幻の如く化の如し 三学の獄縛は 一として楽うべきものなし 王位は高顕にして 勢力自在なるも 無常既に至れば 誰か存つことを得ん者ぞ 空中の雲の 須臾にして散滅するが如し この身の虚偽なること 猶し芭蕉の如し 怨たり賊たり 親近すべからず 毒蛇の篋の如し 誰か当に愛楽すべけん この故に諸仏は常にこの身を呵したまふなり
と。<已上> この中に具さに無常と苦と空とを演ぶれば、聞く者、道を悟る。
 或はまた堅牢比丘の壁上の偈に云く、[p047]
生死の断絶せざるは 欲を貪り味を嗜るが故なり 怨を養ひて丘塚に入り 虚しくもろもろの辛苦を受く 身の臭きこと死屍の如し 九の孔より不浄を流す 厠の虫の、糞を楽しむが如く 愚にして身を貪るも異ることなし 憶想して妄に分別するは 即ちこれ五欲の本なり 智者は分別せざれば 五欲則ち断滅す 邪念より貪著を生じ 貪著より煩悩を生ず 正念にして貪欲なければ 余の煩悩もまた尽きん[p047-048]
と。<已上> 過去の弥楼モ駄仏の滅後、正法の滅せし時、陀摩尸利菩薩、この偈を求め得て仏法を弘宣し、無量の衆生を利益せり。
 或はまた仁王経に四非常の偈あり。見るべし。もし極略を楽はば、金剛経に云ふが如し。
一切の有為の法は 夢・幻・泡影の如し 露の如くまた電の如し 応にかくの如き観を作すべし
と。或はまた大経の偈に云く、
諸行は無常なり これ生滅の法なり 生滅の滅し已れば 寂滅を楽となす
と。<已上> 雪山の大士は全身を捨ててこの偈を得たり。行者、善く思念せよ。これを忽爾にすることを得ざれ。説の如く観察して、応当に貪・瞋・痴等の惑業を離るること、師子の、人を追ふが如くすべし。外道の無益の苦行を作して、痴狗の、塊を追ふが如くすべからず。
 問ふ。不浄・苦・無常は、その義、了り易し。現に法体あるを見る、なんぞ説いて空となすや。[p048]
 答ふ。あに経に説かずや、「夢・幻・化の如し」と。故に夢の境に例して、当に空の義を観ずべし。西域記に云ふが如し。[p048−049]
婆羅斯国の施鹿林の東、行くこと二三里にして、涸ける池あり。昔、一の隠士ありて、この池の側に於て盧を結びて迹を屏せり。博く技術を習ひて神理を究極め、能く瓦礫をして宝と為し、人畜をして形を易へしむ。ただしいまだ風雲に馭りて仙駕に陪ることあたはず。図を閲べ、古を考へて、更に仙術を求む。その方に曰く、「一の烈士に命じ、長刀を執りて壇の隅に立ち、息を屏し言を絶ちて、昏より旦に逮ばしめよ。仙を求むる者は中壇に坐し、手に長刀を接り、口に神呪を誦し、視ることを収め聴くことを返して、遅明に仙に登る」と。遂に仙方に依りて一の烈士を求め、しばしば重貽を加へて、潜かに陰徳を行ふ。隠士の曰く、「願はくは、一夕、声せざらんのみ」と。烈士の曰く、「死すらなほ辞せず。あにただに息を屏むるをや」と。[p049]
ここに於て壇場を設け、仙法を受くること、方に依りて事を行ふ。坐して日のラるるを待ち、ラ暮の後、おのおのその務を司る。隠士は神呪を誦し、烈士は銛き刀を按ふ。殆どまさに暁けなんとするに、忽ちに声を発して叫ぶ。
時に隠士問うて曰く、「子を誡めて声することなからしめしに、何を以てか驚き叫びしや」と。烈士曰く、「命を受けて後、夜分に至るに、ル然として夢のごとく、変異こもごも起れり。昔、事へし主、躬ら来りて慰謝するを見たれども、厚恩を荷へるを感じて、忍びて報語せざりき。かの人、震怒して、遂に殺害せられて、中陰の身を受けたり。屍を顧みて嘆惜したれども、なほ願はくは、世を歴とも言はずして以て厚徳に報いんと。遂に南印度の大婆羅門の家に託生するを見る。乃至、胎を受け、胎を出でて、備さに苦厄を経れども、恩を荷ひ徳を荷ひて、嘗て声を出さざりき。業を受け、冠婚し、親を喪ひ、子を生むに泊びしも、毎に前の恩を念ひ、忍びて語はざりしかば、宗親戚属、咸く見て恠異す。年六十有五を過ぎたるとき、わが妻、謂ふて曰く、汝、言ふべし。もし語はずは、当に汝が子を殺すべし」と。我時に惟念へらく、「已に生世を隔てり。自ら顧みれば、衰老して、ただこの稚子のみあり。因りてその妻を止めて、殺害することなからしめん」と。遂にこの声を発せるのみ」と。隠士曰く、「わが過なり。これ魔のレせるのみ」と。烈士は恩を感じて、事の成らざるを悲しみ、憤恚して死せり。[p050]
と。<已上、略抄> 夢の境、かくの如し。諸法もまた然り。妄想の夢、いまだ覚めざれば、空に於て謂ふて有となす。故に唯識論に云く、
いまだ真覚を得ざるときは、常に夢中に処る。故に仏説いて、生死の長夜となしたまへり。
と。
 問ふ。もし無常・苦・空等の観を作さば、あに小乗の自調・自度に異らんや。
 答ふ。この観も小に局らず。また通じて大乗にもあり。法華に云ふが如し。
大慈悲を室となし 柔和・忍辱を衣とし 諸法の空を座となして ここに処りて為に法を説け[p050]
と。<已上>諸法空の観、なほ大慈悲の心を妨げず。いかにいはんや苦・無常等の、菩薩の悲願を催すをや。この故に、大般若等の経に、不浄等の観を以てまた菩薩の法となせり。もし知らんと欲せば、更に経文を読め。
 問ふ。かくの如く観念すれば何の利益かある。
 答ふ。もし常にかくの如く心を調伏すれば五欲微薄となり、乃至、臨終には正念にして乱れず、悪処に堕ちざるなり。大荘厳論の勧進繋念の偈に云ふが如し。
盛年にして患なき時は、懈怠にして精進せず。もろもろの事務を貪営して 施と戒と禅とを修めず 死の為に呑まれんとするに臨んで 方に悔いて善を修めんことを求む智者は応に観察して 五欲の想を断除すべし 精勤して心を習ふものは 終る時も悔恨なし 心意既に専至なれば 錯乱の念あることなし 智者は勤めて心を捉ふれば 臨終には意散らず 心を習ふこと専至ならざれば 臨終には必ず散乱す
と。<已上> また宝積経の五十七の偈に云く、
応にこの身を観ずべし 筋・脈更に纒繞し 湿へる皮は相裹み覆へり 九処に瘡門ありて 周遍して常に 屎尿、もろもろの不浄を流溢す 譬へば舎とロとに もろもろの穀麦等を盛れるが如し この身もまたかくの如し雑穢その中に満てり 骨の機関を運動するに 危脆にして堅実にあらず 愚夫は常に愛楽すれども 智者は染著することなし 洟と唾と汗は常に流れ 膿血恒に充ち満てり 黄脂は乳汁に雑り 脳は髑髏の中に満つ 胸隔には痰笳ャれ 内には生熟の蔵あり 肪膏と皮膜と五蔵のもろもろの腸胃と かくの如き臭爛等の もろもろの不浄と同じく居る 罪の身は深く畏るべし これ即ちこれ怨家なり 識ることなくして耽り欲る人は 愚痴にして常に保護すれども かくの如き臭穢の身は 猶し朽ちたる城廓の如し 日夜に煩悩に逼られ 遷り流れて暫くも停ることなし 身の城、骨の墻壁 血肉もて塗泥となし画彩の貪・瞋・痴 処に随ひて荘厳せり 悪むべし骨身の城 血肉相連合し 常に悪知識に 内外の苦もて相煎らる 難陀、汝当に知るべし わが所説の如く 昼夜常に念を繋け 欲の境を思ふことなかれ もし遠離せんと欲はば 常にかくの如き観を作し 解脱の処を勤求せば 速かに生死の海を超へん[p051-052]
と。<已上> もろもろの余の利益は大論・止観等を見るべし。[p052]


 大文第二に、欣求浄土とは、極楽の依正の功徳、無量にして、百劫・千劫にも説いて尽すことあたはず。算分・喩分もまた知る所にあらず。しかるに群疑論には三十種の益を明し、安国抄には二十四の楽を標す。既に知んぬ、称揚はただ人の心にあることを。今、十の楽を挙げて浄土を讃へんに猶し一毛もて大海をイらすが如し。一には聖衆来迎の楽、二には蓮華初開の楽、三には身相神通の楽、四には五妙境界の楽、五には快楽無退の楽、六には引接結縁の楽、七には聖衆倶会の楽、八には見仏聞法の楽、九には随心供仏の楽、十には増進仏道の楽なり。

 第一に聖衆来迎の楽とは、およそ悪業の人の命尽くる時は、風・火まづ去るが故に動熱して苦多し。善行の人の命尽くる時は、地・水まづ去るが故に緩慢にして苦なし。いかにいはんや念仏の功積り、運心年深き者は、命終の時に臨んで大いなる喜自ら生ず。しかる所以は、弥陀如来、本願を以ての故に、もろもろの菩薩、百千の比丘衆とともに大光明を放ち、晧然として目前に在します。時に大悲観世音、百福荘厳の手を申べ、宝蓮の台をワげて行者の前に至りたまひ、大勢至菩薩は無量の聖衆とともに、同時に讃歎して手を授け、引接したまふ。この時、行者、目のあたり自らこれを見て心中に歓喜し、身心安楽なること禅定に入るが如し。当に知るべし、草庵に目を瞑づる間は便ちこれ蓮台に跏を結ぶ程なり。即ち弥陀仏の後に従ひ、菩薩衆の中にありて、一念の頃に、西方極楽世界に生るることを得るなり。<観経・平等覚経、并に伝記等の意に依る>[p053-054]
 かのヒ利天上の億千歳の楽も、大梵王宮の深き禅定の楽も、これらのもろもろの楽は、いまだ楽となすに足らず。輪転際なくして三途を免れず。しかるを今、観音の掌に処りて宝蓮の胎に託し、永く苦海を越過して初めて浄土に往生するなり。その時の歓喜の心は言を以て宣ぶべからず。
 竜樹の偈に云く、
もし人ありて命終の時に かの国に生るることを得る者は 即ち無量の徳を具す この故に我帰命したてまつる
と。

 第二に、蓮華初開の楽とは、行者かの国に生れ已りて、蓮華初めて開く時、所有の歓楽、前に倍すること百千なり。猶し盲者の、始めて明かなる眼を得たるが如く、また辺鄙の、忽ち王宮に入れるが如し。自らその身を見れば、身既に紫磨金色の体となり、また自然の宝衣ありて、鐶・釧・宝冠、荘厳すること無量なり。仏の光明を見て清浄の眼を得、前の宿習に因りてもろもろの法音を聞く。色に触れ声に触れて、奇妙ならざるものなし。虚空界を尽す荘厳は眼も雲路に迷ひ、妙法輪を転ずる音声は聴くに宝刹に満つ。楼殿と林池とは表裏照り曜き、鳧・雁・鴛鴦は遠近に群がり飛ぶ。或は衆生の、駛雨の如く十方世界より生るるを見、或は聖衆の、恒沙の如く無数の仏土より来るを見る。或は楼台に登りて十方を望む者あり。或は宮殿に乗りて虚空に住する者あり。或は空中に住して、経を誦し法を説く者あり。或は空中に住して坐禅入定する者あり。地上・林間も亦またかくの如し。処々にまた、河を渉り流れに濯ぎ、楽を奏し花を散じ、楼殿に往来して、如来を礼讃する者あり。かくの如き無量の天人・聖衆は、心の随に遊戯す。いはんや化仏・菩薩の香雲・花雲、国界に充ち満こと、具さに名ふべからず。[p054-055]
 また漸く眸を廻らして遥かに以て瞻望するに、弥陀如来は金山王の如く宝蓮華の上に坐し、宝池の中央に処しませり。観音・勢至は威儀尊重にして、また宝花に坐し、仏の左右に侍りたまひ、無量の聖衆は恭敬して囲繞せり。
 また宝地の上には宝樹行列し、宝樹の下にはおのおの一仏と二菩薩まします。光明もて厳飾し、瑠璃の地に遍きこと、夜の闇の中に大いなる炬火を燃せるが如し。
 時に観音・勢至、行者の前に来至し、大悲の音を出して種々に慰喩したまふ。行者、蓮の台より下りて五体を地に投げ、頭面に敬礼したてまつる。即ち菩薩に従ひて、漸く仏の所に至り、七宝の階に跪いて万徳の尊容を瞻たてまつる。一実の道を聞いて普賢の願海に入り、歓喜して涙を雨らし、渇仰して骨に徹。始めて仏界に入りて未曾有なることを得。行者、昔、娑婆に於て纔かに教文を読みたらんには、今正しくこの事を見て、歓喜の心、幾ばくならんや。<多くは観経等の意に依る>
 竜樹の偈に曰く、
もし人、善根を種ゑて 疑へば則ち華開かず 信心清浄なる者は 花開けて則ち仏を見たてまつる[p055-056]
と。

 第三に、身相神通の楽とは、かの土の衆生はその身真金色にして、内外倶に清浄なり。常に光明ありて彼此互に照す。三十二相具足して荘厳し、端正殊妙にして世間に比ぶるものなし。もろもろの声聞衆は身の光一尋にして、菩薩の光明は百由旬を照す。或は十万由旬とも云ふ。第六天の主を以てかの土の衆生に比ぶるに、猶し乞丐の、帝王の辺にあるが如し。
 またかのもろもろの衆生は、皆、五通を具し、妙用測り難く、心の随に自在なり。もし十方界の色を見んと欲せば、歩を運ばずして即ち見、十方界の声を聞かんと欲せば、座を起たずして即ち聞く。無量の宿命の事は今日聞くところの如く、六道の衆生の心は明かなる鏡に像を見るが如し。無央数の仏の刹に咫尺の如く往来し、およそ横には百千万億那由他の国に於ても、竪には百千万億那由他の劫に於ても、一念の中にして自在無碍なり。
 今この界の衆生、三十二相に於て誰か一相を得、五神通に於て誰か一通を得たるものあらん。燈・日にあらずは以て照すことなく、行歩にあらずは以て至ることなし。一紙といへどもその外を見ず、一念といへどもその後を知らず、樊篭をいまだ出でざれば、事に随ひて碍りあり。しかるにかの土の衆生は、一人としてこの徳を具せざるもの、あることなし。百大劫の中に於ても相好の業を種ゑず、四静慮の中に於ても神通の因を修せざれども、ただこれかの土の任運生得の果報なり。また楽しからずや。<多くは双観経・平等覚経等に依る>[p056-057]
 竜樹の偈に云く、
人・天の身相、同じくして 猶し金山の頂の如し もろもろの勝れたる所帰の処なり この故に頭面に礼したてまつる それかの国に生るることあらば天眼・耳通を具して 十方に普く無碍なり 聖中の尊を稽首したてまつる その国のもろもろの衆生は 神変と及び心通あり また宿命智を具せり この故に帰命し礼したてまつる
と。

 第四に、五妙境界の楽とは、四十八願もて浄土を荘厳したまへば、一切の万物、美を窮め妙を極めたり。見る所、悉くこれ浄妙の色にして、聞く所、解脱の声ならざることなし。香・味・触の境も亦またかくの如し。
 謂く、かの世界は瑠璃を以て地と為し、金の縄にてその道を界す。坦然平正にして高下あることなく、恢廓曠蕩にして辺際あることなし。晃曜微妙にして奇麗清浄なり。もろもろの妙衣を以て遍くその地に布き、一切に人・天、これを践みて行く。<已上は地の相なり>[p057]
 衆宝の国土の、一々の界の上には、五百億の七宝より成るところの宮殿・楼閣あり。高下、心に随ひ、広狭、念に応ず。もろもろの宝の床座には、妙衣もて上に敷き、七重の欄楯、百億の華の幢ありて、珠の瓔珞を垂れ、宝の幡蓋を懸けたり。殿の裏、楼の上には、もろもろの天人ありて、常に伎楽を作し、如来を歌詠したてまつる。<已上は宮殿なり>[p057-058]
 講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外・左右にもろもろの浴池あり。黄金の池の底には白銀の沙あり、白銀の池の底には黄金の沙あり、水精の池の底には瑠璃の沙あり、瑠璃の池の底には水精の沙あり。珊瑚・虎魄・車瘁E馬瑙・白玉・紫金も亦またかくの如し。八功徳の水、その中に充満し、宝の沙の、映徹して深く照さざることなし。<八功徳とは、一には澄浄、二には清冷、三には甘味、四には軽。、五には潤沢、六には安和、七には飲む時、飢渇等の無量の過患を除き、八には飲み已りて、定んで能く諸根・四大を長養し、種々の殊勝の善根を増益するなり>[p058]
 四辺の階道は衆宝もて合成し、種々の宝花は池の中に弥く覆ふ。青蓮には青き光あり、黄蓮には黄なる光あり、赤蓮・白蓮にもおのおのその光ありて、微風吹き来れば、華の光、乱れ転く。一々の華の中におのおの菩薩あり、一々の光の中にもろもろの化仏あり。[p058]
 微かなる瀾、廻り流れて転た相潅注す。安詳として徐に逝き、遅からず疾からず。その声微妙にして仏法ならざるなし。或は苦・空・無我、もろもろの波羅蜜を演説し、或は十力・無畏、不共法の音を流出す。或は大慈悲の声、或は無生忍の声なり。その聞く所に随ひて歓喜無量なり。清浄なる寂滅の、真実の義に随順し、菩薩と声聞の、行ずる所の道に随順せり。また、鳧・雁・鴛鴦・オ鷺・鵞・鶴・孔雀・鸚鵡・伽陵頻迦等の、百宝の色の鳥、昼夜六時に和雅の音を出して、仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを讃嘆し、五根と五力と七菩提分を演暢す。三途、苦難の名もあることなく、ただ自然快楽の音のみあり。[p058-059]
 かのもろもろの菩薩及び声聞衆、宝池に入りて洗浴する時は、浅深の念に随ひ、その心に違はず。心の垢を蕩除し、清明澄潔なり。洗浴已に訖れば、おのおの自ら去り、或は空中にあり、或は樹下にありて、経を講じ経を誦する者あり、経を受け経を聴く者あり、坐禅する者あり、経行する者あり。その中に、いまだ須陀ッを得ざる者は則ち須陀ッを得、乃至、いまだ阿羅漢を得ざる者は阿羅漢を得、いまだ阿惟越致を得ざる者は阿惟越致を得、皆悉く道を得て歓喜せざるものなし。[p059]
 また清き河あり。底に金の沙を布き、浅深寒温、曲さに人の好みに従ふ。衆人、遊覧して、同じく河浜に萃まる。<已上は水相なり>
 池の畔、河の岸に、栴檀の樹あり。行々相当り、葉々相次ぎ、紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の花、車痰フ実、一宝・七宝、或は純、或は雑の、枝葉花菓、荘厳し映飾す。和風時に来りてもろもろの宝樹を吹けば、羅網微かに動いて妙花徐かに落ち、風に随ひて馥を散らし、水に雑りて芬を流す。いはんや微妙の音を出して宮商相和すること、譬へば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。聞く者は自然に仏・法・僧を念ず。かの第六天の万種の音楽も、この樹の一種の音声にはしかざるなり。[p059]
 葉の間には花を生じ、花の上には菓ありて、皆光明を放ち、化して宝蓋となり、一切の仏事、蓋の中に映現す。乃至、十方の厳浄の仏土を見んと欲はば、宝樹の間に於て皆悉く照見す。樹の上に七重の宝網あり、宝網の間には五百億の妙花の宮殿あり、宮殿の中にはもろもろの天の童子ありて、瓔珞を光り耀かせ、自在に遊び楽しむ。かくの如く七宝のもろもろの樹、世界に周遍し、名花・軟草もまた処に随ひてあり、柔軟・香潔にして、触るる者、楽みを生ず。<已上は樹林なり>[p059-060]
 もろもろの宝の羅網は虚空に弥く満ち、もろもろの宝鈴を懸けて妙法の音を宣ぶ。天花は妙色にして繽粉として乱れ墜ち、宝衣・厳具は旋転して来り下り、鳥の飛んで空より下るが如くもろもろの仏に供散したてまつる。また無量の楽器ありて懸かに虚空に処まり、鼓たざるに自ら鳴りて、皆妙法を説く。<已上は虚空なり>[p060]
 また如意の妙香・塗香・抹香・無量の香、芬馥として遍く、世界に満つ。もし聞ぐことある者は、塵労垢習、自然に起らず。およそ地より空に至るまで、宮殿・花樹、一切の万物は、皆無量の雑宝の百千種の香を以て、共に合成す。その香、普く十方の世界に薫じ、菩薩にして聞ぐ者は皆仏の行を修す。[p060]
 またかの国の菩薩・羅漢・もろもろの衆生等、もし食せんと欲する時は、七宝の机、自然に現前し、七宝の鉢には妙味中に満つ。世間の味に類せず、また天上の味にもあらず、香美なること比なく、ン酢、意に随ふ。色を見、香を聞ぎ、身心清潔となり、即ち食し已るに同じくして、色力増長す。事已れば化し去り、時至ればまた現る。[p060]
 またかの土の衆生、衣服を得んと欲せば、念の随に即ち至る。仏のたまふ所の如く讃へ、応法の妙なる服、自然に身にありて、裁縫・染治・浣濯を求めず。[p060]
 また光明周遍して日・月・燈燭を用ひず。冷暖調和して、春秋冬夏あることなし。自然の徳風は温冷調適し、衆生の身に触るるに、皆快楽を得ること、譬へば比丘の、滅尽三昧を得るが如し。毎日の晨朝には、吹かれ散る妙花、遍く仏土に満ち、馨しき香芬烈して、微妙柔軟なること兜羅綿の如く、足もてその上を履めば蹈下すること四寸、足を挙げ已るに随ひて、また復すること故の如し。晨朝を過ぎ已れば、その花、地に没す。旧き花、既に没すれば、更に新しき花を雨らす。中時、゚時、初・中・後夜も亦またかくの如し。[p061]
 これ等のあらゆる微妙の五境は、見、聞き、覚る者の身心をして適悦ならしむといへども、しかも有情の貪著を増長せしめず、更に無量の殊勝の功徳を増す。およそ八方・上下、無央数の諸仏の国の中には、極楽世界にある所の功徳もて最も第一となす。二百一十億の諸仏の浄土の、厳浄なる妙事、皆この中に摂在するを以てなり。もしかくの如き国土の相を観ずる者は、無量億劫の極重の悪業をも除き、命終の後は必ずかの国に生ぜん。<二種の観経、阿弥陀経、称讃浄土経・宝積経・平等覚経・思惟経等の意に依りて、これを記す>[p061]
 世親の偈に云く、
かの世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり 究竟せること虚空の如く 広大にして辺際なし 宝花千万種にして 弥く池と流と泉を覆ふ 微風、花葉を動かすに 交錯して光乱れ転く 宮殿のもろもろの楼閣は 十方を観るに碍なく 雑樹には異る光色あり 宝欄遍く囲繞る 無量の宝、絞絡して 羅網、虚空に遍じ 種々の鈴、響を発して 妙法の音を宣べ吐す 衆生の願楽する所 一切皆満足す 故に我かの 阿弥陀仏の国に 生れんと願ふ[p061-062]
と。

 第五に、快楽無退の楽とは、今この娑婆世界はユり玩ぶべきものなし。輪王の位も七宝久しからず。天上の楽も五衰早く来り、乃至、有頂も輪廻に期りなし。いはんや余の世の人をや。事と願と違ひ、楽と苦と倶なり。富める者、いまだ必ずしも寿からず、寿き者、いまだ必ずしも富まず。或は昨富みて、今貧しく、或は朝に生れて、暮に死す。故に経に言く、[p062]
出づる息は入る息を待たず、入る息は出づる息を待たず。ただ眼前に楽去りて哀来るのみにあらず。また命終に臨んでは、罪に随ひて苦に堕つ。
と。
 かの西方世界は、楽を受くること窮りなく、人天交接して、両に相見ることを得。慈悲、心に薫じて、互に一子の如し。共に瑠璃地の上を経行し、同じく栴檀の林の間に遊戯して、宮殿より宮殿に至り、林池より林池に至る。もし寂ならんと欲する時は、風・浪・絃・管、自ら耳下を隔たり、もし見んと欲する時は、山川渓谷、なほ眼前に現る。香・味・触・法も、念の随にまた然り。[p062]
 或は飛梯を渡りて伎楽を作し、或は虚空に騰りて神通を現す。或は他方の大士に従ひて迎送し、或は天人・聖衆に伴ひて遊覧す。或は宝池の辺に至り、新生の人を慰問す、「汝知るやいなや、この処を極楽世界と名づけ、この界の主を弥陀仏と号したてまつるを。今まさに帰依したてまつるべし」と。或は同じく宝池の中にありて、おのおの蓮の台の上に坐り、互に宿命の事を説かく、「我本、その国にありて、心を発して道を求めし時、その経典を持ち、その戒行を護り、その善法を作し、その布施を修めたり」と。おのおの好み憙びし所の功徳を語り、具さに来生せる所の本末を陳ぶ。或は共に十方諸仏の利生の方便を語り、或は共に三有衆生の抜苦の因縁を議る。議り已れば縁を追ひて相去り、語り已れば楽の随に共に往く。或はまた七宝の山に登り、<七宝の山、七宝の塔、七宝の坊のこと、十往生経に出づ>八功の池に浴し、寂然として宴黙し、読誦・解説す。かくの如く遊楽すること、相続して間なし。[p062-063]
 処はこれ不退なれば永く三途・八難の畏れを免れ、寿もまた無量なれば終に生老病死の苦なし。心・事相応すれば愛別離苦なく、慈眼もて等しく視れば怨憎会苦もなし。百業の報なれば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。一たび七宝荘厳の台に託しぬれば、長く三界苦輪の海と別る。もし別願あらば、他方に生るといへども、これ自在の生滅にして業報の生滅にはあらず。なほ不苦・不楽の名すらなし。いかにいはんや、もろもろの苦をや。
 竜樹の偈に云く、
もし人かの国に生るれば 終に悪趣と 及与び阿修羅に堕せず 我いま帰命し礼したてまつる[p063-064]
と。

 第六に、引接結縁の楽とは、人の世にあるとき、求むる所、意の如くならず。樹は静かならんと欲するも、風停まず。子は養はんと欲するも、親待たず。志、肝胆を舂くといへども、力水菽に堪へず。君臣・師弟・妻子・朋友、一切の恩所、一切の知識、皆またかくの如し。空しく痴愛の心を労して、いよいよ輪廻の業を増す。いはんやまた業果推し遷りて、生処相隔つときは、六趣・四生、いづれの処なるを知らず。野の獣、山の禽、誰か旧の親を弁へん。心地観経の偈に云ふが如し。[p064]
世の人、子の為にもろもろの罪を造り 三途に堕罪して長く苦を受くれども 男女、聖にあらざれば神通なく 輪廻を見ざれば報ずべきこと難し 有情、輪廻して六道に生るること 猶し車輪の如く始終なし 或いは父母となり男女となりて 世々生々に互に恩あり[p064]
と。
 もし極楽に生るれば、智慧高く明かにして神通洞く達し、世々生々の恩所・知識、心の随に引接す。天眼を以て生処を見、天耳を以て言音を聞き、宿命智を以てその恩を憶ひ、他心智を以てその心を了り、神境通を以て随逐・変現し、方便力を以て教誡・示導す。平等経に云ふが如し。[p064]
かの土の衆生は、皆自らその前世に従来せし所の生を知り、及び八方・上下、去来・現在の事を知り、かの諸天・人民、阡・蠕動の類の、心意に念ふ所、口に言はんと欲する所を知る。いづれの歳、いづれの劫に、この国に生れ、菩薩の道を作し、阿羅漢を得べきか、皆予めこれを知る。[p065]
と。また華厳経の普賢の願に云く、
願はくは、我命終らんと欲する時に臨んで 尽く一切のもろもろの障碍を除いて 面りかの仏、阿弥陀を見たてまつり 即ち安楽の刹に往生することを得ん 我既にかの国に往生し已れば 現前にこの大願を成就し 一切円満して尽く余すことなく 一切衆生界を利楽せん[p065]
と。無縁すらなほしかり。いはんや結縁をや。
 竜樹の偈に云く、
無垢荘厳の光 一念及び一時に 普く諸仏の会を照し もろもろの群生を利益す
と。

 第七に聖衆倶会の楽とは、経に云ふが如し。
衆生聞かん者は、応当に願を発して、かの国に生れんと願ふべし。所以はいかん。かくの如きもろもろの上善の人と、倶に一処に会することを得ればなり。
と。<已上>[p065]
 かのもろもろの菩薩聖衆の徳行は思ひ議るべからず。普賢菩薩の言く、
もし衆生ありて、いまだ善根を種ゑざるもの、及び少善を種ゑたる声聞・菩薩は、なほわが名字を聞くことを得ず。いはんやわが身を見んことをや。もし衆生ありてわが名を聞くことを得ば、阿耨菩提に於てまた退転せず。乃至、夢の中にて、我を見、聞かん者も亦またかくの如し。[p066]
と。<華厳経の意> また云く、
我常にもろもろの衆生に随順して 未来一切の劫を尽すまで 恒に普賢の広大の行を修し 無上の大菩提を円満せん 普賢の身相は虚空の如し 真に依りて住すれば国土にあらず もろもろの衆生の心の欲する所に随ひて 普き身を示現して一切に等しくす 一切の刹の中の諸仏の所に 種々の三昧もて神通を現し 一々の神通は悉く 十方の国土に周遍して遺す者なし 一切の刹の如来の所の如く かの刹の塵の中にも悉くまた然り[p066]
と。<同じ経の偈>
文殊師利大聖尊は、三世諸仏、以て母となす 十方の如来の初発心は 皆これ文殊が教化の力なり 一切世界のもろもろの有情の 名を聞き、身及び光相を見 并に随類のもろもろの化現を見るものは 皆仏道を成ずること思議し難し[p066]
と。<心地観経の意> もしただ名を聞く者は十二億劫の生死の罪を除き、もし礼拝・供養する者は恒に仏家に生れ、もし名字を称すること一日・七日ならば、文殊必ず来りたまふ。もし宿障あらば、夢の中に見たてまつることを得て、求むるところ円満す。もし形像を見たてまつる者は、百千劫の中に悪道に堕せず。もし慈心を行ずる者は即ち文殊を見たてまつることを得。もし名を誦持し読誦することあらん者は、たとひ重障ありとも阿鼻の極悪猛火に堕せずして、常に他方の清浄の仏土に生る。<文殊般涅槃経の意。かの形像は、経に広く説くが如し>また百千億那由他の仏の、衆生を利益したまふことも、文殊師利の、一劫の中に於て作す所の利益には及ばず。故にもし文殊師利法菩薩の名を称する者は、福、かの百千億の諸仏の名号を受持するよりも多し。<宝積経の意>[p066-067]
 弥勒菩薩は功徳無量なり。もしただ名を聞く者は黒闇の処に堕せず。一念も名を称する者は、千二百劫の生死の罪を除却し、帰依することあらん者は、無上道に於て不退転を得。<上生経の意>称讃し礼拝する者は、百千万億阿僧祇劫の生死の罪を除く。<虚空蔵経・仏名経の意>[p067]
無量千万劫に 修する所の願と智と行とは 広大にして量るべからず 称揚すとも能く尽すことなけん<華厳経の偈。已上の三菩薩、常に極楽世界に在します。四十華厳経に出づ>[p067]
 地蔵菩薩は、毎日晨朝に恒沙の定に入り、法界に周遍して苦の衆生を抜く。所有の悲願、余の大士に超えたり。<十輪経の意> かの経の偈に云く、[p067]
一日、地蔵の 功徳大名聞を称せんに 倶胝劫の中に 余の智者を称する徳に勝る たとひ百劫の中に その功徳を讃説すとも なほ尽すことあたはず 故に皆当に供養すべし[p067]
と。
 観世音菩薩の言はく、「衆生、苦ありて、三たびわが名を称せんに、往いて救はずは正覚を取らじ」と。<弘猛海慧経>「もし百千倶胝那鞫スの諸仏の名号を称念することあらん。また暫時もわが名号に於て心を至して称念することあらん。かの二の功徳は平等平等なり。もろもろの、わが名号を称念することあらん者は、一切皆、不退転地を得ん」と。<十一面経>[p068]
衆生、もし名を聞かば 苦を離れて解脱を得ん また地獄に遊戯して 大悲代りて苦を受けん
と。<請観音経の偈>
弘誓の深きこと海の如し。劫を歴とも思議せられず 多千億の仏に侍へて 大清浄の願を発す 神通力を具足し 広く智の方便を修し 十方のもろもろの国土に 刹として身を現ぜざることなし 念々に疑を生ずることなかれ 観世音の浄聖は 苦悩死厄に於て 能く為に依怙となる 一切の功徳を具し 慈眼もて衆生を視る 福聚の海無量なり この故に頂礼すべし[p068]
と。<法華経>[p068]
 大勢至菩薩の曰はく、
我能くもろもろの悪趣の、未度の衆生を度するに堪任せり。
と。<宝積経>[p068]
 智慧の光を以て、普く一切を照して三途を離れしむるに、無上の力を得たり。故にこの菩薩を大勢至と名づく。この菩薩を観ずる者は、無数劫阿僧祇の生死の罪を除き、胞胎に処せずして、常に諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。<観経の意>[p069]
無量無辺無数劫に 広く願力を修して弥陀を助け 常に大衆に処して法言を宣ぶ 衆生の聞かん者は浄眼を得 神通もて十方の国に周遍し 普く一切衆生の前に現る 衆生もし能く心を至して念ずれば 皆悉く導いて安楽に至らしむ[p069]
と。<竜樹の讃> また云く、
観音・勢至は大名称あり 功徳・智慧、倶に無量なり 慈悲を具足して世間を救ひ ーく一切衆生の海に遊ぶ かくの如き勝れたる人は甚だ遇ひ難し 一心に恭敬して頭面に礼したてまつれ[p069]
と。<已上>
 かくの如き一生補処の大菩薩は、その数恒沙の如し。色相端厳にして功徳具足し、常に極楽国にありて弥陀仏を囲繞したてまつる。[p069]
 またもろもろの声聞衆も、その数量り難し。神智洞く達して威力自在なり。能く掌の中に於て一切の世界を持つ。たとひ大目連の如きもの、百千万億無量無数ありて、阿僧祇劫に於て、悉く共に、かの初会の声聞を計校せんに、知る所の数はなほ一イの如く、その知らざる所は大海の水の如し。その中に、般泥ッにして去りし者も無央数にして、新たに阿羅漢を得る者もまた無央数なり。しかも都て増減をなさず。譬へば、大海の、恒に水を減ずといへども、恒に水を加ふといへども、しかも増すことなく、また減ずることなきが如し。[p069-070]
もろもろの菩薩衆は、また上の数に倍す。大論に云ふが如し。
弥陀仏の国には、菩薩僧は多く声聞僧は少し。
と。<已上>かくの如き聖衆、その国に充ち満つ。互に遥かに相瞻望し、遥かに語声を聞き、同じく一に道を求めて異類あることなし。いかにいはんや、また十方恒河沙の仏土の、無量塵数の菩薩聖衆は、おのおの神通を現じて安楽国に至り、尊顔を瞻仰して恭敬し供養したてまつる。或は天の妙花をJし、或は妙宝の香を焼き、或は無価の衣を献じ、或は天の伎楽を奏し、和雅の音を発して、世尊を歌歎し、経法を聴受し道化を宣布す。かくの如く往来すること、昼夜に絶えず。東方に去れば西方より来り、西方に去れば北方より来り、北方に去れば南方より来る。四維・上下も互にまたかくの如し。更に相開避すること、猶し盛なる市の如し。これ等の大士は、一たびその名を聞くすらなほ少縁にあらず。いはんや百千万劫にも、誰か相見ることを得る者あらん。しかるに、かの国土の衆生は常に一処に会し、互に言語を交へ、問訊し恭敬し、親近し承習す。また楽しからずや。<已上は、双観経・観経・平等経等の意なり>[p070]
 竜樹の偈に曰く、
かの土のもろもろの菩薩は、もろもろの相好を具足して 皆自ら身を荘厳せり 我いま帰命し礼したてまつる 三界の獄を超出して 目は蓮華の葉の如し 声聞衆無量なり この故に稽首し礼したてまつる[p070-071]
 と。また云く、
十方より来る所のもろもろの仏子 神通を顕現して安楽に至り 尊顔を瞻仰して常に恭敬す 故に我、弥陀仏を頂礼したてまつる[p071]
と。

 第八に、見仏聞法の楽とは、今この娑婆世界は、仏を見たてまつりて法を聞くこと、甚だ難し。師子吼菩薩の言く、
我等、無数百千劫に 四無量・三解脱を修して いま大聖牟尼尊を見たてまつること 猶し盲亀の浮木に値へるが如し[p071]
と。また儒童は全身を捨てて始めて半偈を得、常啼は肝府を割いて遠く般若を求めたり。菩薩すらなほしかり、いかにいはんや凡夫をや。仏、舎衛に在しますこと二十五年、かしこの九億の家の、三億は仏を見たてまつり、三億は纔に聞き、その余の三億は見ず聞かず。在世すらなほしかり、いかにいはんや滅後をや。故に法華に云く、
このもろもろの罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過せども 三宝の名を聞かず[p071]
と。
 しかるに、かの国の衆生は常に弥陀仏を見たてまつり、恒に深妙の法を聞く。謂く、厳浄の地の上には菩提樹ありて、枝葉四に布き、衆宝もて合成せり。樹の上には宝の羅網を覆ひ、条の間には珠の瓔珞を垂れたり。風、枝葉を動かさば、声、妙法を演べ、その声流布して諸仏の国にーず。その聞くことあらん者は深法忍を得、不退転に住し、耳根清徹なり。樹の色を覩、樹の香を聞ぎ、樹の味を嘗め、樹の光に触れ、樹の相を縁ずるも、一切また然り。仏道を成ずるに至るまで六根清徹なり。樹の下には座ありて荘厳無量なり。座の上には仏ましまして相好無辺なり。烏瑟高く顕れて晴天の翠濃く、白毫右に旋りて、秋月の光満つ。青蓮の眼、丹菓の唇、迦陵頻の声、師子相の胸、仙鹿王の黶A千輻輪の趺、かくの如き八万四千の相好、紫磨金身の纏ひ絡り、無量塵数の光明、億千の日月を集めたるが如し。ある時は、七宝の講堂にありて妙法を演暢したまふに、梵音深妙にして、衆の心を悦可せしめたまふ。菩薩・声聞・天人・大衆、一心に合掌して尊顔を瞻仰すれば、即時、自然の微風、七宝の樹を吹き、無量の妙花、風に随ひて四に散り、一切の諸天は、もろもろの音楽を奏す。この時に当りて、髴}快楽、勝て言ふべからず。或はまた広大の身を現じ、或は丈六・八尺の身を現じ、或は宝樹の下にあり、或は宝池の上にあり。衆生の本の宿命により、求道の時、心に憙み願ひし所に随ひ、大小、意の随に、為に経法を説き、そをして疾く開解し得道せしむ。かくの如く種々の機に随ひて、種々の法を説きたまふ。[p072]
 また観音・勢至の両菩薩は、常に仏の左右の辺にありて、坐り侍りて政論す。仏は常にこの両菩薩と共に対座して、八方・上下、去来・現在の事を議したまふ。或る時は、東方恒沙の仏国の無量無数のもろもろの菩薩衆、皆悉く無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の衆に及ぼす。南・西・北方・四維・上下もまたかくの如し。かの厳浄の土の、微妙にして思議し難きを見て、因りて無量の心を発し、「わが国もまた然らん」と願ふ。[p072-073]
 時に応じて、世尊、容を動かして微咲し口より無数の光を出して、遍く十方の国を照したまふ。廻光、身を囲ること三アして頂に入る。一切の天人衆、踊躍して皆歓喜す。大士観世音、服を整へ稽首して仏に問ひたてまつる、「何に縁りてか咲みたまふこと、ただ然るや、願はくは説きたまへ」と。時に梵声、雷のごとく八音もて妙響を暢べ、当に菩薩に記を授けたまふべし。告げて言はく、「仁、諦かに聴け。十方より来れる正士、吾悉くかの願を知る。厳浄の土を志求し、決を受けて、当に仏と作るべし。一切の法はなほ夢・幻・響の如しと覚了するも、もろもろの妙願を満足して、必ずかくの如き刹を成ぜん。法は電・影の如しと知るも、菩薩の道を究竟して、もろもろの功徳の本を具へ、決を受けて、当に仏と作るべし。諸法の性は一切、空・無我なりと通達するも、専ら浄き仏土を求めて、必ずかくの如き刹を成ぜん」と。<已上>いはんやまた、水鳥・樹林、皆妙法を演べ、およそ聞かんと欲する所は、自然に聞くことを得。かくの如き法楽、またいづれの処にかあらんや。<この中は多く双観経・平等覚経等の意に依る>[p073]
 竜樹の讃に曰く、
金底宝間の池に生ひたる花には 善根所成の妙台座あり かの座の上に於て山王の如し 故に我、弥陀仏を頂礼したてまつる もろもろの有は無常・無我等なり また水の月・電・影・露の如しと 衆の為に法の名字なきことを説きたまふ 故に我、弥陀仏を頂礼したてまつる
願はくはもろもろの衆生と共に 安楽国に往生せん[p073-074]
と。

 第九に、随心供仏の楽とは、かの土の衆生は、昼夜六時に、常に種々の天華を持ちて、無量寿仏を供養したてまつる。また意に他方の諸仏を供養せんと欲することあれば、即ち前んで長跪し、叉手して仏に白せば、則ちこれを可したまふ。皆大いに歓喜し、千億万の人、おのおの自ら翻り飛び、等輩相追ひ、倶共に散り飛んで、八方・上下、無央数の諸仏の所に到り、皆前んで礼を作し、供養し恭敬したてまつる。かくの如く毎日の晨朝に、おのおの衣Iを以てもろもろの妙花を盛り、他方の十万億の仏に供養したてまつる。及びもろもろの衣服・伎楽、一切の倶共、意の随に出生し、供養し恭敬す。即ち食時を以て本国に還り到りて、飯食し経行してもろもろの法楽を受く。或は言く、毎日三時に諸仏を供養したてまつると。[p074]
 行者、今遺教に従ひて、十方仏土の種々の功徳を聞くことを得、見るに随ひ、聞くに随ひて、遥かに恋慕を生ず。おのおの謂て言く、「我等、いづれの時にか、十方の浄土を見ることを得、諸仏・菩薩に値ひたてまつることを得ん」と。教文に対ふごとに、嗟歎せずといふことなし。しかれども、もしたまたま極楽国に生るることを得ば、或は自力に由り、或は仏力を承けて、朝に往き、暮に来り、須臾に去り、須臾に還り、遍く十方一切の仏の刹に至りて、面り諸仏に奉へたてまつり、もろもろの大士に値遇して、恒に正法を聞き、大菩提の記を受く。乃至、普く一切の塵刹に入りて、もろもろの仏事を作し、普賢の行を修す。また楽しからずや。<阿弥陀経・平等覚経・双観経の意>[p074-075]
 竜樹の偈に云く、
かの土の大菩薩は、日々、三時に於て 十方の仏を供養す この故に稽首し礼したてまつる[p075]
と。
 第十に、増進仏道の楽とは、今この娑婆世界は、道を修して果を得ること甚だ難し。いかんとなれば、苦を受くる者は常に憂へ、楽を受くる者は常に著す。苦を云ひ、楽と云ひて、遠く解脱を離る。もしは昇、もしは沈、輪廻にあらずといふことなし。たまたま発心して修行する者ありといへども、また成就すること難し。煩悩内に催し、悪縁外に牽いて、或は二乗の心を発し、或は三悪道に還る。譬へば、水中の月の、波に随ひて動き易く、陣前の軍の、刃に臨めば則ち還るがごとし。魚子は長じ難く、菴菓は熟すること少し。かの身子等の、六十劫に退きしが如き者、これなり。ただ釈迦如来は、無量劫に於て難行し苦行して、功を積み徳を累ね、菩薩の道を求めて、いまだ曾て止息したまはず。三千大千世界を観ずるに、乃至、芥子許りも、この菩薩の、身命を捨てたまふ処にあらざる如きもの、あることなし。衆生の為の故なり。しかる後に、乃ち菩提の道を成ずることを得たまへり。その余の衆生は己が智分にあらず。象の子は力微ければ、身は刀箭に歿す。故に竜樹菩薩の云く、[p075-076]
譬へば、四十里の氷に、もし一人ありて、一升の熱湯を以てこれに投ぜんに、当時は氷減ずるに似たれども、夜を経て明くるに至れば、乃ち余のものよりも高きが如し。凡夫の、ここにありて心を発し、苦を救はんとするも亦またかくの如し。貪・瞋の境は順違多きを以ての故に、自ら煩悩を起し、返りて悪道に堕つ。[p076]
と。<已上>
 かの極楽国土の衆生は、多くの因縁あるが故に畢竟して退かず、仏道を増進す。一には仏の悲願力、常に摂持したまふが故に。二には仏の光、常に照して菩提心を増すが故に。三には水鳥・樹林・風鈴等の声、常に念仏・念法・念僧の心を生ぜしむるが故に。四に純らもろもろの菩薩、以て善友となり、外に悪縁なく、内に十惑を伏するが故に。五には寿命永劫にして、仏と共に斉等なれば、仏道を修習するに、生死の間隔あることなきが故に。華厳の偈に云く、[p076]
もし衆生ありて一たび仏を見たてまつれば 必ずもろもろの業障を浄め除かしめん[p076]
と。一たび見たてまつるすら、なほしかり。いかにいはんや、常に見たてまつるをや。
 この因縁に由りて、かの土の衆生は、所有の万物に於て我・我所の心なく、去来進止、心に係る所なし。もろもろの衆生に於て大悲心を得、自然に増進して、無生忍を悟り、究竟して必ず一生補処に至る。乃至、速かに無上菩提を証す。衆生の為の故に、八相を示現し、縁に随ひ、厳浄の国土にありて妙法輪を転じ、もろもろの衆生を度す。もろもろの衆生をして、その国を欣求すること、我の、今日、極楽を志願するが如くならしめん。また十方の往いて衆生を引接すること、弥陀仏の大悲の本願の如し。かくの如き利益、また楽しからずや。[p076-077]
 一世の勤修は、これ須臾の間なり。なんぞ衆事を棄てて浄土を求めざらんや。願はくはもろもろの行者、努力懈ることなかれ。<多くは双観経、并に天台の十疑等の意に依る>[p077]
竜樹の偈に云く、
かの尊の無量の方便の境には 諸趣・悪知識あることなし 往生すれば退かずして菩提に至る 故に我、弥陀仏を頂礼したてまつる 我、かの尊の功徳の事を説くに 衆善無辺なること海水の如し 獲る所の善根清浄なる者もて 願はくは衆生と共にかの国に生れん[p077]
願はくはもろもろの衆生と共に 安楽国に往生せん[p077]
と。


 大文第三に、極楽の証拠を明さば、二あり。一には十方に対し、二には兜率に対す。
[p078]
 初めに、十方に対すとは、問ふ、十方に浄土あり、なんぞただ極楽のみ生れんと願ふや。
 答ふ。天台大師の云く、「もろもろの経論は、処々にただ衆生をして偏に阿弥陀仏のみを念ずることを勧め、西方極楽世界を求めしめたり。無量寿経・観経・往生論等の、数十余部の経論の文は、慇懃に指授して西方に生れんことを勧めたり。ここを以て偏に念ずるなり」と。<已上> 大師、一切の経論を披悦すること、およそ十五遍。応に知るべし、述ぶる所、信ぜざるべからずと。[p078]
 迦才師の三巻の浄土論に、十二の経と七の論を引けり。一には無量寿経、二には観経、三には小阿弥陀経、四には鼓音声経、五には称揚諸仏功徳経、六には発覚浄心経、七には大集経、八には十往生経、九には薬師経、十には般舟三昧経、十一には大阿弥陀経、十二には無量清浄平等覚経なり。<已上。双観無量寿経・清浄覚経・大阿弥陀経は同本違訳なり> 一には往生論、二には起信論、三には十住毘婆沙論、四には一切経の中の弥陀偈、五には宝性論、六には竜樹の十二礼偈、七には摂大乗論の弥陀偈なり。<已上。智憬師はこれに同じ>[p078]
 私に加へて云く、法華経の薬王品、四十華厳経の普賢願、目連所問経・三千仏名経・無字宝篋経・千手陀羅尼経・十一面経・不空羂索・如意輪・随求・尊勝・無垢浄光・光明・阿弥陀等の、もろもろの顕密の教の中に、専ら極楽を勧むること、称げて計ふべからず、故に偏に願求するなりと。[p078-079]
 問ふ。仏の言はく、「諸仏の浄土は実に差別なし」と。何が故に、如来は偏に西方を讃めたまふや。[p079]
 答ふ。随願往生経に、仏、この疑を決して言はく、[p079]
娑婆世界には、人貪濁多くして信向する者少く、邪を習ふ者多くして正法を信ぜず、専一なることあたはざれば、心乱れて志すことなし。実には差別なけれども、もろもろの衆生をして専心にあることあらしめんとす。この故にかの国土を讃歎するのみ。もろもろの往生人、悉く、かの願に随ひて果を獲ずといふことなし。[p079]
と。また心地観経に云く、[p079]
 もろもろの仏子等、応当に心を至して、一仏及び一菩薩を見たてまつらんと求むべし。かくの如きを名づけて出世の法要となす。[p079]
と云々。この故に、専ら一仏国を求むるなり。
 問ふ。その心を専らにせんが為に、何が故に、中に於てただ極楽のみを勧むるや。[p079]
 答ふ。たとひ、余の浄土を勧むとも、またこの難を避れず。仏意、測り難しただ仰信すべし。譬へば、痴人の、火坑に堕ちて自ら出づることあたはざらんに、知識これを救ふに一の方便をもてせば、痴人、力を得て、応に務めて速かに出づべきがごとし。何の暇ありてか、縦横に余の術計を論ぜん。行者もまたしかり。他の念を生ずることなかれ。目連所問経に云ふが如し。[p079]
譬へば、万川の長流に草木を浮ぶることあらんに、前は後を顧みず、後は前を顧みずして、都て大海に会するが如し。世間もまたしかり。豪貴・富楽、自在なることありといへども、悉く生老病死を免るることを得ず。ただ仏の経を信ぜざるに由りて、後世に人となるも、更に甚だ困劇して、千仏の国土に生るることを得ることあたはず。この故に、我説かく、「無量寿仏の国は往き易く、取り易し」と。しかるに、人、修行して往生することあたはずして、反りて九十五種の邪道に事ふ。我説かく、「この人を眼なき人と名づけ、耳なき人と名づく」と。[p080]
と。阿弥陀経に云く、
我この利を見るが故に、この言を説く。もし信ずることあらん者は、応当に願を発して、かの国土に生ずべし。[p080]
と。<已上>
 仏の誡、慇懃なり。ただ仰ぎ信ずべし。いはんやまた機縁なきにあらず、なんぞ強ひてこれを拒まんや。天台の十疑に云ふが如し。
阿弥陀仏は、別に大悲の四十八願ありて、衆生を接引したまふ。またかの仏の光明は、遍く法界の念仏の衆生を照して、摂取して捨てたまはず。十方の、おのおの恒河沙の諸仏、舌を舒べて三千界を覆ひ、一切衆生の、阿弥陀仏を念じ、仏の大悲の本願力に乗じて、決定して極楽世界に生るることを得るを証誠したまふ。また無量寿経に云く、「末後法滅の時に、特りこの経を留めて、百年、世にあらしめ、衆生を接引して、かの国土に生れしめん」と。故に知る、阿弥陀と、この世界の極悪の衆生とは、偏に因縁ありといふことを。[p080-081]
と。<已上> 慈恩の云く、
末法万年には、余経は悉く滅し、弥陀の一教のみ、物を利すること偏に増さん大聖特り留めたまふこと百歳。時、末法を経ること一万年に満たば、一切の諸経は並従ひて滅没せん。釈迦の恩重くして、教を留めたまふこと百年なり。[p081]
と。<已上> また懐感禅師の云く、
般舟三昧経に説かく、「跋陀和菩薩、釈迦牟尼仏に請うて言く、「未来の衆生は、いかにしてか十方の諸仏を見たてまつることを得ん」と。仏教へて、「阿弥陀を念ぜしめたまふに、即ち十方の一切の仏を見たてまつる」と。この仏、特に娑婆の衆生と縁あるを以て、まづこの仏に心を専らにして称念すれば、三昧も成じ易きなり」と。[p081]
と。<已上>
 また観音と勢至は、本この土に於て菩薩の行を修し、転じてかの国に生れたり。宿縁の追ふ所、あに機応なからんや。

 第二に、兜率に対すとは、問ふ、玄奘三蔵の云く、
西方の道俗は並弥勒の業を作す。同じく欲界にしてその行成じ易きが為なり。大小乗の師、皆この法を許す。弥陀の浄土は、恐らくは凡鄙穢れて修行成じ難からん。旧き経論の如きは、七地已上の菩薩、分に随ひて報仏の浄土を見ると。新論の意に依らば、三地の菩薩、始めて報仏の浄土を見ることを得べしと。あに下品の凡夫、即ち往生を得べけんや。[p081-082]
と。<已上> 天竺、既にしかり、今なんぞ極楽を勧むるや。
 答ふ。中国・辺州、その処、異りといへども、顕密の教門、その理これ同じ。如今引く所の証拠、既に多し。いづくんぞ、仏教の明文に背いて天竺の風聞に従ふべけんや。いかにいはんや、祇ッ精舎の無常院には、病者をして西に面ひ、仏の浄刹往く想を作さしむるをや。具さには、下の臨終行儀の如し。明かに知る、仏意、偏に極楽を勧めたまへるを。西域の風俗、あにこれに乖かんや。[p082]
 また懐感禅師の群疑論には、極楽と兜率とに於て十二の勝劣を立てたり。
一には化主の仏と菩薩と別なるが故に。二には浄・穢の土の別。三には女人の有無。四には寿命の長短。五には内・外の有無。<天の内院には不退、外院は有退。西方は悉く無退> 六には五衰の有無。七には相好の有無。八には五通の有無。九には不善の心の起と不起。十には滅罪の多少。謂く、弥陀の名を称すれば千二百劫の罪を除き、弥陀の名を称すれば八十億劫の罪を滅す。十一には苦の受の有無。十二には生を受くることの異なり。謂く、天は男女の膝の下、懐の中にあれども、西方は花の裏、殿の中にあり。二処の勝劣、その義かくの如しといへども、しかも並に仏は勧め讃めたまへり。相是非することなかれ。[p082]
と。<已上は、おおよそ二界の勝劣・差別を立つ>
 慈恩は十の異を立つ。前の八は感師の所立出でず。故に更に抄せず。その第九に云く、「西方は、仏、来り迎へたまふも、兜率はしからず」と。感師の云く、来り迎へたまふことは同じ」と。第十に云く、「西方は、経論に慇懃に勧むること極めて多きも、兜率は多きにあらずして、また慇懃にもあらず」と云々。[p083]
 感師はまた往生の難易に於て、十五の同の義と、八の異の義とを立てたり。八の異の義とは、
一には本願の異。謂く、弥陀には引摂の願あれども、弥勒には願なし。願なきは、自ら浮びて水を度るがごとし。願あるは、舟に乗りて水に遊ぶがごとし。二には光明の異。謂く、弥陀仏の光は、念仏の衆生を照し、摂取して捨てたまはざれども、弥勒はしからず。光の照すは昼日の遊びの如く、光なきは暗中に来往するに似たり。三には守護の異。謂く、無数の化仏・観音・勢至、常に行者の所に至る。また称讃浄土経に云く、「十方の十兢河沙の諸仏の、摂受したまふ所なり」と。また十往生経に云く、「仏、二十五菩薩を遣はして、常に行人を守護したまふ」と。兜率はしからず。護あるは多くの人共に遊んで、強賊の逼る所を畏れざるがごとく、護なきは孤り嶮しきNに遊んで、必ず暴客の侵す所となるに似たり。四には舒舌の異。謂く、十方の仏、舌を舒べて証誠したまふも、兜率はしからず。五には衆聖の異。謂く、花聚菩薩・山海慧菩薩、弘き誓願を発さく、「もし、一の衆生として、西方に生るること尽きざるものあらんに、我もしまづ去らば、正覚を取らじ」と。六には滅罪の多少。<前の如し> 七には重悪の異。謂く、五逆の罪を造れるものもまた西方に生るることを得れども、兜率はしからず。八には教説の異。謂く、無量寿経に云く、「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉づ、道に昇るに窮極なし、往き易くして人なし」と。兜率はしからず。十五の同の義もて、なほ生れ難しと説くべからず。いはんや、異に八門あり。しかるを乃ち説いて、往き難しと言はんや。請ふ、もろもろの学者、理及び教を尋ね、その難易の二門を鑑みて、永くその惑を除くべし。[p083-084]
と。<已上は略抄なり。ただし十五の同の義は、かの論を見るべし>
 問ふ。玄奘の伝ふる所、会せずはあるべからず。
 答ふ。西域の行法は、暗ければ以て決し難きも、今試みに会して云はん。西域の行者、多く小乗にあり。<十五国は大乗を学び、十五国は大小兼学し、四十一国は小乗を学ぶ>兜率に上生することは、大小共に許し、他方の仏土に往くことは、大は許し小は許さず。彼は共に許すが故に、並兜率と云ひしものならんか。流沙より以東は盛んに大乗を興す。かの西域の雑行に同ずべからず。いかにいはんや、諸教の興隆は必ずしも一時ならず。なかんづく、念仏の教は、多く末代の、経道の滅したる後の濁悪の衆生を利す。計るに、かの時、天竺にはいまだ興盛ならざりしか。もししからずは、上足の基師、あに、別に西方要決を著し、十の勝劣を立てて自他に勧むべけんや。[p084]
 問ふ。心地観経に云く、[p084]
我、今の弟子を弥勒に付す。竜花会の中に解脱を得ん。[p085]
と。あに、如来、兜率を勧進したまひしにあらずや。[p085]
 答ふ。これまた違ふことなし。誰か、上生・心地等の両三の経を遮せん。しかれども、極楽の文の、顕密に且千なるにはしかず。また大悲経の第三に云く、
当来の世に於て、法の滅せんと欲する時、当に比丘・比丘尼ありて、わが法の中に於て出家することを得已り、手に児の臂を牽いて共に遊行し、酒家より酒家に至り、わが法の中に於て非梵行を作すべし。<乃至> たとひ、性はこれ沙門なれども、沙門の行をヤして自ら沙門と称し、形は沙門に似て、当に袈裟・衣を被著する者あるべし。この賢劫に於て、弥勒を首となし、乃至、最後の盧遮仏の所にて般涅槃に入り、遺余あることなからん。何を以ての故に。かくの如く一切のもろもろの沙門の中に、、乃至、一たびも仏の名を称し、一たびも信を生ずる者は、所作の功徳、終に虚設ならざればなり。[p085]
と。<已上> 心地観経の意もまたかくの如し。故にかの経には、竜花と云ひて、兜率とは云はざるなり。
 今、これを案ずるに、釈尊の入滅より慈尊の出世に至るまで、五十七倶胝六十百千歳を隔てたり。<新婆沙の意> その間の輪廻、劇苦いくばくぞや。なんぞ、終焉の暮に即ち蓮の胎に託することを願はずして、しかも悠々たる生死に留りて竜花会に至ることを期せんや。いかにいはんや、もしたまたま極楽に生ぜば、昼夜、念の随に都率の宮にも往来し、乃至、竜花会の中に、新たに対揚の首とならんこと、猶し富貴にして故郷に帰らんが如し。誰の人か、この事を欣楽せざらんや。[p085-086]
 もし別縁あらば余方もまた佳し。およそ意楽に随ふべし。異執を生ずることなかれ。故に感法師の云く、
兜率を志求する者は、西方の行人を毀ることなかれ。西方に生れんとな願ふ者も、兜率の業を毀ることなかれ。おのおの性の欲に随ひ、情に任せて修学せよ。相是非することなかれ。なんぞただ勝処に生ぜざるのみならん。また乃ち三途に輪転せん。[p086]
と云々。[p086]


 大文第四に、正宗念仏とは、これにまた五あり。世親菩薩の往生論に云ふが如し。
五念門を修して行成就すれば、畢竟して安楽国土に生れて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には廻向門なり。[p087]
と云々。この中に、作願・廻向の二門は、もろもろの行業に於て、応に通じてこれを用ふべし。[p087]

 初に、礼拝〔門〕とは、これ即ち三業相応の身業なり。一心に帰命して五体を地に投げ、遥かに西方の阿弥陀仏を礼したてまつるなり。多少を論ぜざるも、ただ誠心用てせよ。或は応に観仏三昧経の文を念ふべし。[p087]
我今、一仏を礼したてまつるは、即ち一切仏を礼したてまつるなり。もし一仏を思惟すれば、即ち一切仏を見たてまつるなり。一々の仏の前に一の行者ありて、接足して礼をなすは、皆これ己が身なり。[p087]
と。<私に云く、一切仏とはこれ弥陀の分身なり。或はこれ十方の一切の諸仏なりと> 或は応に念ずべし。[p087]
能礼・所礼、性空寂なり 自身・他身、体無二なり 願はくは衆生と共に道を体解し 無上意を発して真際に帰らん[p087]
と。或は応に心地観経の六種の功徳に依るべし。[p087]
一には、無上の大功徳田なり。二には、無上の大恩徳なり。三には、無足・二足及以び多足の衆生の中の尊なり。四には、極めて値遇し難きこと優曇華の如し。五には、独り三千大千世界に出でたまふ。六には、世・出世間の功徳円満して、一切の義の依たり。かくの如き等の六種の功徳を具して、常に能く一切の衆生を利益したまふ。[p088]
と。<已上>
 経の文は極めて略なり。今すべからく言を加へて、以て礼法を為るべし。一には、応に念ずべし、[p088]
一たび南無仏と称せば、皆已に仏道を成ず 故に我 無上の功徳田を帰命し礼したてまつる[p088]
と。二には、応に念ずべし、
慈眼をもて衆生を視はすこと平等にして一子の如し 故に我 極大の慈悲の母を帰命し礼したてまつる[p088]
と。三には、応に念ずべし、
十方のもろもろの大士 弥陀尊を恭敬したてまつる 故に我 無上両足尊を帰命し礼したてまつる[p088]
四には、応に念ずべし、
一たび仏の名を聞くことを得るは 優曇華よりも過ぎたり 故に我 極めて値遇し難き者を帰命し礼したてまつる[p088]
と。五には、応に念ずべし、[p089]
一百倶胝の界には 二尊並び出でず 故に我 希有の大法王を帰命し礼したたまつる[p089]
と。六には、応に念ずべし、
仏法の衆徳の海は 三世同じく一体なり 故に我 円融万徳の尊を帰命し礼したてまつる[p089]
と。もし広く行ずることを楽はば、応に竜樹菩薩の十二礼に依るべし。また善導和尚の六時の礼法あり。具さに出すべからず。たとひ余の行なからんも、ただ礼拝に依りてもまた往生することを得。観虚空蔵菩薩仏名経に云ふが如し。[p089]
阿弥陀仏を至心に敬礼すれば、三悪道を離れて、後にその国に生るることを得。[p089]
と。

 第二に讃歎〔門〕とは、これ三業相応の口業なり。十住婆沙の第三に云ふが如し。[p089]
阿弥陀仏の本願、かくの如し。「もし人、我を念じ、名を称へて自ら帰すれば、即ち必定に入りて、阿耨菩提を得」と。この故に、常に応に憶念し、偈を以て称讃すべし。量りなき光明慧 身は真金の山の如し 我いま身口意もて 合掌し稽首して礼したてまつる 十方の現在の仏 種々の因縁を以て かの仏の功徳を歎めたまふ 我いま帰命し礼したてまつる 仏足に千輻輪あり 柔軟にして蓮華の色あり 見る者皆歓喜す 頭面に仏足を礼したてまつる 眉間の白毫の光は 猶し清浄なる月の如し 面の光色を増益す 頭面に仏足を礼したてまつる かの仏の言説したまふ所 もろもろの罪根を破除す 美言にして益する所多し 我いま稽首し礼したてまつる 一切の賢聖衆 及びもろもろの人天衆 咸く皆共に帰命す この故に我もまた礼したてまつる かの八道の船に乗り 能く度り難き海を度る 自ら度り、また彼を度す 我、自在者を礼したてまつる 諸仏は無量劫に その功徳を讃揚したまふも なほ尽すことあたはず 清浄人を帰命したてまつる 我も今またかくの如し 無量の徳を称讃したてまつる この福の因縁を以て 願はくは仏常に我を念じたまへ この福の因縁を以て 獲る所の上妙の徳を願はくはもろもろの衆生の類も 皆また悉く当に得んことを[p089-090]
と。かの論に三十二偈あり。今略して要を称る。具さには別抄あり。或はまた往生論の偈、真言教の仏讃、阿弥陀の別讃あり。これ等の文を、一遍にても多遍にても、一行にても多行にても、ただ応に誠を至すべし。多少を論ぜざれ。たとひ余行はなくとも、ただ讃歎に依りて、また応に願の随に必ず往生することを得べし。法華の偈に云ふが如し。[p090]
或は歓喜の心を以て 歌唄して仏徳を頌し 乃至一小音もてせるも 皆已に仏道を成ぜり[p090]
と。一音にして既にしかり。いかにいはんや、常に讃ふるをや。仏果すらなほしかり。いかにいはんや、往生をや。真言の讃仏は利益甚だ深し。顕露することあたはず。[p090]

 第三に作願門とは、以下の三門は、これ三業相応の意業なり。綽禅師の安楽集に云く、[p090]
大経に云く、「およそ浄土に往生せんと欲せば、要ず発菩提心を須ふることを源となす」と。いかなるか菩提とならば、乃ちこれ無上仏道の名なり。もし心を発して仏とならんと欲せば、この心広大にして法界に周遍し、この心長遠にして未来際を尽す。この心普く備はりて二乗の障を離る。もし能く一たびもこの心を発さば、無始生死の有輪を傾く。浄土論に云く、「発菩提心とは、正にこれ仏に作らんと願ふ心なり。仏に作らんと願ふ心とは、即ちこれ衆生を度せんとする心なり。衆生を度せんとする心とは、即ちこれ衆生を摂受して有仏の国土に生れしむる心なり」と。今既に浄土に生れんと願ふが故に、まづすべからく菩提心を発すべし。[p091]
と。<已上> 当に知るべし、菩提心はこれ浄土の菩提の綱要なることを。故に聊か三門を以てその義を決択せん。行者、繁を厭ふことなかれ。一には菩提心の形相を明し、二には利益を明し、三には料簡せん。[p091]
 初に、形相とは、惣じてこれを謂はば仏に作らんと願ふ心なり。また、上は菩提を求め、下は衆生を化ふ心とも名づく。別してこれを謂はば四弘誓願なり。これに二種あり。一には、事を縁とする四弘願なり。これ即ち衆生縁の慈なり。或はまた法縁の慈なり。二には、理を縁とする四弘なり。これ無縁の慈悲なり。[p091]
 事を縁とする四弘と言ふは、一には衆生無辺誓願度なり。応に念ずべし。一切衆生に悉く仏性あり、我皆無余涅槃に入らしめんと。この心は即ちこれ饒益有情戒なり。またこれ恩徳の心なり。またこれ縁因仏性なり。応身の菩提の因なり。二には、煩悩無辺誓願断なり。これはこれ摂律儀戒なり。またこれ断徳の心なり。またこれ正因仏性なり。法身の菩提の因なり。三には、法門無尽誓願知なり。これはこれ摂善法戒なり。またこれ智徳の心なり。またこれ了因仏性なり。報身の菩提の因なり。四には、無上菩提誓願証なり。これはこれ仏果菩提を願求するなり。謂く、前の三の行願を具足するに由りて、三身円満の菩提を証得し、還りてまた広く一切衆生を度するなり。[p091-092]
 二に、理を縁とする願とは、一切の諸法は、本より来寂静なり。有にあらず無にあらず、常にあらず断にあらず、生ぜず滅せず、垢れず浄からず。一色・一香も中道にあらずといふことなし。生死即涅槃、煩悩即菩提なり。一々の塵労門を翻せば、即ちこれ八万四千の諸波羅蜜なり。無明変じて明となる。氷の融けて水となるが如し。更に遠き物にあらず、余の処より来るにもあらず。ただ一念の心に普く皆具足せること、如意珠の如し。宝あるにもあらず、宝なきにもあらず。もしなしと謂はば即ち妄語なり。もしありと謂はば即ち邪見なり。心を以て知るべからず。言を以て弁ふべからず。衆生はこの不思議・不縛の法の中に於て、しかも思想して縛をなし、無脱の法の中に於て、しかも脱を求む。この故に普く法界の一切衆生に於て、大慈悲を起し、四弘誓を興す。これを順理の発心と名づく。これ、最上の菩提心なり。<止観の第一を見るべし> また思益経に云く、[p092]
一切の法は法にあらずと知り、一切の衆生は衆生にあらずと知る。これを、菩薩の、無上菩提心を発すと名づく。[p092]
と。また荘厳菩提心経に云く、[p092]
菩提心とは、あるにあらず造るにあらず、文字を離れたり。菩提は即ちこれ心なり。心は即ちこれ衆生なり。もし能くかくの如く解すれば、これを菩薩、菩提を修すと名づく。菩提は過去・未来・現在にあらず。かくの如く、心と衆生と、また過去・未来・現在にあらず。能くかくの如く解するを名づけて菩薩となす。しかもこの中に於て、実に得る所なし。得る所なきを以ての故に得。もし一切の法に於て得る所なくは、これを菩提を得と名づく。始行の衆生の為の故に、菩提ありと説く。<乃至> しかもこの中に於て、また心あることなく、また心と造る者もなし。また菩提あることなく、また菩提を造る者もなし。また衆生あることなく、また衆生を造る者もなし。[p093]
と。<乃至、云々>
 この二の四弘におのおの二の義あり。一には云く、初の二願は衆生の苦・集二諦の苦を抜き、後の二願は、衆生に道・滅二諦の楽を与ふと。二には云く、初の一は他に約し、後の三は自に約すと。謂く、衆生の二諦の苦を抜いて、衆生に二諦の楽を与ふるは、惣じて初の願の中にあり。この願を究竟し円満せんと欲するが為に、更に自身に約して後の三願を発すなり。大般若経に云ふが如し。[p093]
有情を利せんが為に大菩提を求む。故に菩薩と名づく。しかも依著せず。故に摩訶薩と名づく。[p093]
と。<已上> また前の三はこれ因にして、これ別なり。第四はこれ果にして、これ惣なり。[p093]
四弘已りて後は、云ふべし、「自他法界同じく利益し、共に極楽に生れて、仏道を成ぜん」と。心の中に応に念ずべし、「我、衆生と共に極楽に生れ、前の四弘願を円満し究竟せん」と。もし別願あらば四弘の前にこれを唱へよ。もし心不浄ならば正道の因にあらず。もし心に限あらば大菩提にあらず。もし誠を至すことなくはその力強からず。この故に、要ず清浄にして深広なる誠の心を須ひよ。勝他・名利等の事の為にせざれ。しかも仏眼の照す所の、無尽法界の一切の衆生、一切の煩悩、一切の法門、一切の仏徳に於て、この四種の願と行とを発せ。[p093-094]
 問ふ。いづれの法の中に於て無上道を求むるや。
 答ふ。これに利・鈍の二の差別あり。大論に云ふが如し。
黄石の中には金の性あり、白石の中には銀の性あるが如し。かくの如く、一切世間の法の中には皆涅槃の性あり。諸仏・賢聖は、智慧・方便・持戒・禅定を以て引導して、この涅槃の法性を得しめたまふ。利根の者は、即ち、この諸法は皆これ法性なりと知る。譬へば、神通の人の、能く瓦石を変じて皆金とならしむるが如し。鈍根の者は、方便・分別してこれを求め、乃ち法性を得。譬へば、大いに石を冶し鼓ちて、しかる後に金を得るがごとし。[p094]
と。<已上> また云く、
苦行・頭陀し、初・中・後夜に心を勤して観禅し、苦めて道を得るは声聞の教なり。諸法の相は無縛無解なりと観じて、心、清浄なることを得るは菩薩の教なり。文殊師利の本縁の如し。[p094]
と。<已上> 即ち、無行経の喜根菩薩の偈を引いて云く、[p095]
婬欲は即ちこれ道なり 恚・痴もまたかくの如し かくの如き三事の中に 無量の諸仏の道あり もし人ありて 婬・怒・痴と及び道とを分別すれば この人、仏道を去ること 譬へば天と地との如し[p095]
と。かくの如く七十余の偈あり。また同じ論に云く、
一切の法の不可得なる、これを仏道と名づく。即ちこれ諸法の実相なり。この不可得もまた不可得なり。[p095]
と。<略抄> また、迦葉菩薩、仏に白して言さく、
一切の諸法の中に 悉く安楽の性あり ただ願はくは大世尊 わが為に分別して説きたまへ[p095]
と。また般若経に云く、
一切の有情は皆如来蔵なり。普賢菩薩の自体、ーせるが故に。[p095]
と。法句経に云く、
諸仏は貪と瞋とに依りて 道場に処したまふ 塵労は諸仏の種なり 本より来動く所なし 五蓋と及び五欲を 諸仏の種性となす 常にこれを以て荘厳したまふ 本より来動く所なし 諸法は本より来是もなくまた非もなし 是非の性は寂滅し 本より来動く所なし[p095]
と。<已上の六文は、これ利根の人の菩提心なるのみ>[p095]
 問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ応に意に任せて惑業を起すべきや。
 答ふ。かくの如き解を生す、これを名づけて悪取空の者となす。専ら仏弟子にあらず。今反質して云はん。汝、もし煩悩即菩提なるが故に欣ひて煩悩・悪業を起さば、また応に生死即涅槃なるが故に欣ひて生死の猛苦を受くべし。何が故に、刹那の苦果に於てなほ堪へ難きことを厭ひ、永劫の苦因に於ては自ら恣に作らんことを欣ふや。この故に、当に知るべし、煩悩と菩提とは、体はこれ一なりといへども、時・用異るが故に染・浄不同なりと。水と氷との如く、また種と菓との如し。その体はこれ一なれども、時に随ひて用は異るなり。これに由りて、道を修する者は本有の仏性を顕すも、道を修せざる者は終に理を顕すことなし。涅槃経の三十二に云ふが如し。[p096]
善男子。もし人ありて問はん。「この種子の中に果ありや、果なきや」と。応に定んで答へて言ふべし、「亦はあり、亦はなし」と。何を以ての故に。子を離れて外に果を生ずることあたはず。この故に「あり」と名づく。子いまだ芽を出さず。この故に「なし」と名づく。この義を以ての故に、「亦はあり、亦はなし」と。所以はいかん。時節は異ることあれども、その体はこれ一なり。衆生の仏性も亦またかくの如し。もし衆生の中に、別に仏性ありと言はば、この義、然らず。何を以ての故に。衆生は即ち仏性なり、仏性は即ち衆生なり。ただ時の異るを以て浄とふ浄とあるなり。善男子、もし問ふことありて言はん、「この子は能く果を生ずるやいなや、この果は能く子を生ずるやいなや」と。応に定んで答へて言ふべし、「または生じ、生ぜず」と。[p096]
と。<已上>[p097]
 問ふ。凡夫は勤修するに堪へず。何ぞ虚しく弘願を発さんや。[p097]
 答ふ。たとひ勤修するに堪へざらんも、なほすべからく悲願を発すべし。その益の無量なること、前後に明すが如し。調達は六万蔵の経を誦せしもなほ那落を免れざりき。慈童は一念の悲願を発して、忽ち兜率に生るることを得たり。則ち知る、昇沈の差別は心にありて、行にあらざることを。いかにいはんや、誰の人か、一生の中、一たびも南無仏と称せず、一食をも衆生に施さざるものあらん。すべからく、これ等微少の善根を以てしても、皆応に四弘の願・行に摂入すべし。故に行・願相応して、虚妄の願とはならざるなり。優婆塞戒経の第一に云ふが如し。[p097]
もし人、一心に生死の過咎、涅槃の安楽を観察することあたはずは、かくの如き人は、また慧施・持戒・多聞ありといへども、終に解脱分の法を得ることあたはず。もし能く生死の過咎を厭ひ患へ、深く涅槃の功徳と安楽とを見ば、かくの如き人は、また少施・小戒・小聞なりといへども、即ち能く解脱分の法を獲得せん。[p097]
と。<已上。無量の世に於て、無量の財を以て無量の人に施し、無量の仏の所に於て禁戒を受持し、無量の世に無量の仏の所に於て十二部経を受持し読誦するを、名づけて多の施・戒・聞となす。一把のTを以て、一の乞人に施し、一日一夜、八禁を受持し、一の四句偈を読むをば、少の施・戒・聞と名づく。経に広く説くが如し。> この故に、行者、事に随ひて心を用ふれば、乃至、一善も空しく過ぐる者なし。大般若経に云ふが如し。[p097]
もしもろもろの菩薩、深般若波羅蜜多の方便善巧を行ずれば、一心・一行として空しく過ぎて、一切智に回向せざる者あることなし。[p098]
と。<已上>
 問ふ。いかにして心を用ふるや。
 答ふ。宝積経の九十三に云ふが如し。
食を須つものに食を施すは、一切智の力を具足せんが為の故なり。飲を須つものに飲を施すは、渇愛の力を断たんが為の故なり。衣を須つものに衣を施すは、無上の慚愧の衣を得んが為の故なり。坐処を施すは菩提樹の下に坐せんが為の故なり。燈明を施すは仏眼の明を得んが為の故なり。紙墨等を施すは大智慧を得んが為の故なり。薬を施すは衆生の結使の病を除かんが為の故なり。かくの如く、乃至、あるいは自ら財なくは、当に心の施を生すべし。無量無辺の一切の衆生を開示することを得んと欲せば、力あるも力なきも、上の如く布施せよ。これわが善行なり。[p098]
と。<已上。経文は甚だ広し。今は略してこれを抄す。見るべし>
 かくの如く、事に随ひて、常に心の願を発せ。「願はくは、この衆生をして速かに無上道を成ぜしめん。願はくは、かくの如く漸々に第一の願・行を成就し、檀度を円満して速かに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。一の愛語を発し、一の利行を施し、一の善事に同ずるも、これに准じて知るべし。もし暫くも一念の悪を制伏することある時は、応にこの念を作すべし。「願はくは、我かくの如く漸々に第二の願・行を成就し、もろもろの惑業を断じて、速かに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。もし一の文、一の義をも読誦し修習することある時は、応にこの念を作すべし。「願はくは、我かくの如く漸々に第三の願・行を成就し、もろもろの仏法を学んで、速かに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。一切のの事に触れて、常に心を用ふることを作せ。「我今身より漸々に修学し、乃至、極楽に生れて自在に仏道を学び、速かに菩提を証して、究竟して生を利せん」と。もし常にこの念を懐き、力の随に修行せば、イは微なりといへども、漸く大器に盈つるが如く、この心能く巨細の万善を持ちて、漏れ落せしめずして、必ず菩提に至らん。華厳経の入法界品に云ふが如し。[p098-099]
譬へば、金剛の、能く大地を持ちて墜没せしめざるが如く、菩提の心も亦またかくの如し。能く菩薩の一切の願・行を持ちて、墜落して三界に没せしめず。[p099]
と云々。[p099]
 問ふ。凡夫は常途に心を用ふるに堪へず。その時の善根は唐捐なりとせんや。[p099]
 答ふ。もし至誠心もて、心に念じ口に言はん。「我、今日より、乃至、一善をも己が身の有漏の果報の為にせず、尽く極楽の為にし、尽く菩提の為にせん」と。この心を発して後は、所有のもろもろの善、もしは覚るも覚らざるも、自然に無上菩提に趣向す。一たび渠溝を穿たば、諸水自ら流れ入りて、うたた江河に至り、遂に大海に会するが如し。行者もまたしかり。一たび発心して後は、もろもろの善根の水、自然に四弘願の渠に流れ入り、うたた極楽に生れて、遂に菩提の薩婆若の海に会す。なんぞいはんや、時々に、前の願を憶念せんをや。具さには下の廻向門の如し。[p099-100]
 問ふ。凡夫は力なし。能く捨てんとして捨つること難し。或はまた貧乏なり。いかなる方便を以てか、心をして理に順はしめんや。[p100]
 答ふ。宝積経に云く、[p100]
かくの如く布施せんに、もし力あることなく、これを学ぶことあたはず、財を捨つることあたはずは、この菩薩は応にかくの如く思惟すべし、「我、今当に勤めて精進を加へ、時々・漸々に慳貪・悋惜の垢を断除すべし。我、当に勤めて精進を加へ、時々・漸々に財を捨てて施与することを学び、常にわが施心をして増長し、広大ならしむべし」と。[p100]
と。<已上> また因果経の偈に云く、[p100]
もし貧窮の人ありて 財の布施すべきものなくは 他の施を修するを見る時 しかも随喜の心を生ぜよ 随喜の福報は 施と等しくして異ることなし[p100]
と。十住毘婆沙の偈に云く、[p100]
我、今これ新学なり 善根いまだ成就せず 心いまだ自在を得ず 願はくは後に当に相与ふべし[p100]
と。<已上> 行者、応当にかくの如く心を用ふべし。[p100]
 問ふ。この中に、理を縁として菩提心を発するも、また因果を信じて、勤めて道を修行すべきや。[p100]
 答ふ。理、必ず然るべし。浄名経に云ふが如し。[p101]
諸仏の国と 衆生との空なることを観ずといへども しかも常に浄土を修め もろもろの群生を教化す[p101]
と。中論の偈に云く、[p010]
空なりといへどもまた断ならず 有なりといへどもしかも常ならず 業の果報の失せざる これを仏の所説と名づく[p101]
と。大論に云く、
もし諸法皆空ならば則ち衆生なし。誰か度すべき者あらん。この時は悲心、便ち弱し。或は時に衆生の愍むべきを以てせば、諸法の空観に於て弱し。もし方便力を得れば、この二法に於て等しくして偏党することなけん。大悲心は諸法の実相を妨げず。諸法の実相を得れども大悲を妨げず。かくの如き方便を生ずる、この時、便ち菩薩の法位に入りて、阿跋致の地に住することを得。[p101]
と。<略抄>
 問ふ。もし偏して解を生さば、その過いかん。[p101]
 答ふ。無上依経の上巻に、空見を明して云く、
もし人ありて、我見を執すること須弥山の如く大ならんも、我は驚怖せず、また毀呰せず。増上慢の人の、空見に執著すること一髦髪を十六分に作すが如くならんも、我は許可せず。[p101]
と。また中論の第二の偈に云く、[p102]
大聖の、空の法を説きたまふは 諸見を離れしめんが為の故なり もしまた空ありと見ば 諸仏の化せざる所なり[p102]
と。仏蔵経の念僧品に、有所得の執を破して云く、[p102]
有所得の者は、我・人・寿者・命者ありと説いて、無所有の法を憶念し分別す。或は断・常と説き、或は有作と説き、或は無作と説く。わが清浄の法、この因縁を以て漸々に滅尽せん。我、久しく生死にありて、もろもろの苦悩を受けて成ぜし所の菩提をば、このもろもろの悪人、その時、毀壊せん。[p102]
と。<略抄> また同じ経の浄戒品に云く、[p102]
我見・人見・衆生見の者は、多くは邪見に堕ち、断滅見の者は、多くは疾く道を得。何を以ての故に。これは捨て易きが故なり。この故に当に知るべし、この人はむしろ自ら利刀を以て舌を割くとも、衆中にして不浄に法を説くべからず。[p102]
と。<有所得の執を、名づけて不浄となす> 大論に、二執の過を並べ明して云く、[p102]
譬へば、人の、陜き道を行くに、一辺は深き水にして、一辺は大いなる火なるときは、二辺倶に死するが如し。有に著するも無に著するも、二事倶に失す。[p102]
と。<已上> この故に、行者、常に諸法の本より来空寂なるを観じ、また常に四弘の願・行を修習せよ。空と地とに依りて宮舎を造立せんとするも、ただ地のみ、ただ空のみにては、終に成すことあたはざるが如し。これはこれ諸法の三諦相即するに由るが故なり。中論の偈に云く、[p102-103]
因縁所生の法は 我説かく、即ちこれ空なりと また名づけて仮名となす またこれ中道の義なり[p103]
と云々。更に止観を検へよ。
 問ふ。有に執する見、罪過既に重しとせば、事を縁とする菩提心、あに勝れたる利あらんや。[p103]
 答ふ。堅く有に執する時、過失乃ち生ず。言ふ所の、事を縁とすとは、必ずしも堅く執するものにあらず。もししからずば、応に得道の類あるを見ることなかるべし。空を見ることもまたしかり。譬へば、火を用ふるに、手触るれば害をなし、触れざれば益あるが如し。空・有もまたしかり。[p103]
 二に、利益を明さば、もし人、説の如く菩提心を発さんに、たとひ余行を少くとも、願の随に決定して極楽に往生せん。上品下生の類の如き、これなり。かくの如き利益、無量なり。今略して一端を示さん。[p103]
 止観に云く、[p103]
宝梁経に云く、「「比丘にして比丘の法を修せざるものは、大千に唾する処なし。いはんや、人の供養を受くることをや」と。六十の比丘悲泣して、仏に白さく、「我等、乍ちに死すとも、人の供養を受くることあたはず」と。仏言はく、「汝、慚愧の心を起せり。善いかな、善いかな」と。一の比丘、仏に白して言さく、「何等の比丘か、能く供養を受けん」と。仏言はく、「もし比丘の数にありて、僧の業を修め、僧の利を得たる者は、この人能く供養を受けん。四果の向はこれ僧の数なり。三十七品はこれ僧の業なり。四果はこれ僧の利なり」と。比丘、重ねて仏に白さく、「もし大乗の心を発さば、またいかん」と。仏言はく、「もし大乗の心を発して一切智を求めば、数に堕せず、業を修めず、利を得ざるも、能く供養を受けん」と。比丘、驚きて問ひたてまつる、「いかんが、この人能く供養を受くる」と。仏言はく、「この人、衣を受けて用て大地に敷き、揣食を受くること須弥山のごとくならんも、また能く畢に施主の恩を報ぜん」と」と。当に知るべし、小乗の極果は、大乗の初心に及ばざることを。[p103-104]
と。<已上は、信施を消す>[p104]
 また云く、[p104]
如来密蔵経に説かく、「もし人ありて、父の縁覚となりしを害し、三宝の物を盗み、母の羅漢となりしをヤし、不実の事もて仏を謗り、両舌して賢聖を間て、悪口して聖人を罵り、求法の者を壊乱し、五逆の初業の瞋と、持戒の人の物を奪ふ貪と、辺見の痴とあらば、これを十悪の者となす。もし能く、如来の、因縁の法は我も人も衆生の寿命もなく、生もなく滅もなく無染・無著にして、本性清浄なりと説きたまふを知り、また一切の法に於て本性清浄なりと知りて、解知し信入する者は、我、この人を、地獄及びもろもろの悪道に趣向すとは説かず。何を以ての故に。法には積聚なく、法には集悩なし。一切の法は、生ぜず住らず、因縁和合して生起することを得れども、生じ已ればまた滅す。もし心、生じ已りて滅すれば、一切の結使もまた生じ已りて滅せん。かくの如く解すれば犯す処もなし。もし犯すことあり住ることありといはば、この処あることなし。百年の闇室に、もし燈を燃す時は、闇も「我はこれ室の主なり、ここに住ること久しければ、去ること肯んぜず」と言ふべからず。燈もし生ずるときは、闇即ち滅するが如し」と。[p104-105]
その義またかくの如し。この経は、具さに前の四の菩提心を指すなり。[p105]
と。<已上はかの経の下巻にあり。前の四と言ふは、四教の菩提心を指すなり>[p105]
 華厳経の入法界品に云く、
譬へば、善見薬王の、一切の病を滅するが如く、菩提心も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す。譬へば、牛・馬・羊の乳の、合して一器にあるに、師子の乳を以てかの器の中に投るるときは、余の乳は消え尽きて、直ちに過ぐること碍なきが如く、如来てふ師子の、菩提心の乳を、無量劫に積む所のもろもろの業・煩悩の乳の中に著けば、皆悉く消え尽きて、声聞・縁覚の法の中に住らざるなり。[p105]
と。大般若経に云く、
もしもろもろの菩薩、多く五欲と相応せる非理の作意を発起すといへども、しかも一念、無上菩提と相応せる心を起さば、即ち能く折滅す。[p105]
と。<已上の三文は、滅罪の益なり>[p105]
 入法界品に云く、[p105]
譬へば、人ありて、不可壊の薬を得れば、一切の怨敵もその便を得ざるが如く、菩薩摩訶薩も亦またかくの如し。菩提心の不壊の法薬を得れば、一切の煩悩・諸魔・怨敵も壊るあたはざる所なり。譬へば、人ありて、住水宝樹を得て、その身に瓔珞とすれば、深き水の中に入れども、しかも没み溺れざるが如く、菩提心の住水宝樹を得れば、生死の海に入りて沈没せざるなり。譬へば、金剛の、百千劫に於て水の中に処るも、しかも爛壊せず、また変異することなきが如く、菩提の心も亦またかくの如し。無量劫に於て生死の中に処るも、もろもろの煩悩業も断滅することあたはず、また損減すること無きなり。[p106]
と。また同じ経の法幢菩薩の偈に云く、[p106]
もし智慧ある人 一念、道心を発さば 必ず無上尊と成る 慎みて疑惑を生ずることなかれ[p106]
と。<已上は、終に負壊せずして、必ず菩提に至る益なり>[p106]
 また入法界品に云く、[p106]
譬へば、閻浮檀金の、如意宝を除いて一切の宝に勝れるが如く、菩提の心の閻浮檀金も亦またかくの如し。一切智を除いてもろもろの功徳に勝れり。譬へば、迦楞毘伽鳥の、Uの中にある時すら大いなる勢力ありて、余の鳥の及ばざるが如く、菩薩摩訶薩も亦またかくの如し。生死のUに於て、菩提心を発せる功徳・勢力は、声聞・縁覚の及ぶあたはざる所なり。譬へば、波利質多樹の花を一日衣に薫ずるに、瞻蔔の花、婆師の花の、千歳薫ずといへども及ぶあたはざる所なるが如く、菩提心の花も亦またかくの如し。一日薫ずる所の功徳の香は、十方の仏の所に徹り、声聞・縁覚の無漏智を以てもろもろの功徳を薫ずること、百千劫に於てするも及ぶあたはざる所なり。譬へば、金剛の、破れて全からずといへども、一切の衆宝の、なほ及ぶあたはざるが如く、菩提の心も亦またかくの如し。少しく懈怠すといへども、声聞・縁覚のもろもろの功徳の宝の、及ぶあたはざる所なり。[p106-107]
と。<已上。経の中には二百余の喩あり。見るべし> 賢首品の偈に云く、[p107]
菩薩は生死に於て 最初の発心の時 一向に菩提を求むること 堅固にして動ずべからず かの一念の功徳は 深広にして涯際なし 如来、分別して説きたまはんに 劫を窮むとも尽すことあたはじ[p107]
と。<ここに発心と言ふは凡・聖に通ず。具さには弘決に見えたり> また同じ経の偈に云く、[p107]
一切衆生の心は 悉く分別して知るべし 一切刹の微塵も なほその数を算ふべし 十方の虚空界も 一毛もてなほ量るべし 菩薩の初発心は 究竟して測るべからず[p107]
と。また出生菩提心経の偈に云く、
もしこの仏刹のもろもろの衆生をして 信心に住し、及び持戒せしめんに かの最上の大福聚の如きも 道心の十六分に及ばず もし諸仏の刹の、恒河沙のごとくならんに 皆悉く寺を造ること福を求むるが故なるも またもろもろの塔を造ること須弥の如くせんも 道心の十六分に及ばず <乃至> かくの如き人等、勝れたる法を得んも もし菩提を求めて衆生を利せば 彼等衆生の最勝なる者なり これ比類なし、いはんや上あらんや この故にこの諸法を聞くことを得ば 智者は常に法を楽ふ心を生じ 当に無辺の大福聚を得て 速かに無上道を証することを得べし[p107-108]
と。宝積経の偈に云く、[p108]
菩提心の功徳にして もし色・方の分あらば 虚空界に周遍して 能く容受する者なけん[p108]
と云々。
 菩提心には、かくの如き勝れたる利あり。この故に迦葉菩薩の礼仏の偈に云く、[p108]
発心と畢竟とは二にして別なし かくの如き二心においては前の心難し 自らいまだ度することを得ざるに、まづ他を度せんとす この故に我、初発心を礼せん[p108]
と。また弥伽大士は、善財童子の已に菩提心を発せるを聞いて、即ち師子座より下り、大光明を放ちて三千界を照し、五体を地に投げて、童子を礼讃せり。<已上は、惣じて勝れたる利を顕せり>[p108]
 問ふ。事を縁とする誓願もまた勝れたる利ありや。[p108]
 答ふ。理を縁とするにしかずといへども、これまた勝れたる利あり。何を以てか知るとならば、上品下生の業に、「ただ無上の道心を発す」と云ひて、第一義を解すとは云はず。故に知る、ただこれ事の菩提心なることを。もししからずは、かの中生の業と別なかるべし。<その一> 往生論に菩提心を明して、ただ云く、[p108]
一切衆生の苦を抜くを以ての故に。一切衆生をして大菩提を得しむるを以ての故に。衆生を摂取してかの国土に生れしむるを以ての故に。[p109]
と云々。もし事を縁とする心に往生の力なくは、論主あに理を縁とする心を示さざらんや。<その二> 大論の第五の偈に云く、[p109]
もし初発心の時、当に仏と作らんと誓願せば、已にもろもろの世間を過えたり 応に世の供養を受くべし[p109]
と云々。この論もまた、ただ「仏と作らんと願ふ」と云ふ。事の菩提心もまた畢に信施を消すことを明せり。<その三> 止観に、秘密蔵経を引き已りて云く、[p109]
初の菩提心、已に能く重々の十悪を除く。いはんや、第二・第三・第四の菩提心をや。[p109]
と云々。言ふ所の初とは、これ三蔵教の界内の事を縁とする菩提心なり。いかにいはんや、深く一切衆生に悉く仏性ありと信じて、普く自他共に仏道を成ぜんと願ふこと、あに罪を滅することなからんや。<その四> 唯識論に云く、[p109]
菩提と有情との実有を執せずは、猛利の悲願を発起するに由なし。[p109]
と。<已上> 大士の悲願すらなほ有を執して起る。則ち知る、事の願にもまた勝れたる利ありといふことを。<その五> 余は下の廻向門の如し。[p109]
 問ふ。衆生の本有の仏性を信解することは、あに理を縁とするにあらずや。[p109]
 答ふ。これはこれ、大乗至極の道理を信解するなり。必ずしも第一義空と相応せる観慧にはあらず。[p109]
 問ふ。十疑に雑集論を引いて云く、[p110]
もしは安楽浄土に生れんと願ひて、即ち往生を得る者あり。もしは人、無垢仏の名を聞いて、即ち阿耨菩提を得る者あり。これはこれ別時の因なり。全く行あることなし。[p110]
と。<已上> 慈恩も同じく云く、[p110]
願と行と前後するが故に別時と説く。仏を念ずるも、即ち生ぜずと謂ふにはあらざるなり。[p110]
と。<已上> 明かに知んぬ、願ありて行なきは、これ別時の意なることを。いかんが、上品下生の人、ただ菩提の願に由りて、即ち往生を得るや。[p110]
 答ふ。大菩提心は功能甚深なり。無量の罪を滅して無量の福を生ず。故に浄土を求むれば、求むるに随ひて即ち得。言ふ所の別時の意とは、ただ自身の為に極楽を願ひ求むるなり。これ、四弘の願の広大なる菩提心にはあらず。[p110]
 問ふ。大菩提心にもしこの力あらば、一切の菩薩は、初発心より決定して、応に悪趣に堕する者なかるべし。[p110]
 答ふ。菩薩、いまだ不退の位に至らざる前は、染・浄の二心、間雑して起る。前念に衆罪を滅すといへども、後念に更に衆罪を造る。また菩提心に浅深・強弱あり、悪業に久近・定不定あり。この故に退位には昇沈不定なり。菩提心に滅罪の力なきにはあらず。且く愚管を述べたり。見ん者、取捨せよ。[p110]
 三に、料簡とは、問ふ、入法界品に云く、[p111]
譬へば、金剛は金の性より生じて、余の宝より生ずるにあらざるが如し。菩提心の宝も亦またかくの如し。大悲もて衆生を救護する性より生じて、余の善より生ずるにはあらず。[p111]
と。荘厳論の偈に云く、[p111]
恒に地獄に処すといへども 大菩提を障へず もし自利の心を起さば これ大菩提の障なり[p111]
と。また丈夫論の偈に云く、[p111]
悲心もて一人に施さば 功徳の大いなること地の如し 己が為に一切に施さば 報を得ること芥子の如し 一の厄難の人を救ふは 余の一切の施に勝る もろもろの星、光ありといへども 一の月の明かなるにしかず[p111]
と。<已上> 明らけし、自利の行はこれ菩提心の所依にあらざれば、報を得ることもまた少し。いかんぞ、独り速かに極楽に生れんと願ふや。[p111]
 答ふ。あに前に言はずや、極楽を願ふ者は要ず四弘の願を発し、願の随に勤修せよと。これあに、これ大悲心の行にあらずや。また極楽を願求することは、これ自利の心にあらず。しかる所以は、今この娑婆世界はもろもろの留難多し。甘露いまだ沾はざるに、苦海朝宗す。初心の行者、何の暇ありてか道を修せん。故に今、菩薩の願・行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと欲するが為に、まづ極楽を求むるなり。自利の為にせず。十住毘婆沙に云ふが如し。[p111-112]
自らいまだ度することを得ずしては、彼を度するあたはず。人の自ら淤泥に没するが如し。なんぞ能く余人を拯済せん。また、水の為にスはされしもの、溺れたるを済ふことあたはざるが如し。この故に説かく、「我度し已りて、当に彼を度すべし」と。[p112]
と。また法句の偈に説くが如し。[p112]
もし能く自ら身を安んじて、善処にあらば しかる後、余人を安んじて 自ら利する所を同じくせよ[p112]
と。<已上> 故に十疑に言く、[p112]
浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲するが故になり。即ち自ら思忖すらく、「我今、力なし。もし悪世、煩悩の境の中にありては、境強きを以ての故に、自ら纏縛せられて三途に淪溺し、動もすれば数劫を経ん。かくの如く輪転すること、無始より已来いまだ曾て休息せず。いづれの時にか、能く衆生の苦を救ふことを得ん」と。これが為に、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、方に能く悪世の中に於て、衆生の苦を救はんと求むるなり。[p112]
と。<已上> 余の経論の文は、具さに十疑の如し。応に知るべし、仏を念じ、善を修するを業因となし、極楽に往生するを花報となし、大菩提を証するを果報となし、衆生を利益するを本懐となすことを。譬へば、世間に、木を植うれば花を開き、花に因りて菓を結び、菓を得て餐受するが如し。[p112]
 問ふ。念仏の行は、四弘の中に於ては、これいづれの行に摂むるや。[p113]
 答ふ。念仏三昧を修するはこれ第三の願・行なり。随ひて伏滅する所あるはこれ第二の願・行にして、遠近に良縁を結ぶはこれ第一の願・行なり。功を積み徳を累ぬるは、第四の願を成ずるなり。自余の衆善は例して知れ。俟たざれ。[p113]
 問ふ。一心に念仏せば、理としてまた往生すべし。なんぞ要ず経・論に菩提の願を勧むるや。[p113]
 答ふ。大荘厳論に云く、[p113]
仏国は事大なれば、独り行の功徳もては成就することあたはず。要ず願の力を須つ。牛は力ありといへども、車を挽くに要ず御者を須ちて、能く至る所あるが如し。仏の国土を浄むるも願に由りて引成す。願の力を以ての故に福慧増長するなり。[p113]
と。<已上> 十住毘婆沙論に云く、[p113]
一切の諸法は願を根本となす。願を離れて則ち成ぜず。この故に願を発す。[p113]
と。また云く、[p113]
もし人、仏に作らんと願ひて 心に阿弥陀を念ずれば 時に応じて為に身を現じたまふ この故に我帰命したてまつる[p113]
と。<已上> 大菩提心には既にこの力あり。この故に、行者要ずこの願を発せ。[p113]
 問ふ。もし願を発さざれば、終に往生せざるや。[p113]
 答ふ。諸師同じからず。あるが云く、「九品生の人は皆菩提心を発す。その中品の人は、本はこれ小乗なりといへども、後に大心を発してかの国に生るることを得。かの本の習に由りて暫く小果を証す。その下品の人は、大心より退くといへども、しかもその勢力なほありて、生ずることを得」と。<慈恩はこれに同じ> あるが云く、「中・下品はただ福分に由りて生まれ、上品は福分・道分を具して生る」と云々。道分とは、これ菩提心の行なり。[p113ー114]
 問ふ。菩提心には諸師の異解あるが如く、浄土を欣ふ心にもまた不同ありや。[p114]
 答ふ。大菩提心には異説ありといへども、浄土を欣ふ願は、九品皆応に具すべし[p114]
 問ふ。もし浄土の業、願に依りて報を得ば、人の、悪を作りて地獄を願はざるが如き、彼応に地獄の果報を得べからずや。[p114]
 答ふ。罪報は量あるも、浄土の報は量なし。二果既に別なり。二因なんぞ一例ならんや。大論の第八に云ふが如し。[p114]
罪・福には定れる報ありといへども、ただし願を作す者は、小福を修するも、願力あるが故に大果報を得るなり。一切の衆生は皆楽を得んと願へども、苦を願ふ者なし。この故に地獄をば願はず。これを以ての故に、福には無量の報あるも、罪報は量あるなり。[p114]
と。<略抄>[p114]
 問ふ。何等の法を以てか、世々に大菩提の願を増長して忘失せざらん。[p114]
 答ふ。十住婆沙の第三の偈に云く、[p114]
乃至、身命 転輪聖王の位を失はんも ここに於てなほ 妄語し、諂曲を行ずべからず 能くもろもろの世間の 一切衆生の類をして もろもろの菩薩衆に於て 恭敬の心を生ぜしめよ もし人ありて能く かくの如き善法を行ぜば 世々に 無上菩提の願を増長することを得ん[p114-115]
と。<文の中にまた廿二種の、菩提心を失ふ法あり。見るべし>[p115]


 往生要集 巻上